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第十話 嵐が来た

 ブルーメンフェルト伯爵王都別邸には、アーデルハイド御用達の仕立て屋が、幾つもの布地と見本のドレスを持って来ていた。

 応接間とそれぞれの寝室、食堂、厨房以外の部屋はすべて、家具に白布が掛けられたままになっていたのだが、アーデルハイドが一室開けさせたのだ。

 みっともない状況の邸内を見られたことにフィロメナは恥じ入って(うつむ)き、ルードヴィヒは目まぐるしい現状に、反応が追いついていない。

 アーデルハイドの侍女、ヨランダが心底申し訳なさそうに頭を下げた。

「まことに、まことに申し訳ございません! 私共では、ああなってしまったお嬢様は、止められませんもので……!」

 ルードヴィヒは何度か目を白黒させると、咳払いをした。

「侍女殿、どうぞお気になさらず。アーデルハイド様のお気持ち、嬉しく思います」

 ルードヴィヒは精一杯、伯爵子息らしく威厳を見せた。

「姉は――自分のことは後回しにしてしまう性質(たち)なので、今回のようなことがなければきっと、新しいドレスなど作ることはなかったと思います」

 何とも言えない表情で布地を当てられているフィロメナを見、ルードヴィヒは優しい表情で目を細めた。


「青……いいえ、緑の方が似合うわね。そう。その淡い薄荷色なんて良いと思うわ」

 フィロメナはアーデルハイドの勢いに圧倒されて、されるがままだ。

「では、次は形ですが――フィロメナ様にはこのような膨らみが控え目のシルエットが――」

「あら、もっと華奢なラインを強調した方が良いのではなくて?」

 着せ替え人形。フィロメナはこっそりと吐息した。何がどうしてこうなった。このところ、そんなことばかりだ。

 ああでもないこうでもない、とアーデルハイドは注文を付け続け、仕立て屋が帰った頃にはフィロメナはぐったりと長椅子(ソファ)に崩れ落ちていた。

「では、出来上がったら着て見せに来てね。待ってるから」

 よろよろとフィロメナは立ち上がった。

「紅茶を、淹れてまいります……」

「そんなことしなくていいのよ。ああ、でもあなたの紅茶は美味しかったわ、フィロメナ嬢。もう一度飲みたいくらいよ」

 ヨランダがそっと缶を差し出した。

「そう(おっしゃ)ると思い、用意してございます」

「そう。さすがね、ヨランダ」

 当然のようにアーデルハイドは頷いたが、いつの間に買ってきたのだろう。ルードヴィヒは目を瞬いた。実は護衛も兼ねた密偵だったりするのだろうか。

 フィロメナの顔が輝いた。

「私には紅茶の良し悪しはあまりわからないけど、あなたならわかるでしょう?」

 フィロメナは缶を受け取り、蓋を開けた。紅茶にしては甘めの、強い香気が漂う。

「チャメリー島の夏摘み。しかも一級品ですね」

 ヨランダが驚いた。正解だ。

「すぐに淹れてまいります」

 弾むような足取りは、先程までぐったりしていたとは思えない。アーデルハイドはルードヴィヒを見た。

「あなたのお姉様、本当に紅茶がお好きなのね」

 感心したような言葉に、ルードヴィヒは何とも言えない表情で頷いた。



「美味しいわ」

 アーデルハイドは、一口飲むなり感嘆した。

「随分と甘い香りなのに、すっきりしている。なのに味が薄いわけでもなくて……美味しい」

「ご相伴にあずかり光栄です」

 ヨランダも(うやうや)しく紅茶茶碗(ティーカップ)を持ち上げ口に運んだ。フィロメナは満足そうに微笑んで、自身も一口飲んだ。

 応接間に優しく甘い香りが満ちた。だが濃すぎるわけでもなく爽やかだ。

「さっき、夏摘みって言ったじゃない。他に摘む季節があるの?」

 アーデルハイドの言葉に、フィロメナが顔を輝かせた。

「はい。一般的に春摘み、夏摘み、秋摘みがございます。摘む季節によって味や香り、水色(すいしょく)も変わります。アーデルハイド様、ご興味が?」

「……ちょっとよ。ちょっとだけね」

 少しだけ気圧されて、アーデルハイドは居住まいを正した。

「興味というなら、あなたが結婚相手としてどちらを選ぶのかの方が、断然興味があるわ」

 フィロメナは表情を改めた。

 灰青色の双眸が、凛々しく、それでいて冷徹な光を宿した。

「そのことについて、まだ申し上げることは何もございません」

 淡々と言い切るフィロメナは、先程の無邪気な少女の様とはまるで違っていて。

 アーデルハイドはぞくりと背筋を震わせた。

「あなたって……本当に底の知れない人ね」

 フィロメナは微笑んだ。

「アーデルハイド様とは、まだお会いしたばかりです。見定められてしまいましたら、浅薄さに恥じ入るしかありませんわ」



 アーデルハイドが去ったブルーメンフェルト邸は、ひどく静かになった。

「嵐のような方でしたね」

「活力に満ち溢れている方だったわね」

 フィロメナとルードヴィヒはお互いに体重を預けて、長椅子でぼんやりとしていた。

 とても疲れていた。

「父上が帰ってきてしまうわ……。夕食の準備がまだ……」

「姉上、今日は無理です。市場の軽食屋台に行きましょうよ……」

「これから行く方が大変なのではないかしら」

「なら、もういっそのこと牛乳(ミルク)で煮たパン粥にしませんか? あれなら、私でも作れると思います」

 フィロメナが苦笑した。

「未来の伯爵様に料理はさせられないわ」

「今宵だけは料理人見習いになりますよ」

 頭をくっつけてくすくすと笑うと、幼い頃に戻ったような気がした。

「私たち、本当にたくさんの人たちに支えられていたのね」

「使用人がいないのは、思った以上に大変ですね」

 フィロメナが目を細めた。

「私が結婚した暁には、きっと何とかするから。もう少し待ってて」

「姉上が望む結婚でないのなら、私はこのままの生活で構いません」

 ルードヴィヒはきっぱりと言い切った。

「幸せになってください」

「――いい子ね、ルーイ」

 フィロメナはルードヴィヒの頭を撫でて、そのまま抱き締めた。

「でも、現実を見なくてはいけないわ」

 このまま手をこまねいていても、金貨(アウルム)三百枚の負債は減らない。

「大丈夫。私は運が良いわ。だって、お二方とも、とても良い方なのだもの」

 ルードヴィヒはフィロメナに抱き締められながら、少し吐息をこぼした。

「……良い方は借金を理由に求婚しないのでは?」

「……まあ、そうかもしれないわね」

 善人では商人は務まらない、とディートリヒは言った。貴族もそうなのかもしれない。清濁併せ呑むくらいの度量がなければ、人の上に立つ資格はないのかもしれない。

 それでも。

 フィロメナは父を敬愛しているし、変わってほしいとも思わなかった。

 善い人が善い人のまま。そのままで、暮らせる世界であったら良いのに。フィロメナはそう思って、ただただルードヴィヒを抱き締めていた。

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