第四一話 次の一手
ディートリヒが帰ってから。フィロメナは糸の切れた操り人形のように長椅子にもたれかかっていた。
「お嬢様……」
ギーゼラの声にも反応しない。
頭の中はぐしゃぐしゃだ。考えるべきことが多過ぎて、絡まりあって縺れている。
――何をすればいいのか、混乱して考えがまとまらない。何も考えられないことに苛立ちが募る。いや、違う。これは考えすぎているからこそ、思考が錯綜しているのだ。
フィロメナはゆっくりと立ち上がった。
厨房に立つ。
薬缶を火にかけ、棚に並んだ紅茶の缶の中からひとつを選んだ。
心を落ち着けたい時はカムルが良い。
茶壺に茶匙で二杯、沸き立った湯を茶壺に注ぎ入れ、砂時計を引っくり返す。
紅茶の淹れ方は身体に深く染み付いた動作で、呼吸に近い。どう動けばいいのかを考えるまでもなく、身体は動く。
砂時計の砂が落ち切るのを待って、茶漉しを通して紅茶茶碗に注ぎ入れた。
濃い赤黄色の水色に、透き通った水辺に咲く花のような清々しい香りが立ち昇る。
目を閉じて、一口飲んだ。
冷え切った身体の中に、じわじわと熱が伝わっていく。
生き返るようだ。
フィロメナは目を開けた。
ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。まずは、絡まった糸を解きほぐさなくては。順番にひとつずつ、問題を潰していくのだ。そのためには冷静でいなくてはならない。
糸の端を掴もうと、フィロメナはディートリヒの顔を思い浮かべた。
鋭い痛みを無理矢理に呑み込んだような顔で、婚約解消を持ちかけられた。
(あんな表情をさせたくなかった)
ディートリヒの、本心からの言葉とはどうしても思えなかった。だが、指摘しても認めないだろう。
(あの方はお優しいから……私を守ろうとしてくださったのだわ)
悲しかった。苦しかった。
(私は大丈夫だと、信じてもらえなかった)
共に立てる相手として、認めてもらえていなかった。そのことが、泣きたくなるくらいに悔しい。
ディートリヒは、そっと雛鳥を包むように優しく、傷ひとつ付けないように、フィロメナを扱う。
大切にされていることは、痛いほどわかる。自惚れでないのなら、確かに愛されているのだろう。
愛の言葉を軽々しく囁く人ではない。誠実な人だ。
だが、その想い故に選んだ結論が別れなのが、許せない。
(ディートリヒ様に婚約破棄を撤回してもらうためには、どうしたらいいのかしら)
フィロメナはまた一口紅茶を飲んだ。
澄んだ香りが鼻腔をくすぐる。思考がくっきりと形になっていく。
(私は――ブルーメンフェルト伯爵家は揺るぎないのだと、ディートリヒ様に証明すればいいんだわ)
そのために必要なのは、クローネンベルク侯爵アルブレヒトを納得させることだ。
七大貴族は婚姻によって特定商会へ便宜を与えず、王国市場は健全性を失わないことを証明する。
そこで、一旦思考が止まった。
そのためにこそ、地道に証拠を積み上げてきたのだ。だがその膨大な証拠も、たった三件の忖度で無意味なものになった。
(無意味? 違うわ。意味を持たせるのよ)
膨大な数の正当な契約書の内、傷とされたのは三件。それは不正ではなかったが、忖度と優遇が行われた証だ。
今後二度と、それを起こさせないと証明したら――。
(クローネンベルク侯爵は納得してくれるかしら)
いや、違う。
納得させるのだ。何としても。
(そのために、私は何をすればいい?)
フィロメナは自問自答を繰り返す。
問題があるのなら正せばいい。だが、どう正す?
善意で抑えられないのなら、制度で抑えればいい。
(では、その制度に必要なものは何?)
フィロメナは考えた。
考えて、考えて――結論を出した。
自室に籠り、制度に必要な案を思い付く限り書き出していく。
ふと、白花の湯で、ディートリヒがくれた言葉を思い出した。
――幸せにするなどと、大言壮語は吐きません。それでも、幸せにしたいと思っています。力を尽くします。
初めて聞いたディートリヒの気持ち。フィロメナへの想い。そして、フィロメナもまたディートリヒへと想いを伝えた。
お互いの想いを確認し合った――はずだった。
それすらも、もう遠い昔のことのように思える。
(ディートリヒ様は、私のことを思ってくださっている。そして、ブルーメンフェルト伯爵家の体面を――)
守るために、これ以上傷つけないために。ディートリヒは婚約破棄を申し出たのだ。
ふつふつと、腹の底から怒りが込み上げてきた。
(ふざけないで。私はそんなに弱い女ではないわ)
守られて満足している女なら、そもそもディートリヒを選ばなかった。
(まったく、どこが冷徹な才女なのかしらね)
湧き上がる怒りはそのまま推進力になる。
ふと、愛と怒りはどちらの方が力強いのだろうかと、疑問がわいた。
――いや、今考えることではない。
ペン先が紙に引っ掛かり、染みが付いた。小さく吐息をこぼし、けれどそのまま書き続ける。
それからどれくらい経ったのだろうか。控えめに扉が叩かれた。
「どうぞ」
ギーゼラだ。銀の盆に招待状が載せられている。
黙って受け取って、フィロメナは封印を見た。
――王家の紋章だ。
慎重に封を切り、中身を確認する。
フィロメナは唇の端を持ち上げた。笑みではなく、引き攣ったのだ。
だが、声は冷静だった。
「五日後、ローゼマリア王妃殿下のお茶会に出席するわ。場所は王宮の離れの温室。準備を整えて」
ギーゼラは目を見開いて、けれど一礼して下がった。
この状況下で王妃の茶会が開催されるということは、クローネンベルク侯爵側の調査も片が付いたということなのだろう。
例の三件の忖度の証拠を、あちらも掴んだのかもしれない。
きっとその席で、フィロメナは断罪される。
いや、断罪という言い方は正しくないかもしれない。
離れの温室という舞台は、おそらくは王妃の慈悲だ。玉座の間では"裁判"になる。王妃の応接間では"諮問"になる。
だが、温室での茶会ならば、宮廷の社交空間として扱われる。それは対立の場ではない。
それでも、クローネンベルク侯爵は勝利を確信しているだろう。事実、今のフィロメナはディートリヒに婚約破棄を言い渡された状態だ。
――決戦は五日後。
それまでに、新しい制度案を組み上げなくてはならない。そして、クローネンベルク侯爵を納得させる。
それは途方もない難問に思えた。目の前にそびえる壁はとてつもなく高い。
(できるだろうか、私に……。違うわ。できるかどうかじゃない。やらなくては)
フィロメナは改めて紙面に向き直った。
(五日しかない? いいえ、五日もあるのよ)
領主家と商会の取引を公開する。複数商会による入札を行う――。他にも幾つかの案を、思い付いた順に書き起こしていく。
整理するのは後で良い。今は思考する段階だ。
善意の忖度も、悪意の不正も起こさせない制度にするために、他に何が必要だろうか。
概要を固めたら、書記官に確認をしてもらおう。その上で問題点を洗い出し、更に詰める。
大丈夫。あと五日もある。
(間に合わせる)
思考の断片を書き出して、溜めていく。使えるものが幾つ残るだろうか。――そんなことも今は考える必要はない。
夜が更けて、フィロメナは寝台に倒れ込んだ。寝る直前まで、草案を練っていた。
このままでは夢の中でも考え続けるかもしれない。そんなことを考えて、フィロメナは少し苦笑した。
(ディートリヒ様は、今頃どうしているかしら)
まさかフィロメナが王妃を説得し、味方につけようと考えているなど、思いもしないだろう。
少し楽しくなった。
フィロメナの企みを、ディートリヒはどう受け取るだろう。驚くだろうか。それとも――。
うとうととしながらそんなことを考えて、何度か欠伸をした。
瞼が重い。
このところ頭を使い過ぎている自覚はあった。耳の後ろのあたりが、締め付けられるように痛い。眉間が重い。下を向きすぎて、顔は浮腫んでいるだろう。
――貴族令嬢としては失格だ。だが、商人の婚約者としてならどうだろうか。
頭の後ろが引っ張られるような感覚があった。逆らわずに身を任せる。
そしてそのまま、フィロメナはゆっくりと夢の中へと落ちていった。




