第二七話 葡萄酒
献上された赤葡萄酒を一口飲み、ディートリヒは目を瞬き、バルトロメは感嘆した。
「美味い! 軽い口当たりなのに華やかで、それでいて甘過ぎない。余韻も爽やかだ」
「ありがとうバルトロメ。お前の表現は的確だ」
ディートリヒが言い、村長のヨハンはにこにこと頷いた。
フィロメナは一口飲み、頷いた。今年の葡萄酒も上々だ。
「ここだけの話、五年物はゴルトトラウベ産にも引けを取らんと自負しております」
ゴルトトラウベとは七大貴族エーバーバッハ領にある葡萄酒の名産地だ。
「ご老人、それは少し盛り過ぎだ。ゴルトトラウベはアウレリアで一二を争う名産地だぞ」
バルトロメが茶々を入れ、ヨハンは胸を反らせた。
「何を仰るお客人。それはこれを飲んでから言ってもらいたいもんですな」
バルトロメにもうひとつ、錫の杯が差し出された。
「ほう?」
一口飲んだバルトロメは、勢い良く立ち上がった。
「これは……! 複雑で深みのある香り、舌触りも滑らかで落ち着いた印象なのに、余韻はすっきりとしている! ご老人、これは最高級品だ!」
興奮するバルトロメを座らせ、ディートリヒは謝罪した。
「申し訳ない。バルトロメは大の葡萄酒好きでして」
「いや、失礼。興奮してしまいました。ベルヴァロワにいた頃に葡萄酒にハマりましてね。出身はエストラヴィアですが」
ベルヴァロワ王国は葡萄酒の国としても知られる。アウレリア大陸で流通する一流葡萄酒のほとんどは、ベルヴァロワのものと言っても過言ではない。
フィロメナに、控え目に二杯目の杯が差し出された。
「フィロメナ様は白葡萄酒の方がお好きでしょう」
ヨハンの妻だ。
「良く覚えていてくれたわね、ハイディ」
フィロメナは微笑んで受け取った。
「まあまあ、名前まで覚えていてくださって。本当にありがたいことですよ」
にこやかに会話するフィロメナとハイディの横で、バルトロメとヨハンが何やら真剣な顔で話し合っていた。ディートリヒが振り向く。
「フィロメナ嬢」
「はい」
「こちらのヴァインベルクの葡萄酒ですが、余剰を買い取らせてもらえないでしょうか」
フィロメナが目を細めた。
「お眼鏡に?」
「ええ。正式に販路に乗せることを検討したいのです」
フィロメナは書記官のファビアンを見、ギーゼラを見、ヨハンを見た。
「承知しました。私の権限では余剰分の買い取りのみとなりますが。商談調整は父と家令に」
「感謝します」
バルトロメが拳を握った。よほど気に入ったらしい。
覚書を交わし、バルトロメとヨハンが握手を交わした。
「うちの葡萄酒が、世界に出回るかもしれんとは。いやはや長生きはするもんだね」
「ご老人、あなたとは一度酒を酌み交わしたいものだ」
「またいらした時には是非」
巡察の時間は一処にそう長く取れるわけではない。次の村へ出発する時間が近付いていた。
「では、他に私が聞くべきことはないかしら? 困っていることも、こうしてほしいという要望も、すべて出した?」
「はい、フィロメナ様。いつもありがとうございます。本当にご領主様には、足を向けて寝られません」
「フィロメナ様! お元気で!」
「ご婚約おめでとうございます!」
「お幸せに!」
口々に祝いの言葉をくれる村人たちに手を振りながら、フィロメナは少しばかり感傷的な気持ちになっていた。次にここを訪れるのは、いつになるのだろう。もしかしたら、今生で最後かもしれない。
十三月には、ブルーメンフェルト伯爵家令嬢から、ゼーベルク男爵夫人となるのだ。
「大丈夫ですよ、お嬢様」
ギーゼラがそっと身を寄せてきた。
「ゼーベルク男爵はお嬢様を閉じ込めたりしません。いつでも好きな時に、好きな所へ行けます」
フィロメナは睫毛を伏せ、そっと吐息した。
「本当に、何でもお見通しなのね、ギーゼラ」
ギーゼラはふふんと笑った。
「それは勿論。私はお嬢様の腹心の侍女ですからね」
次の村へ向かう馬車の中でも、フィロメナは帳面の確認を怠らない。だが――
「フィロメナ嬢、少し顔色が悪い。休まれては?」
フィロメナの顔色は白かった。唇も色が悪い。目の下に隈こそ浮いてはいないが、明らかに体調を崩していた。だが、フィロメナはいつものように微笑んだ。
「ありがとうございます。ですが、もう少し確認をしておきたくて――」
向かいに座るディートリヒは少しだけ眉を寄せた。
「ご無礼を」
手を伸ばし、帳面を取り上げるとフィロメナの隣に移った。
「ディートリヒ様?」
「休みなさい。馬車に酔ったのでしょう。本調子でない時の仕事は効率が落ちます」
フィロメナの頭を自分の肩に寄りかからせ、ディートリヒは溜め息を吐いた。
「あなたは真面目に過ぎる。努力は尊い。ですが加減を覚えてください」
フィロメナは目を閉じた。
「はい……申し訳ございません」
ディートリヒは優しくフィロメナの頭を撫でた。
「私も昔、馬車の中でも仕事に夢中でした。そして、良く酔った。義父に良く叱られました。効率が悪いと」
「お義父様に」
「ええ。厳しい人です。ですが指摘は真っ当でした。次の仕事を万全にするために、準備は必要です。ですが、体調を整えておかなければ、次の仕事そのものの質が落ちます」
フィロメナは目を閉じたままディートリヒの声を聞いていた。柔らかくて、あたたかい。――心地良い。
「何事も、適量を見極めなくてはならないという教えですね」
「はい。――あなたは常に上を見ている。ですが時々はご自分を省みてください。身体も心も、悲鳴をあげてはいないかと」
「――はい。肝に銘じます」
ディートリヒは苦笑した。
「ですから、あなたは真面目に過ぎる。もう少し肩の力を抜いてください」
そう言って、ディートリヒはフィロメナの髪を少しだけ弄った。
「――いや、これからは私が目を光らせていればいいのか」
「ディートリヒ様は、商会のお仕事も多忙を極めておられますのに、私のことまで気にしていたら、身が持ちませんわ」
「あなたのことは最優先事項です」
即答したディートリヒはどこまでも本気だった。だが、フィロメナはくすくすと笑った。
「本気ですよ、フィロメナ嬢。――追々、証明してみせます」
「お手柔らかに」
ディートリヒはフィロメナの頭をそっと撫でた。フィロメナはディートリヒの肩に頭をもたせ掛け、ゆっくりと息を吐く。
温もりと、包まれている安心感に、馬車の振動さえも、心地良い気がした。




