第二九話 白花の湯
アルトドルフでもてなしを受け、羊の乾酪に蜂蜜を掛けたものを食べる。
「胡桃と無花果を合わせても美味いんです」
「まあ、本当! お嬢様、これイケます」
ギーゼラはぱくぱくと乾酪を口に運ぶ。気持ちが良いほどの食べっぷりに、パルツィファルが笑った。
「慌てて喉に詰まらせるなよ、ギーゼラ」
「はい、旦那様!」
フィロメナは微笑んで、ゆっくりと少しずつ乾酪を口に運んでいる。ディートリヒがそれに気付いた。
周囲に気取られないようにそっと近付くと、耳元に囁いた。
「フィロメナ嬢、具合が……?」
フィロメナが顔を上げた。やはり顔色は白い。
誤魔化しきれないと思ったのか、フィロメナはわずかに苦笑してみせた。
「少しですが、疲れました」
ディートリヒが少しだけ視線を宙にさまよわせた。
「――確か、この辺りに温泉がありませんでしたか。ネヴェリアの……」
記憶を探る仕草だ。ブルーメンフェルト領の地図は頭に入っている。
「ええ、白花の湯があります。良くご存知ですね」
「宿泊施設もありますか」
「え、はい」
ディートリヒは頷いた。
「パルツィファル殿」
「ん? 何かな」
「この後、フィロメナ嬢を少しお借りしても?」
「ディートリヒ様?」
きょとんとするフィロメナに、ディートリヒは頷いた。
「少しお疲れのご様子。白花の湯にお連れしたいのですが、勝手をお許しいただけますか」
周囲に聞こえないよう声を潜めて、パルツィファルに囁いた。パルツィファルが目を瞠った。
確かに顔色が悪い。動作が少しだけ緩慢だ。
「良く気付いてくださいました。お任せしても?」
ディートリヒは力強く頷いた。
「ご配慮痛み入ります」
ディートリヒは、領民に気を遣わせないよう振る舞ってくれているのだ。フィロメナがそれを望むから。
パルツィファルは目を細めた。娘は良い伴侶を得た。
「フィロメナ。例のことを今日中に済ませてしまいたい。すまないが頼めるか」
例のことなど、何もない。領民に気遣わせないための方便だ。
「ディートリヒ殿、お願いいたします」
フィロメナが目を瞬いた。反応が鈍い。
普段ならこちらの言いたいことを、言う前に気付いて動く娘だ。これは相当疲れているなとパルツィファルは思った。
ディートリヒはフィロメナの腰を抱くと、そっと引き寄せた。
「では、お連れします。村長、スヴェン殿、皆様、もてなしをありがとう。申し訳ないが、これで失礼する」
バルトロメは面食らうが、目配せひとつで理解した。頷いて一礼し、ディートリヒに続く。
「え、お嬢様? 旦那様?」
「頼んだよ、ギーゼラ。乾酪も持っていきなさい。馬車の中で食べると良い」
疑問だらけのギーゼラだったが、ディートリヒに逆らわず寄り添うフィロメナを見て、事態を飲み込んだ。
照れもせず、距離も置かず、ディートリヒに寄り添っている。これは緊急事態だ。
「ごちそうさまでした! 行ってまいります!」
馬車はフィロメナとギーゼラ、ディートリヒとバルトロメの組み合わせで分けた。
馬車の座席に座布団を幾つも並べて、簡易寝台のようにして。ギーゼラはフィロメナを横たえた。
「気付かず申し訳ありません。侍女失格ですね」
フィロメナは微笑んだ。
「気付かれないようにしていたのだもの」
「お嬢様はいつもそう。ご無理をしても、ギリギリまで隠し通してしまわれるんだから……まったく、仕える者の気持ちにもなってくださいな」
「ごめんなさい。もう少し頑張れると思ったのだけど」
横たわったフィロメナの額を手巾でそっと拭いて、ギーゼラは溜め息を吐いた。
「白花の湯に着いたら起こしますから、どうぞお休みくださいな」
◇
白い湯着を身にまとい、フィロメナはゆったりと温泉に浸かっていた。少し温めの温度が丁度良く、心地良い。
「ご気分が悪くなられましたら、すぐに仰ってくださいね」
「ありがとう、ギーゼラ。気持ち良いわ」
ギーゼラも湯着姿で、フィロメナの向かいで湯に浸かっていた。
「そんな、じっと見つめていなくても大丈夫よ」
「目を離した隙に倒れたら、どうするんですか」
「隣に来れば良いのに」
「目を離しませんから!」
フィロメナは少しだけ苦笑した。
「わかったわ」
少し滑りのある白濁湯が肌に優しい。
白花の湯は静かな療養地だ。貴族の長逗留もままある。そして、秋霧が美しいと評判だ。
「冷えと、あと何に効くんでしたっけ」
「関節痛だったかしら」
「おばあちゃんみたいですね」
「疲労全般にも効くから、おばあちゃんでなくても良いのよ」
湯着から覗いた白い腕が湯を滑らせる。邪魔にならないよう結い上げた髪が湯気に煙る。
フィロメナを見つめ、ギーゼラはうっとりと呟いた。
「月の女神ゼレニアのようにお美しいですわ」
「温泉はネヴェリアとゼレニアの二柱に関係が深いわね。新月の湯は病を流し、満月の湯は心を癒やす。今日の月はどうだったかしら」
「……そういう話じゃないんですけども」
ギーゼラは少し苦笑した。フィロメナは自身の美しさにあまり頓着しない。フィロメナの母であるイングリドは絶世の美女で有名だった。その母と比べて自分など、という感覚なのかもしれないが、普通の感覚では十分以上に美女である。パッと人目を引く華やかさというよりは、清楚で妖精のような雰囲気ではある。
それこそ、ゼレニアのような神秘的な美しさなのだが……。
それにしても、とフィロメナは周囲を見渡した。
「今日は随分と、人がいないのね」
広い浴場は、フィロメナとギーゼラの貸し切りのようになっていた。
「時間帯でしょう。こんな中途半端な時間に入浴する者は少ないかと」
「夕食時だものね。ごめんなさい、ギーゼラ。お腹空いてないかしら」
「乾酪をいっぱいいただきましたので、大丈夫です。お嬢様こそ大丈夫ですか? 少ししか召し上がっておられないでしょう。入浴するとお腹も空きますし」
「出たら夕食にしましょう」
ギーゼラがにこにこと頬を押さえた。
「確かこの辺りは、煮込み料理が美味しいんですよ。林檎酒を使ったものとか、栗をすり潰して裏ごししたものとか――今時分なら鹿とか豚とか」
とても嬉しそうだ。
「ギーゼラは食べることが好きね」
「それはもう! 人生の楽しみの半分くらいを占めていますね、たぶん。あ、出たら薬草酒か薬草茶を飲みましょう。肌にも良いそうですよ。蜂蜜で割ってあるので苦すぎないんですって」
「……本当に詳しいわね」




