第二五話 領内巡察
九月の中旬から下旬にかけて、レーヴェンライヒでは秋の女神ヘルプスタの大祭が催される。
夏の熱が落ち、葡萄が色付き、冬小麦の種を蒔き始める頃。風が変わる。秋の訪れを迎える祭りの期間だ。
王都では舞踏会が開かれ、葡萄酒が振る舞われる祭典だが、ブルーメンフェルト領では備蓄蔵の開放、小麦の品質確認、新種の評価、貧民配給が重要視される。冬を越えるための準備期間である。
「そしてその間、領内を巡察いたします」
フィロメナはディートリヒに紅茶茶碗を差し出しながら、言った。
「ですので、十日ほど屋敷を留守にいたします。お誘いくださったのに、申し訳ございません」
建国祭の片付けも落ち着いた頃を見計らい、ディートリヒはフィロメナを誘いに来たのだ。
「父も弟もそれぞれ巡察に向かいますので、おもてなしもできず、本当に……」
「いえ、お気になさらず。しかし、それぞれと仰ると?」
「はい。巡察路が異なります。領内くまなく回るには、手が足りませんので」
ディートリヒは以前交わした話題を思い出した。
「都市が二つ、準都市が五つ、農村が四八――でしたね」
フィロメナは目を瞠った。
「覚えていらしたのですね」
「商人ですので」
ディートリヒは小さく微笑む。
「勿論、護衛は付くのでしょうが、私も同道してよろしいでしょうか。荷物持ちとしてでも良い」
「まあ、そんな、申し訳ないですわ。ディートリヒ様もお忙しいのに……」
「この機会に、ブルーメンフェルト領内の販路を拡大しようかと思いまして」
冗談だとは思ったが、その心遣いが嬉しかった。
「ありがとうございます、ディートリヒ様。ですが、私の担当は小さな農村ばかりで、畑や果樹園、羊などしかおりません。きっと退屈ですわ」
ディートリヒはフィロメナの背後に視線をやった。
「――と、いうことなのですが。婚約者との小旅行を、お許しいただけませんか、ブルーメンフェルト伯爵」
いつの間に立っていたのだろう。パルツィファルがにこにこと嬉しそうにフィロメナの肩を叩いた。
「ディートリヒ殿がよろしいのなら、喜んで。良かったな、フィロメナ。楽しい巡察になりそうじゃないか」
娘の婚前旅行を祝福する父親というのはどうなのだろう。フィロメナは苦笑した。それもこれも、ディートリヒがフィロメナに無体を働くことは絶対にない、という信頼の上に成り立つのだけれど。
「大丈夫ですわ、旦那様。私が目を光らせております」
ギーゼラが言う。
だが、ギーゼラはむしろ火遊びを推奨する性格なのだが、それもどうなんだとフィロメナは思った。
父も侍女も、フィロメナの性格をわかっているからこその提案なのだろう。そして、ディートリヒも。
「では、ディートリヒ様。ご迷惑でなければご一緒いただけますか?」
「喜んで」
ディートリヒは柔らかく微笑んだ。
顛末を聞いたルードヴィヒは不満だった。
「婚約者とはいえ、一緒の巡察というのはどうなんでしょう」
「坊ちゃま、嫉妬ですか?」
「違う! ギーゼラ、そもそもお前は姉上をお止めするのが筋だろう」
ギーゼラはふふんと鼻を鳴らした。
「お嬢様にはどなたか付いていてくださらないと、またご無理をなさってしまわれます」
ルードヴィヒはぐぬぬと唸った。それはその通りだ。領民の話を聞き過ぎるわ、対策に悩み過ぎるわで、疲労困憊になるのが毎年恒例である。望まれることを、望まれた以上で返したいフィロメナ。それは美徳なのか悪癖なのか。
「護衛はどう配分するんですか?」
「ルーカスは父上よ。あなたはベルンハルトを連れていきなさい。私はヴェルナーかキリアンを」
ブルーメンフェルト伯爵家の護衛で、一番強いのがルーカスだ。ベルンハルトは古参で、むしろ目付役といった方がいいかもしれない。
「オットーも付くのに、ベルンハルトもですか? 書記官が熟練者のグスタフなら、完全に私の子守じゃないですか」
オットーは本邸執事である。次期ブルーメンフェルト伯爵家当主のルードヴィヒはまだ若く、学ぶことが多い。オットーやグスタフの仕事を見て、何が必要かを吸収するのが目的だ。
だが、あからさまに子供扱いされるのは面白くない。少年の心は複雑なのだ。
パルツィファルは需要拠点を回り、その年の税率を決める。フィロメナは細々としたところから、領民の声を拾うのが役目だ。
「来年はフィロメナが抜ける。ルードヴィヒ、今年の成長を期待している」
パルツィファルがルードヴィヒの肩に手を置いた。
「はい!」
フィロメナは少し考えた。
「私が抜けた分を埋められるよう、同行させる書記官を三人に増やしましょうか」
若手の書記官、ファビアン、エリアス、アントンらに引き継いでもらうという道もある。
「そうだな……その辺りも考えて、組分けを考えるか」
ルードヴィヒが少しだけ俯いた。
「……姉上が嫁ぐのは、まだ先だと思っていましたが、結構すぐに来てしまいますね」
「もう、九月ですものね」
「十三月まであと四ヶ月か」
なんとなく、揃って小さく溜め息を吐いた。
めでたいことを嬉しく思う気持ちと同じくらい、寂しい気持ちがあった。
一方のディートリヒは上機嫌だった。
「というわけで十日ほど留守にする」
「阿呆か」
バルトロメが吐き捨てた。
「お前、自分が多忙を極める商会総帥だってことを忘れてないか」
「王都はハインリヒに任せてある。ゼーミュンデには隠居とはいえ親父殿もいる。幹部たちも優秀だ。私はブルーメンフェルト領内の販路拡大に専念する」
親父殿とはギュンター・ゼーベルク商会元総帥のことだ。ゼーベルク商会を作った男。そして、ディートリヒらを拾い、育てた男。
法律上はディートリヒが上だが、実務上は今でもギュンターを超える者はいない。
バルトロメは溜め息を吐いた。
「建前だろ。ていうかお前、相変わらずギュンターの旦那隠居させる気ねえだろ」
ディートリヒは頷いた。
「半分は」
「どうだか」
バルトロメは、白に近い銀髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。紫水晶のような眼が細められる。
「――よし。俺も付いて行くか」
ディートリヒが顔を歪めた。
「邪魔する気か」
バルトロメはにやりと唇の端を引き上げた。
「邪魔はしないが見物はする。情報部長としてブルーメンフェルト領の内情を見たいのもある。――お前の婚約者殿にもお目に掛かりたいしな」
「惚れるなよ」
それは半ば本気の台詞だった。
「お前が惚れるほどの傑物だからな。わからんぞ」
渋面になるディートリヒに、バルトロメは楽しげに笑った。




