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第三一話 深い霧

 部屋に戻って、フィロメナはよろめきながら寝台(ベッド)の端に腰を下ろした。

 ギーゼラが慌てて肩を支える。

「……ギーゼラ」

「はい、お嬢様」

 フィロメナは頬を押さえて、ぽろりと涙を落とした。

「……ディートリヒ様が」

「はい」

「私を、幸せにしたいって、仰って……」

 声が震えた。ギーゼラは、フィロメナの肩を強く抱いた。

「はい」

 ぱたぱたと涙が落ちて、肩掛け(ショール)に染みを作っていく。フィロメナは顔を覆った。

「ギーゼラ、私、わたし、ディートリヒ様に、好かれているって、思って、いいのよね」

「はい! それはもう! アイドマリアに誓うと仰いました。カウフマリウスではなく!」

 誓約の女神アイドマリアと商売の神カウフマリウスは契約を請け負う姉弟神だが、重みが全く違う。有限の契約と永久の契約。アイドマリアの誓約は、トーデリウスの死の門を越えてなお、続く。

 好かれていないわけではないと思っていた。大切に扱われていることはわかっていた。

 けれど、愛されている自信がなかった。

「良うございましたね、お嬢様! 本当に……!」 

 フィロメナはギーゼラの腕の中で、ぽろぽろと子供のように涙をこぼし続けた。



 次の日の朝、フィロメナとディートリヒは食堂で顔を合わせた。途端に二人とも、ぎこちなく視線を逸らせる。

「おはよう、ございます」

「おはようございます。よく、眠れましたか」

「はい。おかげさまで」

「それは良かった」

 ぎこちなく席についた二人を見、バルトロメが溜め息を吐いた。

「何でだよ。ぎこちないにも程があるぞ」

「ですわよねー」

「おわ、おはよう。ギーゼラさん」

「おはようございます、バルトロメさん」

 ギーゼラは二人を見、(かぶり)を振った。

「何なのあの二人」

「照れくさいんじゃないんですか?」

 バルトロメは沈黙した。思春期の少年少女か。

「ディートリヒの想いは伝わったんだよな?」

「ええ」

「フィロメナ嬢は?」

「は?」

 バルトロメは真剣な表情でギーゼラを見つめた。

「ディートリヒは、フィロメナ嬢に好かれているって思っていいのか?」

「そのきれいな目玉は節穴ですか」

 思わず暴言を吐いたギーゼラだが、ふと思い当たったことがある。

「――もしかしなくても、お嬢様はゼーベルク男爵に、お気持ちをお伝えしていない……?」

 バルトロメが片手で目を覆った。

「侍女のあんたが何で知らねえのよ、そこ」

「王都にはお供できませんでしたので」

 二人は見つめ合い、揃って溜め息を吐いた。

「両片想いを拗らせてるわけか」

「お互い、自分だけがと思ってらっしゃいましたのね。――昨日までは」

「あとはフィロメナ嬢の一言で決まるのにな」

「口にしなくても察してくださいまし」

 バルトロメが少しだけ目を細めた。

「俺が言うのもなんだがな。フィロメナ嬢、表情読み難いぜ?」

 ギーゼラは目を瞬いた。

「――そう、ですわね。そうでした。私も読めるようになるまで五年ほど掛かりましたわ」

「ディートリヒに伝えてやってくれ」

「侍女がそのように出過ぎた真似を……」

 ギーゼラは少し黙った。

「しないと進展しませんかね、これ」

 バルトロメは頷いた。



「お嬢様、少々まずい事態です」

 御者に相談されたギーゼラが、頭を振り振り溜め息を吐いた。

「近年稀な濃霧だそうです。馬車が出せません」

「自然が相手では仕方がないわ。それでなくとも、ここは霧で有名だもの」

「出発が遅れるのは良いとして……いえ、全然良くはないのですけど、場合によってはタンヴァルトに着くのが夕方を過ぎます」

 次の目的地のタンヴァルトは、深い森の側にある村だ。秋は冬眠前の熊が家畜を襲うことがままある。

「獣に遭遇すると厄介ね……」

 フィロメナは口元に手を当てしばらく考え、結論を出した。

「仕方ありません。霧が晴れるのを待ち、出発。タンヴァルトを目指します。松明(たいまつ)を多めに用意して。あとは油の確認を」

 濃霧で迷って道を外れれば、遭難する可能性が高い。それよりは昼まで待つ方が建設的だ。

 ディートリヒが頷いた。

「良い判断だと思います」

「失礼ですが――」

 声が掛けられた。振り返ってフィロメナに、夫婦らしき二人が頭を下げた。その更に後ろに老婆が控えていた。

「ご領主様のお嬢様とお見受けいたします。俺たちはタンヴァルトの者です」

 ギーゼラがフィロメナに代わって前に出た。

「いかにもブルーメンフェルト伯爵家のフィロメナ様です」

「ああ、やはり。差し出がましいことですが、タンヴァルトまでご案内できるかと存じまして、お声掛けさせていただきました」

「まあ。それはありがたいことだわ。――お嬢様」

「ええ、そうね。案内を頼んでも良いかしら」

「はい。お任せくださいませ。俺はイェルク、こっちは女房のリーゼル。母のハンナです」

 ギーゼラが問い掛ける。

「それにしても、ヘルプスタの大祭の時期に村を空けるだなんて、何か大変なことでもありましたの?」

 イェルクは頭を掻いた。

「母の腰痛が悪化しまして、白花の湯(ヴァイスブリューテ)を頼りに来ました。次いでに俺の肩と、女房も足を痛めて」

「成程。それは確かに大変ですわね」

 バルトロメが少しだけ剣呑な光を眸に宿して、彼ら三人を観察する。ディートリヒが気付いて、問うような視線をやった。用心するに越したことはない、バルトロメは声を出さずに囁いた。


 一行は昼過ぎに白花の湯を出発した。イェルクの荷馬車が先導し、道を急ぐ。正確には馬ではなく驢馬(ロバ)だが。

「この辺は最近野犬の群れも出るんでさぁ。行きは大丈夫だったんですが、帰りも大丈夫だと良いんですがね」

 秋は日が落ちるのが早い。冷え始めた風が御者の耳元を駆け抜けて行く。背の高い木々の影が長く伸び、道を薄暗く覆ってきた。

 遠くで鐘の音がかすかに響き、村の気配を感じさせる。空は灰青色に変わり、森の奥はすでに夜の色を帯びていた。

 一旦馬車を停め、一行は松明を用意した。

「もうすぐですよ」

 イェルクの言葉が終わらない内に、馬がいなないた。イェルクの驢馬もイェルクに寄り添い、不安気だ。

 唸り声と荒い息づかいが近付いてきた。

「ひいっ! 出た!」

 痩せた野犬の群れが、不気味に光る目を向けた。

 馬車が大きく揺れた。ディートリヒがフィロメナを抱き留め、庇う。

「野犬です」

 フィロメナをぎゅっと抱き締めて、ディートリヒは扉に手を掛けた。

「ディートリヒ様!」

「フィロメナ嬢は中でお待ちください」

 止める(いとま)もなく、ディートリヒは外へと飛び出した。

 イェルクが松明を振って野犬たちを威嚇しているが、効果は薄い。バルトロメも後ろの馬車から出て、ディートリヒの隣に立った。フィロメナの護衛、キリアンが馬から降り剣を抜いた。ギーゼラが息を呑む。

「ギーゼラさん、出て来ないで」

 バルトロメが叱咤する。

「心配ならフィロメナ嬢の馬車に。彼女を守って」

 バルトロメは荷馬車にあった長い棒を構えた。ちらりと相棒に視線をやる。

「ディートリヒ」

「ああ。――奥方、母上殿、こちらへ」

 ディートリヒはバルトロメとキリアンに前衛を任せ、馬車と荷馬車を半円形に寄せた。イェルクの妻と母を後ろの馬車に乗せる。

 御者は馬を落ち着かせようと必死だ。ディートリヒは手綱を引くと、馬の首をそっと叩いた。

「大丈夫だ、落ち着け」

 低い声に馬が大きな目瞬く。睫毛の奥の真っ黒な目がディートリヒを見つめた。ディートリヒは頷いて、隣の馬を落ち着かせに行った。

 バルトロメは棒を大きく振るい、野犬たちを牽制する。キリアンは馬車を守るため、下がった。

「イェルク、その辺の石とか棒切れ投げ続けて」

 バルトロメが指示し、棒の先に松明を括り付けたものを振り回す。

 野犬たちが怯んだように一歩ずつ退いた。

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