第三十話 特別の距離
フィロメナとギーゼラは温泉上がりに薬草茶を飲んでいた。二人とも湯着は脱いで、簡易ドレスに肩掛け姿だ。ゆったりとしていて、胸や腰を締め付けない。
「美味しいですわ」
ギーゼラが素直に飲んでいるのに対し、フィロメナは匂いを嗅ぎ、一口含んでからゆっくりと飲み込んだ。
「加密列が主で、檸檬草、菩提樹……あと何かしら。蜂蜜はわかるのだけど」
ギーゼラは苦笑した。
「相変わらず配合を当てるのがお好きですね」
「でも、一番は紅茶よ」
たまたま聞いていた薬草茶の店主の女性が口を挟んだ。
「当たりですよ。加密列に檸檬草、菩提樹の葉を煮出して蜂蜜入れてます。お嬢さんすごいね。薬草好きかい?」
ギーゼラが一喝しようとしたのを止めて、フィロメナが微笑んだ。
「ええ。美味しかったです。ごちそうさまでした」
「また寄ってくださいねえ」
ギーゼラは唇を尖らせた。
「お嬢様、毎回名乗りをあげるの止めますよね」
「だって、あなたを止めないと、領内が私の顔を知る人ばかりになってしまうわ」
くすくすと笑うフィロメナに、安堵したような声が掛けられた。
「少しは回復できましたか」
ディートリヒがバルトロメを伴って歩いてきた。髪が少し濡れている。二人も湯に入ってきたのだろう。
「お気遣いいただきまして、ありがとうございます。薬草茶も飲みましたので、だいぶ良くなりました」
「良かった」
ディートリヒが優しく微笑んだ。蕩けるような笑みに、バルトロメが二度見する。
他人の目にはいつもの無表情が少し緩んだだけに見えただろうが、それはバルトロメが初めて見る類の柔らかさだった。
「温泉は好きですか?」
そっと手を差し出し、フィロメナは少しためらって、それでもその手を取った。
「ええ。毎年ではありませんが、何度か来たことがあります」
「ゼーミュンデにも温泉があります。ここと違い、だいぶ賑やかですが」
ゆったりと会話を交わす二人の距離は、以前よりも近付いているように見えた。
ギーゼラが力強く頷き、バルトロメが目を細めた。
「バルトロメさん」
「何だ、お嬢さん」
「ギーゼラです」
「これは失礼。ギーゼラ嬢」
「いや、嬢はいらないですが。――ゼーベルク男爵は昔からあんな感じなんですか?」
「あんな感じ、というと女性の扱いに慎重で、丁寧で、傷付けないように、細心の注意を払っている感じかな?」
「そうです。そんな感じ」
バルトロメは肩をすくめた。
「いや全然。氷の貴公子と言われるほど、取りつく島もない感じ。無視というか、視界に入らない」
ギーゼラは目を細めた。
「――お嬢様だけが、特別」
「そういうこと」
「詳しいことをお聞きしても?」
「その辺は俺も知りたい」
「ちっ、役に立たねえ男ですわね」
「……聞こえてますけど」
ギーゼラはきれいに無視した。バルトロメは白に近い銀髪を、無造作に掻き上げた。
「行きますわよ」
ずんずんと進むギーゼラの背中を見、バルトロメは溜め息を吐くと後に続いた。
四人で卓を囲み、少し遅い夕食をとる。
「美味しいわね、ギーゼラ。あなたが言っていた林檎酒の煮込みは、これのこと?」
「ええ、そうです……たぶん。前に食べたのとちょっと違うんですけど、これも香辛料や薬草が利いてて良いですね」
バルトロメが羊の乾酪を口に放り込んだ。
「本当に乾酪が美味いですね。この地方では牛より羊が主流ですか?」
フィロメナが頷く。
「はい。牛と羊は相性も悪くないので混牧もできるのですが、羊の方が身体も小さく扱いやすいので」
「成程」
ディートリヒが続けた。
「蜂蜜も副産物かと思いきや、随分と多くの物に使われていますね」
「ええ。この地方の特産のひとつと言って良いほどに成長しました」
「素晴らしい」
フィロメナは少しだけ遠い目をしてみせた。
「あとは道の整備ですね。この辺りは舗装がされていない道が多くて、荷をひとつ運ぶにも無駄な体力を使います。次の工事でどこを優先すべきか……」
呟いて、我に返った。
「いえ、もう私が考えるべきことではないのですね。ルードヴィヒに託さなくては」
ディートリヒがそっと聞く。
「寂しいですか?」
フィロメナはわずかに憂いを含んだ表情で微笑んだ。
「寂しくない、と言えば嘘になりますが」
ディートリヒの複雑な表情に、フィロメナは微笑む。
「ご案じなさらないで。ディートリヒ様に嫁ぐのが嫌になったとか、そういうことではありませんわ」
「いや、それは――」
ディートリヒが何か言い掛け、ギーゼラがぽつりと呟いた。
「結婚前不安症ですわね。結婚前は憂鬱になったり、情緒不安定になったりするものです。……結婚したことありませんけど」
バルトロメが吹き出した。
ディートリヒは真摯な眸をフィロメナに向けた。
「あなたの不安材料は、すべて取り除くつもりです。何でも言ってください」
フィロメナは首を横に振った。
「それはこちらの台詞ですわ。ディートリヒ様は私を妻に迎えることに、不安はありませんか?」
「ありません」
即答だった。バルトロメとギーゼラが顔を見合わせて目を瞬くくらい、ディートリヒは即座に断言した。
「勿論、あなたが私のせいで不快な思いをするだろうことは、不安です。私は新参者の男爵ですから、風当たりも強いでしょう」
ですが、とディートリヒは言葉を続けた。
「幸せにするなどと、大言壮語は吐きません。それでも、幸せにしたいと思っています。力を尽くします。この場で誓約神アイドマリアに誓っても良い」
レーヴェンライヒにおいて、アイドマリアへの盟約は単なる契約ではなく、神前で糸を結ぶ行為になる。誓いを破ると信用は失墜し、神殿に記録され、社会的不名誉を生涯負うことになる。
それはつまり――
フィロメナの頬が上気していく。やがて耳まで赤くなったのを見て、ギーゼラがそっと口を拭った。
「ごちそうさまでした」
どちらの意味かな、とバルトロメは思ったが、敢えて何も言わなかった。そこまで無粋ではないつもりだ。




