第三三話 呼吸ができない
「バルトロメ!」
「おわ、吃驚した。どうした」
扉を勢い良く開けて入ってきたディートリヒに、バルトロメは思わず振り返った。
海のような青い眸が据わっている。端的に言って、怖い。
「今は九月だな?」
「……そうだが?」
ディートリヒは顔を覆った。そして、呻くように呟いた。
「十三月は遠過ぎる。あと三ヶ月半も待つのか。いや、三ヶ月半しかないのか。どっちだ」
ぶつぶつと虚空に向かって呟くディートリヒに、バルトロメは引き攣った顔を向けた。何があったかはわからないが、フィロメナ絡みで何かがあったのは間違いない。
ディートリヒはバルトロメの肩を、しっかりと両手で掴んだ。逃げられない。
「あと三ヶ月半で完璧な夫になるには何をどうしたらいいと思う?」
ディートリヒは真顔だった。バルトロメは深々と溜息を吐いて、ディートリヒの額を軽く叩いた。
「取り敢えず、今日は寝ろ。冷静になってから改めて考えるんだ」
「――そう、だな。そうだ。とにかくまずは冷静にならねば」
完全に舞い上がっているディートリヒを、無理矢理寝台に突っ込んで。バルトロメは深々と溜息を吐いた。
「ギュンターの旦那――俺の手には余るぞ、これ……」
◇
次の日の朝。
フィロメナは冷静に巡察を行っていた。訂正。一見冷静だが、細かなところに動揺が見えていた。躓く。帳面の頁を間違える。筆記具を落とす。どれも些細なことだ。
ギーゼラは、フィロメナの巡察に同行している書記官のファビアンと、護衛のキリアンに視線を遣った。二人ともフィロメナの動揺には気付いていないようだ。
(改めて、自覚しちゃった次の日ですもんねえ。いくら冷静沈着が持ち味のお嬢様でも、そりゃあ、いつも通り冷静にはいきませんわよ)
ディートリヒは甲斐甲斐しくフィロメナの世話を焼いている。躓きかけたところを支え、落とした筆記具を拾い、周囲に目を配る。
完璧だ。
だが、バルトロメは苦い表情だ。ギーゼラとバルトロメの視線がばっちりとぶつかった。ギーゼラは視線だけで問う。バルトロメも肩をすくめる仕草だけで応えた。
「――つまり、どういうことですの?」
偶然を装って隣に陣取り、ギーゼラはこそりとバルトロメに問う。
「どうもこうもない。舞い上がっちまってる」
吐息混じりの台詞に、ギーゼラは改めてディートリヒを見た。
フィロメナに向ける視線が、昨日までと比べて明らかに熱い。距離が半歩縮まった。一歩でないところが奥ゆかしいのか、そうではないのか。判断に少し困る。
「完璧な夫になるため、どうしたらいいか試行錯誤しているらしい」
ギーゼラは眉を寄せた。
「完璧な夫ってなんですの?」
「さあ? 貴族なら、有能な領地経営ができて、武勇に優れ統率力があり、妻を尊重し、嫡出子を設ける――とかじゃないのか?」
ギーゼラは少し考えた。
「うちの旦那様では?」
「――そうかもな。弟子入りすればいいんじゃないか?」
「ですが、ゼーベルク男爵は商人でもいらっしゃるでしょう。というか商人が本分では?」
「さあ。その辺は、本人の希望と商会の希望とが、どこまで合致してるのかまでは知らん」
ギーゼラはフィロメナを見た。
「まあ、私はお嬢様が幸せなら何でもいいんですけども」
「それな」
ギーゼラとバルトロメの視線の先、フィロメナは必死で虚勢を張っていた。無様な姿を領民に晒すわけにはいかない。フィロメナの失態は、そのままブルーメンフェルト伯爵家の恥になる。
――だから、できれば側に来ないでほしい。ちらりとそんなことを考えた。
ディートリヒはすぐ傍でフィロメナを支えてくれている。粗相をしてもすぐに手を差し伸べてくれる。それはありがたいことで、とても嬉しいことだ。それでも――。
フィロメナは小さく吐息をこぼした。
(私が私でいられなくなってしまう)
ディートリヒの声がすぐ傍で聞こえる。衣擦れの音が、吐息が、体温が――。手を伸ばせばすぐに、届く場所にある。
(心臓が壊れそう)
昨日、勢いに任せて告白してしまったことが、今更ひどく恥ずかしく、居た堪れない。
ディートリヒは、フィロメナの長い睫毛が震えるのを見つめていた。手を伸ばせばすぐ届く場所に、愛しい女性がいる。甘い香りが鼻先をくすぐる。亜麻色の髪先がふわりと揺れる。そっとこぼされる吐息ひとつでさえ、恋しい。
(本当は今すぐにでも抱き締めて、誰の目にも触れない場所に閉じ込めてしまいたい)
だが、そんなことをすれば、フィロメナは二度とディートリヒに微笑んでくれないだろうことくらいは、わかる。
凛として、まっすぐに前を見据える人。どんな時でも冷静で、民を思い、力を尽くす高潔な人。清らかな白百合。軽々しく触れることなど許されない。
それでも。フィロメナが昨日くれた言葉が、お慕いしていますというあの声が、ディートリヒを熱くする。
ディートリヒはそっと吐息をこぼした。
◇
次の巡察の目的地は準都市コルンマルクト。
「単なる市場町ではなく、ブルーメンフェルト領内経済の心臓部か」
バルトロメが馬車の窓から外を覗った。
「穀物の集積地であり、穀物・干草・羊毛などの価格が決定される場所でもあるな」
ディートリヒが軽く頷いた。
「更には、大河と大街道に接続した倉庫都市という面も持つ、と」
パルツィファル直々に代官を任命し、常に報告をさせているそうだ。
当然、ゼーベルク商会の支店も存在するのだが……。
「何でお前こっちの馬車にいるの」
バルトロメの容赦のない台詞に、ディートリヒは項垂れた。
「だって……ディートリヒ様が一緒だと、呼吸が上手くできなくなってしまうから」
フィロメナは気まずげに言い訳を口にした。
「次は巡察の中でも最重要地点のひとつでもあるし、父上とルードヴィヒとも合流するし。――浮ついたままでは、合わせる顔がないわ」
ギーゼラは口を引き結び、複雑な表情を浮かべた。
「……やっぱり、あなたも不甲斐ないと思うかしら」
「いえいえ、そういうわけではなく! 何というか……そこまで深刻にならなくとも良いのでは、と」
フィロメナは苦い溜め息を吐いた。
「私、どんどん駄目になってる気がするわ。このままじゃ、ただのお荷物になってしまう」
「だから私と入れ替えたわけですか」
フィロメナは決意を込めて頷いた。
「ギーゼラに、私のことをしっかりと見張っていてもらわないとね」
ギーゼラは深々と溜め息を吐いた。
「お嬢様は完璧主義でいらっしゃるから……」
「だって、与えられた仕事は全うしなくては」
「手は抜かなくて良いですから、息抜きはしてくださいまし」
「善処するわ」
コルンマルクトでの最重要任務は、小麦一袋の値段を見定めることだ。例年並みなら、四十銅貨前後で収まる。
だが、今年は少し高めかもしれないとフィロメナは考えていた。どこの村でも返答は同じだ。
"質は良いが豊作ではない"。
「小麦一袋でパンが八十個程度として、五人家族で二週間弱。二袋で、ひと月に少し足りないくらい。冬の備蓄には――」
呟くフィロメナは、既に領主の娘の顔だ。浮ついた様子は欠片も見当たらない。
「さすがですわー」
ギーゼラが感嘆し、フィロメナが帳面を確認する。
「ファビアンに確認……いえ、今は無理ね」
ファビアンはフィロメナの馬車に、騎馬で付き添っている。馬を操りながら帳面を確認するのは難しいだろう。
「書記官も同乗してくれたら色々捗るのに……」
フィロメナが吐息をこぼした。ギーゼラが苦笑する。
「お嬢様、毎回それ仰いますよね。身分をお考えくださいまし」
「わかってるわ。――毎回言うけど」




