第三二話 告げる想い
「イェルク、空樽とかないか?」
バルトロメが聞き、イェルクは荷馬車を見た。あいにく樽は載せていない。
「荷馬車の縁、叩きましょうか」
「それだ」
バルトロメがぱちんと指を鳴らした。
大きな音を立て、火で威嚇する。野犬たちは怯みながらも立ち去らない。
ディートリヒが小石に干し肉を巻き付けた。投石紐を振り回し、野犬の群れの背後に投げる。
群れの一部が反応し、統制が乱れた。
「今だ、行け。ゆっくりだぞ」
御者に指示を出し、馬車がゆっくりと歩みだした。
バルトロメが松明を振り回し、イェルクがゆっくりと驢馬を歩かせる。乗り手を降ろした馬と、馬車が続いた。ディートリヒが一番後ろを歩きながら、少しずつ干し肉を投げ続ける。
群れと馬車隊の間をバルトロメがゆっくりと回る。キリアンが援護する。ディートリヒはバルトロメとキリアンと合流し、そのまま群れを睨みながら後ろ向きに歩き続けた。
馬車の中でフィロメナはギーゼラに抱き締められ、縮こまっていた。
(私が動いたところで、邪魔にしかならない)
それは痛いが確かな事実だった。おとなしく守られているのが一番建設的だ。それが、とても悔しかった。
「お嬢様、大丈夫です。死んでもお守りします」
「ギーゼラ、落ち着いて」
ギーゼラの背中に手を回し、フィロメナは子供をあやすようにゆっくりと叩く。
「旅慣れた方たちよ。大丈夫。きっと上手くいくわ」
フィロメナの声は震えてはいなかった。それでも、心臓は早鐘のように鳴り響いているのを、ギーゼラは感じ取っていた。
村の端、柵が見えてきた。
だが、門は既に閉ざされていた。
野犬たちは人の気配に警戒し、立ち止まる。ディートリヒがまた干し肉を投げた。
残っていた三匹が肉を追い掛け、馬車の追跡を止めた。
ディートリヒはゆっくりと息を吐いた。
「何とかなったな、ディートリヒ。良かった。さすがはフォルトゥナリアの"お気に入り"だ」
幸運神は気紛れだ。気が向いた時だけ微笑んで、飽きたらすぐにそっぽを向く。だが、稀に"お気に入り"と称される者が存在する。
そして反対に"見放された者"も――。
バルトロメが棒の先から松明を外した。イェルクが柵の脇にある小さな鐘を叩く。
馬車のブルーメンフェルトの紋を見てだろう、慌てて門が開かれた。
「ご無事で何よりでした」
タンヴァルトの村長に出迎えられ、フィロメナは頷いた。
「夜分にごめんなさい。門を開いてくれたこと、感謝します」
「とんでもない。ご領主様の御一家を門前払いなど、天罰がくだります」
真顔で言い切る村長に、イェルクが頷く。
「お前も無事で何よりだよ、イェルク」
「ありがとうごぜえます。野犬の群れに襲われたんですが、家内も母も馬車に匿ってくだすって」
村長はうんうんと頷いて、フィロメナに深く深く頭を下げた。
「ともかく、宿をご用意いたしました。狭いところですが、どうぞおくつろぎください」
宿の部屋に通されたフィロメナは、二歩程歩いたところで椅子を巻き込んで床に崩れ落ちた。
「お嬢様!」
「今更、膝が……」
フィロメナは深く苦笑した。脚に力が入らない。
部屋の扉が叩かれる。
「フィロメナ嬢、大きな音がしたが大丈夫ですか」
フィロメナを寝台に座らせ、ギーゼラが扉を開けた。
ディートリヒが心配そうに立っていた。
ギーゼラに頷いて、フィロメナはディートリヒを部屋に招き入れる。
「ご心配をお掛けしました、ディートリヒ様。座ったままで失礼を。……立てなくなってしまいまして」
ディートリヒはフィロメナの前に跪いた。
「怖い思いをさせました。お詫びを申し上げなくては」
フィロメナは目を丸くした。
「何を仰いますか。助けてくださったのに」
「私が騎士なら、もっと上手く立ち回れたでしょう」
悔しげなディートリヒの頬に、フィロメナは手を伸ばした。そして、そっと触れる。
「それでも、私たちを助けてくださったのは騎士ではなく、ここにいらっしゃるディートリヒ様です」
「フィロメナ嬢……」
ディートリヒがフィロメナの手に触れた。そのまま握り込む。
そのあたたかさに、フィロメナの眸が潤んだ。
「……あなたが、無事で良かった。お怪我など、なさいませんでしたか?」
ディートリヒは微笑む。
「無傷です。――割と、頑丈なんですよ」
フィロメナが祈るように手を寄せ、ディートリヒの手ごと、額に押し付けた。
「天と地と、この世に存在するすべての神々に、深く感謝を申し上げます。私の大切な方をお守りくださり、ありがとうございました」
ディートリヒの目が大きく見開かれた。
「フィロメナ嬢……」
フィロメナは潤んだ眸でディートリヒを見つめる。
ゆっくりと、震える唇で想いを口に乗せた。
「あなたを、お慕いしております」
扉の前で気配を消しながら見守っていたギーゼラは、感無量で泣きそうだ。
(そのまま接吻しちゃって良いんですよ)
ゆっくりと二人の顔が近付いて、ディートリヒの唇が、フィロメナの指先に触れた。
(紳士ィ!)
内心歯噛みするギーゼラだが、なんとか体面を保ったまま静かに控えていた。
ディートリヒは名残惜しげに手を離し、立ち上がる。
「今夜はどうぞ、ゆっくりとお休みください」
フィロメナは潤んだ眸のまま、微笑んだ。
「はい。――おやすみなさい、ディートリヒ様」
ディートリヒも蕩けるような笑みを浮かべ、頷く。
「おやすみなさい、フィロメナ嬢」
ギーゼラの隣をすり抜ける際、そっと囁いた。
「正式な婚姻まで、無体を働くつもりはない。安心しろ」
ギーゼラは片手で目を覆った。
(違う……そうじゃない)
改めてフィロメナに視線を移すと、ぼんやりとした表情でディートリヒの消えた扉を見つめていた。
「ギーゼラ……」
「はい、お嬢様」
フィロメナは夢を見ているような、どこか不安定な眸でギーゼラを見た。
「どうしよう……私、ディートリヒ様が、好きだわ」
「良かったじゃないですか。ご自分のお気持ちに確信が持てて」
フィロメナの眸が潤んだ。涙が溢れる寸前で、何とか踏み止まっている状態だ。
「私……私、なんて浅ましいのかしら……」
「は? え?」
フィロメナは頬を押さえた。
「ディートリヒ様からの、言葉が欲しい。お声が聞きたい。もっと、もっとって、思ってしまうの……」
ギーゼラは苦笑した。
「恋する乙女は、皆そう思うものですわ。触れてほしい。抱き締めたい。口付けが欲しい。全部、欲しい……って」
フィロメナの頬が紅潮した。良く熟れた林檎のようだ。
「よろしいんですよ、お嬢様。ディートリヒ様は婚約者ですもの。もっと強請って、甘えて。全部、お嬢様のものにしてしまいなさいまし」
フィロメナが心配そうに呟いた。
「全部、私のものになったら、ディートリヒ様がなくなっちゃわないかしら……」
ギーゼラは吹き出した。私のお迎えする方は、なんて可愛らしいんだろう。
「お嬢様からも差し上げれば良いんです。貰った分と同じくらいお返しして。足りなかったら奪って。余ったら押し付けて。そうして、もっとたくさん――お互いに、愛を育んでいくのですわ」
フィロメナはほう、と丸く吐息をこぼした。
「……困ったわ……私、上手くできるかしら」
「上手くできなくていいんですよ。お互い間違えながら少しずつ、丁度良い感覚を探っていくのも楽しいものです」
「ギーゼラは、凄いわね。何でもわかってしまうんだわ」
「何でもはわかりません。知っていることだけですわ。お嬢様よりは少しだけ年上ですから、その分は知っていることも多いかもしれませんけれど。誰しも、得意不得意があるんですよ」
ギーゼラは笑った。
「だってほら、お嬢様が良くご存じの紅茶のこととか、政治のこととか、私にはさっぱりわかりませんもの」




