第二一話 リリエン湖
ディートリヒがフィロメナを訪ったのはそれから二日後のことだった。
「邸内は建国祭の準備で少しざわついておりますし……」
フィロメナはディートリヒを見上げた。
「どうなさいますか。グロースエルンテ――当城下町をご案内致しましょうか」
どこもかしこも建国祭の準備で慌ただしく、混み合っている。
ディートリヒは少し考えた。フィロメナを雑踏に連れ出すのは避けたかったのだ。
「ブルーメンフェルト領は、どのくらいの広さなのですか?」
フィロメナは迷いなく答えた。
「いわゆる都市が二つ、準都市が五つ、農村が四八です。畑や牧場の数は……帳面を見ないと、正確なことはわかりません」
ディートリヒは目を瞠った。
「もしや正確に覚えておられる?」
「いいえ、概ねです。正確ではありません」
「村の名前や村人まで把握しておられそうですね」
それは半ば冗談だったが、フィロメナは少し首を傾げた。
「さすがにそこまでは。でも何度か会話した者はそれなりに。勿論、記録帳を見ながらになりますが」
ディートリヒは絶句した。フィロメナはこともなげに言った。
「ディートリヒ様も、ゼーベルク商会のことは概ね把握なさっておいででしょう?」
「それはまあ、総帥ですから」
フィロメナは微笑んだ。
「同じです」
「ですが、私はかなり努力を要しましたし、優秀な幹部たちがいなければ、商会は回りません」
「私もです。努力いたしました。補佐する者がいなくては、領地も回りません」
ディートリヒは少し考えた。
「――炊き出しに来ていた者のことは、覚えていますか?」
フィロメナは目を瞬いた。
「さすがに全員は。何度も来ている者は覚えていますが」
ディートリヒは沈黙した。躊躇って、けれど口にする。
「十年ほど前……」
「はい」
「――いえ、何でもありません」
「ディートリヒ様?」
ディートリヒは目を細めた。
「あなたは、多くの者を救ってきた」
フィロメナは頷く。
「貴族たる者の義務です。ですが、手の届く範囲だけです。どれほど広げても、足りないのが歯痒くもありますが」
ディートリヒは感慨深げに小さく、本当に小さく呟いた。フィロメナが小首を傾げた。
「はい? 今なんと?」
ディートリヒは微笑む。
「いえ。何も」
覚えていなくていい。
それでもあの日、フィロメナは確かに少年を救ったのだ。
◇
馬車で、領都グロースエルンテ郊外をゆったりと回る。
「向こうに見えるのが双ヶ丘。兄丘と妹丘とも呼ばれています。あちらがリリエン湖。妖精が棲むと言われているんですよ」
フィロメナは彼女にしては饒舌に語った。ディートリヒに少しでも楽しんでもらいたかった。だがディートリヒはフィロメナの顔ばかり見つめていた。
「……退屈ですか? その、あまり景色を見ておられないので」
ディートリヒは目を細めた。
「あなたの顔を見ながら、あなたの説明を聞けるので、大変有意義です」
フィロメナは頬を染めて俯いた。ディートリヒは問う。
「――リリエン湖には百合の花畑が?」
説明はちゃんと聞いている。景色も見ている。ただ、フィロメナに向ける視線が多いだけだ。
「はい。ご覧になりますか?」
フィロメナは少し言葉を切り、睫毛を伏せた。
「その……恋人と行くと、幸せになれるという逸話があります」
「是非いきましょう」
ディートリヒは即答した。
少し小振りの白百合が湖の畔に咲き誇っていた。風に揺れる姿は白い波のようだ。
「丁度良い季節ですね」
「ええ。あなたと来られて良かった」
フィロメナの髪を風がくすぐっていく。亜麻色の髪は陽に透けると鴇色に見えた。
ディートリヒはごくりと喉を鳴らした。
「ディートリヒ様?」
風が吹き抜けた。
「……あなたに、触れても……?」
吐息のような問い掛けは、確かにフィロメナの耳に届いた。
「……はい」
頬を染め、視線を揺らすフィロメナの頬に、そうっとディートリヒは手を伸ばす。輪郭をなぞり、頬に掛かった髪を除けた。
それだけ。
そっとディートリヒが吐息した。
耳の先が赤いのがわかる。熱い。フィロメナはゆっくりと手を伸ばした。ディートリヒの袖を抓む。
「……少し、お側に行っても……?」
「――はい」
ディートリヒはフィロメナの手を袖から外させると、優しく握り込んだ。
心臓が飛び出しそうだ。
けれど、フィロメナはどこか他人事のように感じていた。
頬が熱い。耳が熱い。繋いだ手が熱い。ディートリヒの顔が見たいのに、視線が上げられない。フィロメナは震える吐息をこぼした。
ディートリヒはディートリヒで、握り込んだ手の華奢さに慄いていた。少し力を入れたら壊れてしまうのではないだろうか。掌は汗ばんでいないだろうか。フィロメナに不快な思いをさせたらどうしよう。
湖面が小波を立てて、白百合の群れが揺れる。幻想的な夏の日。
二人はぎこちなく固まったまま、しばらく動かなかった。
帰りの馬車ではお互い無言だった。視線が絡みそうになる度に、慌てて逸らせて。
別れの瞬間まで、どこかぎこちなかった。
ギーゼラがにやにやと猫のような笑顔で近付いてきて、囁いた。
「進展、ございましたか?」
フィロメナは耳を赤く染めた。これはさぞかし……と期待したギーゼラに、フィロメナは小さく言った。
「……手を、繋いだわ。付添ではなく」
頬を抑えるフィロメナに、思わずギーゼラは突っ込んだ。
「幼子ですか! なんですかその初々しさ!」
普段泰然自若としているフィロメナが、年相応の少女らしく可愛いのは良い。だが。
「婚約中なのですから、もっとガツンとお行きなさいまし! 接吻のひとつやふたつして然るべきです!」
そう。本当にそうだ。ギーゼラはどんどん早口になっていく。
「だいたいですね、こんな可愛いお嬢様を前に手を出さないなんて、男として――!」
「ギーゼラ!」
フィロメナは慌ててギーゼラの口を塞いだ。
時同じくして。
ゼーベルク商会宿舎の一室で、ディートリヒは悶え転がっていた。自分の意志の強さを褒め称えたかった。繋いだ手を引き寄せたくて、抱き寄せたくて。だが、できなかった。――いや、敢えてしなかったのだ。鉄の意志だ。
紅茶を持って来た職員はディートリヒを見、呆れたように卓に茶碗を置いた。
「で? 進展は」
雑に椅子に腰掛けて、聞く態度は一職員には見えないほど尊大だ。
ディートリヒは咳払いをして乱れた髪を整えた。
「ご苦労、バルトロメ」
バルトロメ・リシャール。ゼーベルク商会の情報部長。今回はブルーメンフェルト支部の視察ということで、ディートリヒに同行した。
「いや、今更格好つけても無駄だ。――どうだ、抱擁くらいしたんだろうな」
気の置けない親友。仕事を除けばそんな間柄だ。
ディートリヒは頬を染めた。
「……手を、握った」
「……そうか。よかったな」
冷めた視線をよこすバルトロメ。ディートリヒは少しばかり不満そうに、茶碗を口に運んだ。
「褒めろ。称えろ。理性総動員だぞ」
「接吻くらいしろよ。手の甲なら問題ないだろ」
「止まれなくなったらどうする。怯えさせたら? そんな危険が冒せるか」
紅茶を一気に飲み干して、ディートリヒは溜め息を吐いた。
「リリエン湖といえば、騎士と妖精の結ばれた地だぞ。そんな絶好の場所で手を出さないとか――いや、初めてが外じゃお嬢様には酷だな」
ディートリヒの拳が飛んだ。
「フィロメナ嬢にそんな無体を働けるか!」
バルトロメの方こそ、溜め息を吐きたかった。
「これが百戦錬磨のクルトとはな……人は変わるもんだ。いや、変わらないからこうなのか」
「うるさい。俺を放蕩者のように言うな」
「自分から手は出さなくても、相手に不自由はなかっただろ」
「言い方」
バルトロメは肩をすくめた。
「まあ、いいや。結婚したら変わるだろ、さすがに。で、こっからは仕事の話だ」
バルトロメから軽さが消える。
「ウーヴェ・シュミット氏について報告します」
ディートリヒは表情を改めた。
「聞こう」




