第二三話 建国祭・午後
建国祭は午後の部に入った。ここからは民が主役だ。屋台が並び、市が立つ。音楽が響き、あちこちで踊りの輪ができる。腕相撲大会や喉自慢、あらゆる催し物が始まった。
フィロメナは三角巾と前掛を取り、けれど地味なドレスのままでディートリヒを探していた。
桃の糖蜜煮を食べさせたいと思ったのだ。素朴だが、甘みと酸味の調和が何とも言えない一品だ。ブルーメンフェルト領の桃は、他領の桃より少し小振りで酸味が強い。だが、糖蜜で煮詰めると、どんな菓子よりも上等な品となるのだ。
背の高い黒い影を見つけ、フィロメナは頬を緩めた。
「ディートリヒ様」
黒い影が振り返り、柔らかく目を細めた。
「フィロメナ嬢」
「楽しんでおられますか?」
「ええ、とても。盛況ですね。そして治安が良い」
周囲を見渡し、ディートリヒが頷く。
「揉め事になりそうな気配は、まだ小さな内に摘み取られる。行き届いていますね」
「畏れ入ります。皆、協力してくれておりますので」
「お父上のお人柄でしょう」
フィロメナは嬉しそうに笑った。ディートリヒはぴくりと指を引き攣らせた。だが、表情には出さない。
「ディートリヒ様、桃の糖蜜煮を召し上がりませんか?」
「ありがたく」
差し出された硝子の器と匙を受け取る際、指先が少し触れた。その部分だけが熱を帯びた気がした。
表情を静かに保ったまま、ディートリヒは桃を一口食べた。
「思ったより酸味が強いですね。ですが糖蜜の甘さが引き立ちます。これは良い」
フィロメナは嬉しそうに微笑んだ。彼女にしては幼気な笑い方に、ディートリヒの胸がますます高鳴る。
「気に入っていただけて、良かった。私、建国祭の屋台の食べ物では、これが一番好きかもしれません」
「フィロメナ嬢はもう召し上がられましたか?」
フィロメナははっと口元を押さえた。
「あ、いえ。そうですね。ご一緒すれば良かった。――ディートリヒ様のことしか、考えておりませんでしたので」
フィロメナのあまりの愛らしさに、抱き締めたい衝動を必死に抑え付け、ディートリヒは極力、穏やかで害のない表情を作ることに苦心した。
「一口、召し上がりますか?」
「まあ、いいえ! そんな、はしたない」
フィロメナの頬がカッと上気し、それこそまるで桃のようだった。
人目があって良かった。
ディートリヒはホッとした。もしも二人きりだったなら、触れたいという衝動に抗えなかったかもしれない。
「ごちそうさまでした」
ディートリヒの皿を受け取ろとしたフィロメナを制し、その背に手を当てた。
「一緒に、皿を返しに行きましょう。その後、良ければ一曲お付き合いくださいますか?」
「はい。勿論」
今日のフィロメナは、随分と素直な表情をディートリヒに見せてくれている気がした。祭の高揚感のせいかもしれない。
だとしたら、今日の祭よ終わってくれるな。
ディートリヒはこっそりと、幸運神に祈りを捧げた。
踊りの輪がくるくると回っている。皆で手を繋ぎ、楽しげに跳ねながら。
「フィロメナ様だ!」
「お嬢様、ご一緒しませんか」
「ぜひこちらに!」
「いや、俺の隣に……」
言い掛けた青年は、ディートリヒの無言の眼力に撃沈した。青ざめてしまった青年を見、フィロメナは不思議そうに後ろを振り返った。
ディートリヒはいつもの無表情だ。
「さあ、フィロメナ嬢」
ディートリヒは何でもないような顔をして、フィロメナの手を取り、輪に加わった。
気を取り直したように音楽が響き渡る。
くるくると跳ね回り、近付いて離れて。輪が大きくなり小さくなる。
そのまま何曲か踊り続けて。フィロメナは息を切らせて笑った。
「もう無理よ。これ以上は踊れないわ」
ディートリヒがフィロメナの手を取り、引き寄せる。
「歩けないならお運びしますが」
フィロメナの頬が朱に染まった。
「何を仰いますの、ご冗談を」
傍から見れば、冷静沈着な二人。だが、内心では心臓が踊り狂っている。
フィロメナはぎこちなさを抑え付け、微笑んだ。ディートリヒは少しだけ目を細めた。
「ですが、確かにお疲れでしょう。それにあなたに会いたい領民は他にも多くいるようだ」
独占欲を隠しつつ、ディートリヒは促した。これ以上、自分以外の誰かがフィロメナに触れているのは我慢がならない。祭の場だとしてもだ。
「長居し過ぎましたね。ごめんなさい、楽しんでね」
フィロメナの場合は、領主の娘がいては気が抜けないだろうという配慮だ。
「いいえ、そんなとんでもない!」
「踊ってくださってありがとうございました!」
「一生の思い出です!」
領民たちは口々に礼を言い、フィロメナを解放した。
「事前の知識としてはありましたが――」
ディートリヒはフィロメナと並んで歩きながら、周囲へと視線を配った。
「ブルーメンフェルト伯爵家は、本当に慕われているのですね」
フィロメナは誇らしげに顔を上げた。
「身内贔屓になりますが、父は良い為政者だと思っております」
ディートリヒは目を細めた。
「そしてあなたも」
だが、フィロメナは首を横に振った。
「私は父の、いえ、ブルーメンフェルト伯爵家の付属に過ぎません」
ディートリヒは少し考えた。
「あなたは、ご自分の評価が低い気がします」
「そうでしょうか」
「ええ。褒められて当然のことを誇らない」
フィロメナは少しだけ苦笑した。
「確かに、多少完璧主義なところはあります。ですが、ブルーメンフェルトの者として在るのに、どれほど努力しても足りない気がして……」
ディートリヒは立ち止まった。フィロメナも続いて立ち止まる。
「私の妻になったら、あなたはゼーベルク男爵夫人です」
フィロメナはきりりと表情を改めた。
「はい。不足の無いよう努めたいと思っております」
ディートリヒは首を横に振った。
「いいえ、不足などあろうはずがない。あなたはあなたのままで、完璧です」
強い否定にフィロメナは目を瞬いて、眉を寄せた。
「……ディートリヒ様?」
戸惑った表情さえ愛らしい。
この女性はもうすぐ俺の妻になるのだと、大声で叫びたい気持ちになったディートリヒだが、フィロメナに嫌われそうなので止めた。
「ゼーベルクにおいでになられたら、嫌というほどあなたを甘やかすことにします」
だが、理性はだいぶ遠くまで飛んだようだなと、他人事のようにディートリヒは思った。
「え、はい……? 話の流れがよく……」
「あなたは自分に厳しすぎる。その分、誰かが甘やかさなければ釣り合いが取れません」
フィロメナは目を瞬いた。
何を言われているのか理解できるのに、意味がわからない。
「夫として、妻を甘やかすのは当然の務めです」
ディートリヒは力強く言い切った。




