第二四話 夢と現実
祭は終盤に差し掛かっていた。パルツィファルが再び登壇する。夕刻の誓いの時間だ。
パルツィファルは朗々と声を張った。
「この地は王のものにして、我らのものだ。我らのこの手で守り、繁栄させてゆかねばならぬ」
フィロメナはこの誓いの言葉が好きだった。
「小麦を蒔く手、荷を運ぶ手、剣を取る手、そのすべてが、このレーヴェンライヒを支えている。富める年に驕らず、貧しき年に見捨てず。共に耐え、生きてゆくことこそが、この地を預かる者の務めである」
ブルーメンフェルトの者で良かったと心から思う。
「我らブルーメンフェルトは、先祖より受け継ぎしこの地と、人々との結びを違えぬ。今日の実りに感謝し、明日の種を蒔かんとす」
パルツィファルは高らかに謳い上げた。
「獅子王レオンハルトの御名のもとに。レーヴェンライヒに幸いあれ!」
どっと歓声が上がった。
レーヴェンライヒ万歳。ブルーメンフェルト万歳。
幸いあれ。幸いあれ。我らの未来よ平安であれ。
壇上の篝に火が点された。祭が終わる。
天空神に祈りが捧げられ、人々は家路についた。
「お嬢様、お疲れ様でした」
「ただいま、ハーネマン」
「では、私はこれで」
フィロメナを邸の中へ送り届け、そのまま帰ろうとするディートリヒをハーネマンは引き止めた。
「ゼーベルク男爵、一服していかれませんか」
ディートリヒは一礼した。
「ありがたいお申し出だが遠慮する。今日は疲れているだろう。フィロメナ嬢も、あなたも」
フィロメナを見つめ、ディートリヒは柔らかく微笑んだ。
「また後日、改めて」
「ディートリヒ様、お気を付けて」
フィロメナはハーネマンを振り返った。
「ね、優しいお顔だったでしょう?」
そうだろうか。
ハーネマンには無表情にしか見えなかった。
「父上とルードヴィヒは?」
「旦那様はルーカスを連れ、最終見回りに。坊ちゃまは入浴中です」
「そう、わかったわ。私も帳簿を確認したら入浴します」
「ギーゼラに申し付けます」
「お願いね」
従僕に帳簿を用意させ、フィロメナは執務室へと消えた。
「で、どうでした、ハーネマンさんの見立ては」
ハーネマンの視界に、にょっきりと栗色の頭が生えた。
「……突然現れるのは止めなさい、ギーゼラ。心臓に悪い」
ギーゼラはにやにやとハーネマンに近寄った。
「ゼーベルク男爵。見たでしょう?」
「……愛想のない方ですね。気遣いは見えましたが」
「それだけですか?」
「顔の良い方でしたね。姿勢もいい。お嬢様の隣にいても見劣りしません。――そんなことより、ギーゼラ。お嬢様の入浴の準備を」
「はぁい」
ハーネマンは、ディートリヒの消えた玄関扉を見つめた。
あの男が、ブルーメンフェルトの救世主。
「――得体のしれない男だ」
ゼーベルク商会総帥に見出され、養子となり後を継いだ。優秀で冷徹で、底の知れない男。だが、フィロメナに向けた眼差しには、確かな愛情が滲み出ていたように思う。
ハーネマンは頭を振った。
フィロメナは優しい人だと言った。パルツィファルは信頼に能うと言った。ならば家令の彼に言うべき言葉はない。受け入れるだけだ。
◇
執務室の扉を閉め、祭で浮かれた心を抑える。フィロメナは机に置かれた帳簿の山に向き直った。
今までは甘く楽しい夢の時間。そして、ここからは現実に向き合う時間だ。
帳簿を確認し、フィロメナは天井を仰いだ。
「ギリギリだわ」
盛大な催事はディートリヒの資金によるものだ。民衆は集まった。食事も行き渡った。
だが、余裕はない。
「甘瓜は、安値で買い付けた物と貢納された物とで足りた。マサラチャイの茶葉も香辛料も、大量に仕入れることで値引きしてもらった」
ゼーベルク商会に凭れ掛かり過ぎている。
婚家に頼り切りになるわけにはいかない。ブルーメンフェルトは己の力で立たねばならない。
「でも……」
フィロメナは帳簿の上に崩れ落ちた。
「今はまだ余剰なんてないわ」
――夫として、妻を甘やかすのは当然の務めです。
不意にディートリヒの言葉が蘇り、フィロメナは飛び起きた。
頬が熱い。嬉しい。けれど辛い。
複雑な思いが腹の奥でぐるぐると回っていた。
甘えて寄り掛かってしまえば、楽になるのだろうと思う。だが、ただのお荷物にはなりたくなかった。
フィロメナはディートリヒと対等でありたかった。だが、借金の肩代わりをしてもらっている時点で、既に対等では有り得ない。
(私、あの方に認めてもらいたいんだわ……)
フィロメナは深く溜め息を吐いた。
◇
湯船に浸かる。少し熱めの湯がゆっくりと注がれ、フィロメナは長く息を吐いた。
「お嬢様、お疲れですね」
「んー」
手足を伸ばし、フィロメナは俯いた。
「ゼーベルク男爵ですか?」
フィロメナは小さく顔を歪めた。
「……ギーゼラは何でもお見通しなのね」
フィロメナが自嘲めいた表情を見せるのは珍しい。ギーゼラは頬杖を付いて湯船の横に座り込んだ。
「私はずっと、お嬢様を見ておりますから」
フィロメナは少しだけ口元を歪めた。
「我が家はこんな状態なのに、ディートリヒ様に頼り切りなのに……それなのに、認めて貰いたいだなんて」
声が震えた。
「私はなんて欲張りで、浅ましいのかしら」
「いいえ、お嬢様」
ギーゼラは優しい声で、けれどきっぱりと否定した。
「好きな人に認められたいという気持ちは、愛されたい、大切な存在でありたいという、人間としてごく自然な欲求ですよ」
ギーゼラは桶を持ち上げて、そっと湯船に熱い湯を足す。
「お嬢様は、いつも努力して、必死に高みを目指しておられます。良い子すぎるんです。――だから」
ギーゼラはそっとフィロメナの頭を撫でた。
「旦那様になる方にくらい、どっぷりと頼り切って、甘えてしまって良いんですよ」
「……嫌われて、しまわないかしら。疎まれたり、邪魔だって、思われたら……」
「好きな女に甘えられて、嬉しくない男はいないですよ」
優しいギーゼラの囁きに、フィロメナは顔を歪めた。
「だって、私……ディートリヒ様には求婚されたけれど、好きだって、言われたことは、ないわ……」
ギーゼラは何とも言えない表情になった。
「いやお嬢様。幾ら貴族同士の政略結婚だとしても、普通は嫌いな女性に面と向かって求婚しないです」
「そうかしら? でも、誠実な方だから……」
「だとしたら尚更のこと、書面で済ますでしょう。白い結婚を申し込まれたわけでもない。しかも、あのクローネンベルク相手にお嬢様を争ったわけですよ?」
もともと色恋沙汰に敏いとは言えないフィロメナだが、ことディートリヒに関してはかなり目が曇っているようだ。自信がないにも程がある。
「今度お会いしたら、ゼーベルク男爵に言ってやります。お嬢様に、ちゃんと愛の言葉を伝えろと」
「だめよギーゼラ。そんなことをしたらディートリヒ様が困ってしまうわ」
「そもそもですよ、お嬢様」
「何」
「ゼーベルク男爵はお嬢様と結婚したくて、ブルーメンフェルト伯爵家の借財を肩代わりしたんですよね?」
「それは私が七大貴族の血を引いているからで――」
ギーゼラは内心舌打ちした。ゼーベルク男爵、今度会ったら絞める。愛は、伝えようとしなければ伝わらないのだと、胸倉掴んで言ってやらねばならない。




