第三七話 結婚前不安症
十月。フィロメナは馬車の窓から外を覗いた。多くの領地貴族は領地へと帰還しているため、王都ヴァイスブルクは静かだ。
「やはり夏を越すと、王都は静かになりますね、姉上」
ルードヴィヒの言葉にフィロメナは頷いた。
「そうね」
秋冬の王都は春夏の活気に満ちた姿とは、また別の重厚な空気に満ちている。
だが、すべてが去ったわけではない。城下町の民は変わらず生活している。貴族も領地経営は家令に任せ切りの領主もいるし、刺激の強い都会から田舎へ戻るのを良しとしない若者も多い。
そんな中、フィロメナはブルーメンフェルト領から王都へと戻った。
「さあ、これからガンガン婚礼準備を進めますわよ」
後ろの馬車から大荷物を降ろし、ギーゼラが拳を突き上げた。
「相変わらずギーゼラは元気ですね。長旅の疲れも見せないとは」
執事のルドルフが苦笑するのに、フィロメナもルードヴィヒも頷いた。
「元気でなければギーゼラではないわね」
「毎度のこととはいえ、本当に生命力に溢れてますよね」
「はい。――ところで、お嬢様に招待状が届いております」
「あら、こちらに来ることがもう知られているのね」
「それはもう。クローネンベルク侯爵家のアーデルハイド様が、お嬢様にご執心でいらっしゃるので。社交界でも噂だそうですよ」
「……それは、ありがたいことなのかしら」
「場合によりますね」
ルドルフは粛々と招待状を差し出した。
晩餐会、新酒会、献上品品評など、静かな王都とはいえ社交界ではそれなりに催しが多い。
そして十月といえば収穫祭だ。王族による祭祀と、七大貴族による献納の儀式が行われる。
城下の民は、その後に行われる市場祭を楽しむのが主目的だ。貴族たちも参加し、身分を問わず収穫を祝う。夜に行われるルフトブラウ川の灯火祭は、恋人たちが愛を語らうのに最適だ。
「あら、ディートリヒ様からもだわ」
招待状を確認していたフィロメナが目を瞬く。
「会わせたい人がいるのですって。どなたかしら」
ギーゼラが小首を傾げた。
「ゼーベルク商会の元総帥とかではないのですか?」
「義理の父上様になる方ね。……でも、それならそうと仰ると思うの」
一言添えていないということは、誰か別の人物なのだろう。それが誰なのかは想像もつかないけれど。
「まあ、確かにそうですわね」
「とにかくお返事をしなくては。ギーゼラは荷物の整理をお願い。アルマ、便箋と封蝋一式を用意して」
「畏まりました」
◇
ひとまず人と会うのは王宮収穫祭晩餐会――王都の秋卓が過ぎてからということになった。
招待状ひとつひとつに丁寧に返事をしたためながら、フィロメナは呟く。
「とにかく帯の注文だけは、先にしておかなくてはね」
アルマが確認のため注文書の下書きをした。
「白絹に金糸、銀糸。紋様は祝福を主体に愛の女神リーベリアと、旅と導きの神ヴァンダリウスの神紋――でよろしゅうございますか?」
「ええ。……どう思う?」
アルマは目を瞬いた。
「私の意見ですか? ギーゼラの方がよろしいのでは」
「アルマの意見も欲しいのよ」
アルマは顎に手をやり首を傾げた。
「そうですねえ……良くまとまっていると思います。ゼーベルク男爵は良く航海に出られるので、海の神マレウスも良いかとも思うのですが、神紋が三つでは煩雑になります。――ですからこれが最適かと」
「わかったわ。ありがとう」
フィロメナは頷くと署名をし、溶けた蝋を垂らすと封印を施した。
「ではそれぞれに遣いを」
「お願いね」
アルマと入れ替わりにギーゼラが入室した。
「お嬢様、秋卓に着ていくドレスなのですが、どうなさいますか? 坊ちゃまと合わせるか、ゼーベルク男爵と合わせるか、または誰とも合わせずに行くか」
フィロメナは細く長く息を吐いた。そう。服装の問題もあった。
国王夫妻と同席するのだ。みすぼらしい格好であっていいはずがない。
「――ルードヴィヒと合わせましょう。葡萄酒色のドレスにするわ。金糸の刺繍の」
フィロメナが持っているドレスの中で、一番豪華なものだ。とはいえ華美ではないので、髪型を少し華やかにしなくては。それに合わせて髪飾りも必要だ。流行りを疎かにすれば侮られる。古臭いものは避けなくては。――代々受け継いでいる物ならば別だけれど。
フィロメナは少し吐息した。晩餐会は、倹約とはほど遠い行事だ。
「畏まりました。ゼーベルク男爵とは小物か飾りで揃えるのも良うございますね」
フィロメナは眉を下げて笑った。
「ギーゼラ。我が家は借金を返しただけで、裕福になったわけではないのよ」
「そうでございました」
フィロメナはやれやれと頭を振った。
「ディートリヒ様が何かと融通してくださるから、少し勘違いしてしまいそうになるわね」
「近い未来の旦那様ですし、頼っちゃって良いと思いますけどねえ。何しろ国家予算を超える財をお持ちなんでしょう? お嬢様は共同経営者になられるわけですし」
「まだ、婚約中よ。婚姻も誓約も成っていないわ」
「お嬢様は生真面目でいらっしゃるから」
ギーゼラが肩をすくめるのに、フィロメナは真顔で静かに返した。
「線を、踏み誤ったら取り返しがつかないのよ、ギーゼラ」
「……失礼いたしました」
運命神ファタリアの糸は、縦横無尽に張り巡らされている。線と糸は同じようで違うものだ。
だが、どちらも見誤れば待つのは破滅。
厄介なのは、どちらも目に見えはしないということ。
フィロメナは目を細めた。
◇
心がざわざわと落ち着かない。
フィロメナは薬缶に湯を沸かしながら、ぼうっと火を見つめていた。
王都の秋卓への参加は初めてではない。とはいえ慣れるほどに数をこなしたわけでもない。
前回よりも緊張しているのは、婚約期間中だからということもあるのだろうか。
茶匙で茶葉を二杯茶壺に入れて、薬缶の湯を注ぐ。蓋をして、砂時計を引っくり返して。
砂が落ちていくのを延々と見守る。
(何故、こんなに心が騒ぐのかしら)
気付かぬ内に、何か大変な失態を犯しているのではないだろうか。取り返しはつくのだろうか。
例えば紅茶を濃く入れ過ぎてしまっても、湯を足せばいい。風味は落ちてもそれなりに飲める。
だが、取り返しのつかないことは確かにあるのだ。何をどう足掻いても、変えられないこと。――例えば人の生死だとか。
砂が落ち切った。フィロメナは茶漉しを通して紅茶茶碗に紅茶を注ぎ入れた。
淡い琥珀色の水色に、華やかで甘美な香りが立ち昇る。その中に漂うのは、どこか落ち着いた丸みを帯びた渋み。
「チャメリーはこうでなければ」
柔らかく微笑み、フィロメナは茶碗に口をつけた。普段なら、揺らいだ水面はすぐに静まるのに。今日に限ってやけに波立っている。
(ギーゼラの言う通り結婚前不安症なのかしら)
結婚するのは初めてだ。つまり前例がない。どうしたらいいのかが、わからない。
フィロメナは目を閉じた。熱が胃に落ちる。ふくよかな香りが身体を満たしていく。
「――あと三ヶ月」
十三月の婚礼の日まで、こんな想いが続くのだろうか。何かに没頭していなければ、おかしくなりそうだった。
「さて、どうするか」
以前ディートリヒに提案されたゼーベルク配合紅茶の試作品を詰めるか。あるいは婚礼の帯の刺繍に打ち込むか。帳簿の整理、無駄の削減、結婚の心得書の熟読――。
やるべきことは探さずとも、山ほどある。




