第三六話 恋を憂う
用意された部屋へと移ってから、ギーゼラはフィロメナに向き直った。長椅子を勧め、寛がせる。
フィロメナは、長椅子に寝転びはしないまでも、深く寄りかかった。
「王都別邸に移ってからになりますが、婚礼衣装もですが、帯のこともございますね」
花嫁は花婿に、手ずから刺繍を施した帯を贈るのが習わしだ。布は婚礼衣装と共布で、主に金糸か銀糸を使う。
一方の花婿は、花嫁にベールを贈る習慣がある。こちらは花婿の手縫いではなく、職人の手によることがほとんどだ。
フィロメナは目を閉じて、白絹で織られた帯を思い浮かべる。そして、それをまとったディートリヒの姿を。
いつから、こんなにディートリヒのことばかり考えるようになってしまったのだろう。
きっと、茶の木の枝を贈られた時にはもう、心に住み着いていた。それでもずっと、気付かないふりをしていた。
ディートリヒを選ぶのは、クローネンベルク侯爵を敵に回すということで。それはブルーメンフェルト伯爵家にとって、最悪に近い選択で――。
それでも、フィロメナはディートリヒを選んだ。
「すべて手縫いで、一針一針想いを込めて――」
ディートリヒへの想いを一針ずつ、金糸銀糸で帯に縫い込む。古代文字で綴るのは愛の言葉や祝福だ。そして神々の神紋を形取る。
伝えたいことはたくさんあるのに、言葉にするのは難しい。それに、なにより声が聞きたくて――。
「最後の一針以外は、侍女や女中が請け負う場合が多いんですけどもね」
ギーゼラが笑い、フィロメナが目を開けた。
「最近は、店が請け負うこともあるそうよ」
世知辛い。フィロメナとギーゼラは顔を見合わせて笑った。
「お嬢様は、すべてご自分で仕上げたい感じですか?」
フィロメナは少し手足を伸ばした。凝り固まった首や肩が少し嫌な音を立てた。顔を顰めるフィロメナに、ギーゼラはそっと手を伸ばした。そして優しく揉みほぐす。
フィロメナは猫のように目を細めた。ギーゼラの手は気持ちが良い。
「……気持ちはね。でも、専業のお針子の刺繍に比べたら明らかに見劣りするでしょう? ディートリヒ様に恥をかかせるわけには行かないわ」
帯は婚姻の式の場で身に着けるものだ。拙いものをまとわせるわけにはいかない。
ディートリヒはレーヴェンライヒ一の豪商であり、男爵なのだ。注目度は他の誰よりも高い。些細な失態でも論って槍玉にあげられるのは目に見えている。
「いっそ、ぐちゃぐちゃでも、却って喜んでくださると思いますけど」
「駄目よ。沽券に関わるわ」
ぴしゃりと言って、けれどフィロメナは頬を押さえた。
帯の刺繍はまだ何とかなる。刺繍は貴族の子女たる者、誰しもが身に付けさせられる技能だ。ある程度の得意不得意はあるとしても、そこまで悲惨なことにはならないと思う。
それよりも気になるのは――
「……私に、ディートリヒ様の奥方が、ちゃんと務まるかしら」
アウレリア大陸一の商人を目指すという志高い男性の妻として、隣に立つに足るだろうか。フィロメナの至らなさが、ディートリヒの足を引っ張ることにならないだろうか。
気弱な呟きに、ギーゼラは目を瞬いた。
「大丈夫だと思いますよ」
フィロメナは振り返って、上目遣いでギーゼラを窺う。ギーゼラは常にフィロメナの味方だ。だからそう言うだろうことはわかっていた。
だから敢えて意地悪な質問をする。
「根拠は?」
「根拠って……」
ギーゼラは苦笑し、指折り数えて上げてみせた。
「お嬢様は領地経営の経験もお有りですし、帳簿も読めます」
ギーゼラの視線の先には、この巡察の様子を詳細に書き留めた帳面が積まれている。フィロメナは手を抜かず事細かに状況を記録し、気付いたことや困ったことなどを、後々の助けとなるように書き残している。
「ゼーベルク男爵を尊重し、慮ることもできますでしょう?」
フィロメナは頬を押さえた。相手を尊重し、慮るのは当然のことだ。それが想い人ならなおのこと。
フィロメナが不安そうにギーゼラを見た。
ギーゼラが言うほど、自分はしっかりと奥方としてやっていけるだろうか。
周りからは完璧主義者と言われるし、完璧でありたいと思う。努力は惜しまないつもりだ。ブルーメンフェルト伯爵家の名に相応しくあろうと、常に心掛けてはいる。けれど――。
「跡継ぎ問題は、男爵の努力次第ですかね」
貴族の子女として一番大切とされるのが、家を継ぐ子を産むことだ。嫁して三年、子の産めぬ女は離婚が正式に認められている。
男児が生まれれば良し。そうでなくとも女児に婿を取り、その間の子が男児であれば、家は存続する。血縁関係のある男子を養子に迎えることも、法で保証されている。
「それは――運命神ファタリア次第だと思うわ」
努力で子供は授からないだろう。男女の産み分けも不可能だ。
眉を寄せるフィロメナに、ギーゼラが恐る恐る聞いた。
「ところでお嬢様。念のためお聞きしますけど、赤ちゃんはどこから来るかご存じですよね? 甘藍畑やコウノトリが運んでくるわけじゃないのは――」
フィロメナは少しだけ、むっとしたように唇を尖らせた。
「そこまで世間知らずではないわ。……詳しくもないけれど、本で読んだもの」
ギーゼラは少し考えた。女中たちの下世話な会話などフィロメナの耳には一切入らないようにしていたし、社交界にはあまり出ていないし、婦人たちのそういう話とは縁遠い生活だったし――。
フィロメナは不安気に眸を揺らした。
「……夫婦の営みの時、声を出すのははしたないと書いてあったの。苦痛に耐えて尽くすのが、妻としての役割だって。……そんなに、苦しいのかしら」
「――あー。えっとですねー」
ギーゼラは少し遠い目をした。
「優しくしてほしいとお願いすれば、大丈夫ですよ。無体はなさらないと宣言してらしたので。――もしもそれほどにご心配なら、出産経験のある女性を幾人か集めて話を聞かれてみますか?」
フィロメナは首を横に振った。
「大丈夫。皆耐えて来た道だもの。私も耐えてみせるわ」
決意に燃えるフィロメナに、ギーゼラは何とも複雑な表情になった。




