第二六話 ヴァインベルク
巡察の馬車の中、フィロメナが帳面を確認する。
「今年は甘瓜が豊作でした。春から初夏は比較的温暖。日照が多く、夏の雨が少ない傾向だった、と」
既に訪れたふたつの村は、穏やかで雰囲気の良いところだった。フィロメナは勿論、婚約者のディートリヒも歓迎され、からかわれ、あたたかいもてなしを受けた。
そんな雰囲気でも、フィロメナは仕事に手を抜かなかった。村人から聞き取りをし、畑を見、正確に記録した。
「コルンフェルトも、ヒューゲルハイムも概ねそのような報告がありました」
ディートリヒが頷いた。
「乾いた良い夏ですね。春小麦は比較的出来が良かったのでは?」
「ええ。品質の良い小麦だと思います。……ですが、収穫量はおそらく少ないでしょう」
日照が多いと実入りは良い。長雨が少ないことも病害減少につながる。質が良い小麦が育つ条件だ。だが、悪い点もある。乾燥し過ぎれば穂が軽くなるのだ。
つまり――夏が高温だと収穫量は減る。
「父は、"甘瓜が甘い年は蔵を見よ"と」
ディートリヒは成程と呟いた。
「さすがですね」
ひとつの作物の豊作に浮かれることはない。
「ですが、大麦や黒麦は安定が見込まれるでしょう」
ディートリヒの言葉にフィロメナは頷いた。
「ええ。飢饉にはならないと思われます。そこは良かった」
ただ、とディートリヒが続けた。
「葉物は残念ながら不作でしょうね」
フィロメナは少し溜め息を吐いた。葉物に乾燥は大敵だ。
「ええ。ですがその分、果樹の出来はかなり良いと思われます。葡萄は当たり年でしょう」
「ヘルプスタの大祭が豪華になりますね」
「はい。民が喜びます」
少しだけほっとしたように息を吐いて、フィロメナは改めてディートリヒを見た。
「ディートリヒ様は農業にもお詳しいのですね」
「商人ですから」
フィロメナは微笑んだ。
「いつもそれで済ませておしまいになるけれど、すごいことだと思います」
ディートリヒは含みのある表情でフィロメナを見た。
「それはあなたの方です、フィロメナ嬢」
じっと見つめられて、フィロメナは少し居心地悪そうに居住まいを正した。
「普通の令嬢は領地の視察をしても、その実態を把握できることは少ない」
「没落しかけておりましたので、使えるものを可能な限り使っただけです」
「そこで本当に"使える"ものは少ない」
フィロメナは頬を押さえた。
「褒め過ぎです」
「いいえ。適正な評価です」
フィロメナは目を瞬いて、少しだけ視線を逸らせた。照れている。
「……次の村はヴァインベルクです。祭の最高潮に訪れることになると思います」
「楽しみですね」
ディートリヒは微笑んだ。
「フィロメナ様! ようこそおいでくださいました」
村長がにこにことフィロメナを出迎えた。
「お久し振り。あなたとは二年振りね、ヨハン」
「おお、おお、覚えていてくださったとは。ええ、昨年はルードヴィヒ様がいらしてくださいました」
フィロメナは書記官のファビアンと護衛のキリアンを従え、早速聞き取りを開始していた。次々と村人たちが寄って来る。あっという間に人集りだ。
ギーゼラがふふんと得意気にディートリヒの隣に立った。
「お嬢様は凄い方でしょう」
ディートリヒは真顔で頷いた。
「私は素晴らしい女性を妻に迎えられるのだな」
ギーゼラは少しだけ目を細めた。
「ゼーベルク男爵。一度お聞きしたかったのですけれど」
「何を」
ギーゼラは獲物を狙う猫のような眼で、ディートリヒを見た。
「お嬢様――フィロメナ様を、いつ見初められたのですか」
ディートリヒのすっと眼が細められた。
ギーゼラは一瞬身を固くする。猛禽類の眼がギーゼラを射抜いた。
「まだフィロメナ嬢本人にもお伝えしていないことを、腹心の侍女とはいえ、教えるわけには」
ギーゼラは栗色の髪を揺らし、きれいに一礼した。
「それは失礼いたしましたわ。――でしたら早く、お伝えしてあげてくださいませ」
そそくさと立ち去るギーゼラを見送り、バルトロメは肩をすくめた。
「脅かし過ぎでは?」
「いや。彼女は警戒していい」
真顔のディートリヒに、バルトロメはギーゼラの背に目をやった。
「ただの侍女ではないと?」
ディートリヒは頷いた。
「さすがブルーメンフェルト。良い人材が揃っている」
「――何人か引き抜きましょうか」
バルトロメが満更冗談ではなく聞くのに、ディートリヒは顎に手をやった。
「信を得ているのはブルーメンフェルト伯爵家だ。同じだけの忠誠を築くには時間が掛かる」
「それはそうですが――あそこの少年とか」
バルトロメがちらりと視線をやった。
小屋の影から、ディートリヒのことを興味津々に見つめている。
「興味がありそうなら話を聞かせてやるといい。ただし、勧誘はするな。村から人手が減るのは望ましくない」
「了解」
フィロメナは赤子を抱いた女性と、楽しげに会話を交わしていた。
「おめでとう、グレタ」
「ありがとうございます、お嬢様。祝福をいただけますか?」
「勿論よ」
フィロメナは赤子の額にそっと唇を寄せた。
「ファタリアとフリューリンゲの祝福を。幼きこの子が優しき春を迎えんことを」
ディートリヒが近付くと、フィロメナが彼女を紹介した。
「ディートリヒ様。数年前まで我が家で女中をしておりました、グレタです。結婚を期に村に戻りました」
「グレタと申します。初めてお目に掛かります、ゼーベルク男爵。この度はご婚約おめでとうございます」
「ありがとう。そちらは今年生まれたばかりの子かな」
「はい。よろしければ祝福をいただけませんか?」
ディートリヒは少しだけ迷うような仕草を見せた。けれど、そっと赤子の額に指先を触れた。
「――厄災と浄化を司るネヴェリアよ、この幼き命を見逃し給え。良き春の訪れんことを」
フィロメナは目を瞬いた。何か深い思いが、そこにあったように見えたのだ。
「ディートリヒ様……?」
海のような青い眸が、静かに揺らぐ。
「この世から、飢えと病が消え去ればいいのにと思います」
フィロメナはそっとディートリヒの手を取った。そして、頬をそっと寄せた。
「頑張りましょう。できることをできる限り。一歩ずつです」
グレタはにこやかに微笑んだ。
「仲がよろしいのですね」
フィロメナがぱっとディートリヒの手を離した。グレタが笑う。赤子も笑った。
「この子は良い時期に生まれました。今年は良い夏でした。冬も穏やかだと良いんですが」
「そうね」
頷くフィロメナの鼻先を葡萄の香りがかすめていった。ディートリヒは少し村に視線を巡らせた。
「この村は葡萄酒作りが盛んなようですね」
「はい。後で村長から、今年の初物が献上されると思いますよ。お二人とも召し上がってください」
ディートリヒは頷いた。
「寝かせてある葡萄酒で、余剰はあるかな。味見がしたい」
「村長に聞いてみます」
「頼む」
フィロメナが柔らかく微笑んだ。
「気にかけてくださって、ありがとうございます」
「いえ。商人ですので、儲けの匂いには敏感なんです」
冗談めかした台詞。だがフィロメナは頷いた。
「ヴァインベルクの葡萄酒は質が良いのですが、販路が限られておりまして」
「ええ。大きな川からも少し遠い。となると、輸送は陸路だが大街道からは外れている」
「はい」
ディートリヒはゼーベルク商隊の巡回路を見直すことを考えた。だが、まだ明言はしない。
「――検討します」
「ありがとうございます」
「確約はできませんが」
ディートリヒの言葉に、フィロメナは微笑んだ。
「考えていただけるだけで、嬉しいのです」




