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第三三話 呼吸ができない

「バルトロメ!」

「おわ、吃驚した。どうした」

 扉を勢い良く開けて入ってきたディートリヒに、バルトロメは思わず振り返った。

 海のような青い眸が据わっている。端的に言って、怖い。

「今は九月だな?」

「……そうだが?」

 ディートリヒは顔を覆った。そして、呻くように呟いた。

「十三月は遠過ぎる。あと三ヶ月半も待つのか。いや、三ヶ月半しかないのか。どっちだ」

 ぶつぶつと虚空に向かって呟くディートリヒに、バルトロメは引き攣った顔を向けた。何があったかはわからないが、フィロメナ絡みで何かがあったのは間違いない。

 ディートリヒはバルトロメの肩を、しっかりと両手で掴んだ。逃げられない。

「あと三ヶ月半で完璧な夫になるには何をどうしたらいいと思う?」

 ディートリヒは真顔だった。バルトロメは深々と溜息を吐いて、ディートリヒの額を軽く叩いた。

「取り敢えず、今日は寝ろ。冷静になってから改めて考えるんだ」

「――そう、だな。そうだ。とにかくまずは冷静にならねば」

 完全に舞い上がっているディートリヒを、無理矢理寝台(ベッド)に突っ込んで。バルトロメは深々と溜息を吐いた。

「ギュンターの旦那――俺の手には余るぞ、これ……」



 次の日の朝。

 フィロメナは冷静に巡察を行っていた。訂正。一見冷静だが、細かなところに動揺が見えていた。(つまず)く。帳面(ノート)(ページ)を間違える。筆記具を落とす。どれも些細なことだ。

 ギーゼラは、フィロメナの巡察に同行している書記官のファビアンと、護衛のキリアンに視線を遣った。二人ともフィロメナの動揺には気付いていないようだ。

(改めて、自覚しちゃった次の日ですもんねえ。いくら冷静沈着が持ち味のお嬢様でも、そりゃあ、いつも通り冷静にはいきませんわよ)

 ディートリヒは甲斐甲斐しくフィロメナの世話を焼いている。躓きかけたところを支え、落とした筆記具を拾い、周囲に目を配る。

 完璧だ。

 だが、バルトロメは苦い表情だ。ギーゼラとバルトロメの視線がばっちりとぶつかった。ギーゼラは視線だけで問う。バルトロメも肩をすくめる仕草だけで応えた。

「――つまり、どういうことですの?」

 偶然を装って隣に陣取り、ギーゼラはこそりとバルトロメに問う。

「どうもこうもない。舞い上がっちまってる」

 吐息混じりの台詞に、ギーゼラは改めてディートリヒを見た。

 フィロメナに向ける視線が、昨日までと比べて明らかに熱い。距離が半歩縮まった。一歩でないところが奥ゆかしいのか、そうではないのか。判断に少し困る。

「完璧な夫になるため、どうしたらいいか試行錯誤しているらしい」

 ギーゼラは眉を寄せた。

「完璧な夫ってなんですの?」

「さあ? 貴族なら、有能な領地経営ができて、武勇に優れ統率力があり、妻を尊重し、嫡出子を設ける――とかじゃないのか?」

 ギーゼラは少し考えた。

「うちの旦那様では?」

「――そうかもな。弟子入りすればいいんじゃないか?」

「ですが、ゼーベルク男爵は商人でもいらっしゃるでしょう。というか商人が本分では?」

「さあ。その辺は、本人の希望と商会の希望とが、どこまで合致してるのかまでは知らん」

 ギーゼラはフィロメナを見た。

「まあ、私はお嬢様が幸せなら何でもいいんですけども」

「それな」


 ギーゼラとバルトロメの視線の先、フィロメナは必死で虚勢を張っていた。無様な姿を領民に晒すわけにはいかない。フィロメナの失態は、そのままブルーメンフェルト伯爵家の恥になる。

 ――だから、できれば側に来ないでほしい。ちらりとそんなことを考えた。

 ディートリヒはすぐ傍でフィロメナを支えてくれている。粗相をしてもすぐに手を差し伸べてくれる。それはありがたいことで、とても嬉しいことだ。それでも――。

 フィロメナは小さく吐息をこぼした。

(私が私でいられなくなってしまう)

 ディートリヒの声がすぐ傍で聞こえる。衣擦れの音が、吐息が、体温が――。手を伸ばせばすぐに、届く場所にある。

(心臓が壊れそう)

 昨日、勢いに任せて告白してしまったことが、今更ひどく恥ずかしく、居た堪れない。


 ディートリヒは、フィロメナの長い睫毛が震えるのを見つめていた。手を伸ばせばすぐ届く場所に、愛しい女性がいる。甘い香りが鼻先をくすぐる。亜麻色の髪先がふわりと揺れる。そっとこぼされる吐息ひとつでさえ、恋しい。

(本当は今すぐにでも抱き締めて、誰の目にも触れない場所に閉じ込めてしまいたい)

 だが、そんなことをすれば、フィロメナは二度とディートリヒに微笑んでくれないだろうことくらいは、わかる。

 凛として、まっすぐに前を見据える人。どんな時でも冷静で、民を思い、力を尽くす高潔な人。清らかな白百合。軽々しく触れることなど許されない。

 それでも。フィロメナが昨日くれた言葉が、お慕いしていますというあの声が、ディートリヒを熱くする。

 ディートリヒはそっと吐息をこぼした。



 次の巡察の目的地は準都市コルンマルクト。

「単なる市場町ではなく、ブルーメンフェルト領内経済の心臓部か」

 バルトロメが馬車の窓から外を覗った。

「穀物の集積地であり、穀物・干草・羊毛などの価格が決定される場所でもあるな」

 ディートリヒが軽く頷いた。

「更には、大河と大街道に接続した倉庫都市という面も持つ、と」

 パルツィファル直々に代官を任命し、常に報告をさせているそうだ。

 当然、ゼーベルク商会の支店も存在するのだが……。

「何でお前こっちの馬車にいるの」

 バルトロメの容赦のない台詞に、ディートリヒは項垂(うなだ)れた。


「だって……ディートリヒ様が一緒だと、呼吸(いき)が上手くできなくなってしまうから」

 フィロメナは気まずげに言い訳を口にした。

「次は巡察の中でも最重要地点のひとつでもあるし、父上とルードヴィヒとも合流するし。――浮ついたままでは、合わせる顔がないわ」

 ギーゼラは口を引き結び、複雑な表情を浮かべた。

「……やっぱり、あなたも不甲斐ないと思うかしら」

「いえいえ、そういうわけではなく! 何というか……そこまで深刻にならなくとも良いのでは、と」

 フィロメナは苦い溜め息を吐いた。

「私、どんどん駄目になってる気がするわ。このままじゃ、ただのお荷物になってしまう」

「だから私と入れ替えたわけですか」

 フィロメナは決意を込めて頷いた。

「ギーゼラに、私のことをしっかりと見張っていてもらわないとね」

 ギーゼラは深々と溜め息を吐いた。

「お嬢様は完璧主義でいらっしゃるから……」

「だって、与えられた仕事は全うしなくては」

「手は抜かなくて良いですから、息抜きはしてくださいまし」

「善処するわ」


 コルンマルクトでの最重要任務は、小麦一袋の値段を見定めることだ。例年並みなら、四十銅貨(クライツ)前後で収まる。

 だが、今年は少し高めかもしれないとフィロメナは考えていた。どこの村でも返答は同じだ。

 "質は良いが豊作ではない"。

「小麦一袋でパンが八十個程度として、五人家族で二週間弱。二袋で、ひと月に少し足りないくらい。冬の備蓄には――」

 呟くフィロメナは、既に領主の娘の顔だ。浮ついた様子は欠片も見当たらない。

「さすがですわー」

 ギーゼラが感嘆し、フィロメナが帳面(ノート)を確認する。

「ファビアンに確認……いえ、今は無理ね」

 ファビアンはフィロメナの馬車に、騎馬で付き添っている。馬を操りながら帳面を確認するのは難しいだろう。

「書記官も同乗してくれたら色々捗るのに……」

 フィロメナが吐息をこぼした。ギーゼラが苦笑する。

「お嬢様、毎回それ仰いますよね。身分をお考えくださいまし」

「わかってるわ。――毎回言うけど」

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