第九話 調子が狂う
その日。興奮して帰ってきたフィロメナは、かつてない熱量でゼーベルク商会の紅茶倉庫について語っていた。
「そして、聞いてください! そこにはなんと、あの皇帝献上茶があったのです!」
パルツィファルは、こんなにも感情を露わにする娘を、いまだかつて見たことがなかった。ルードヴィヒは若干引いている。
「パリジャート地方の紅茶ですよ! それはもう、厳重に管理なされておりまして――」
ルードヴィヒには、フィロメナの言っていることの半分もわからない。だが、こんなにも生き生きと楽しそうに語る姉に、胸が熱くなった。
「姉上は――」
うっとりと目を細めるフィロメナを見て、ルードヴィヒはパルツィファルに囁いた。
「本当に紅茶が好きなのですね」
「――そうだな」
ブルーメンフェルトが困窮していなければ、思う存分紅茶を楽しむことができただろうに――。パルツィファルは溜め息を飲み込んだ。
「それで姉上、ゼーベルク男爵はどうでした?」
フィロメナは一旦口を閉ざした。
しばらく何かをごにょごにょと呟いて、視線を逸らせた。ルードヴィヒが半眼になる。
「……男爵そっちのけで紅茶に興奮していて、ほとんど覚えてないとか言いませんよね?」
「そんなことは……。そう、玄関ホールに世界地図が飾ってあったわ。初めて東方帝国の形を知って、どこがチャンパでどこがグラーブなのか、少し掴めたのよ。母上の本の通りの位置だったわ」
「姉上。それも紅茶の話です」
パルツィファルは苦笑した。
「失礼をして、迷惑を掛けたのでなければいいさ。楽しかったようで、何よりだ」
「ご迷惑は、掛けておりません。……たぶん」
フィロメナは、ディートリヒの表情を思い出した。
――ますますあなたをゼーベルクに迎え入れたくなりました。
その言葉と柔らかな微笑みを思い出し、フィロメナは少し頬を染めた。
(だから、嫌われてはいないわ。たぶん)
こんなにも胸が高鳴っているのは、紅茶倉庫の素晴らしさのせいだ。そして、紅茶のことを理解しているディートリヒに感銘を受けたから。それだけだ。
両手で軽く頬を叩いて、フィロメナは浮ついた心を押さえつけた。
◇
それから数日。
ブルーメンフェルト邸の呼び鈴が鳴った。応対に出たルードヴィヒはしばらく固まった。
派手な美女がそこに立っていた。
「私はクローネンベルクのアーデルハイド。フィロメナ嬢に取次ぎを」
「――少々お待ちくださいませ」
慌てて引っ込んだルードヴィヒに、アーデルハイドは溜め息を吐いた。
「あの侍従、客を小応接室で持たせるくらいのこともできないのかしら」
付き従っていた侍女が、言い難そうに口を開いた。
「お嬢様……今の方は侍従ではなく――若君です」
アーデルハイドは目を瞠り、侍女を振り返った。
「何ですって」
「ですから先だって申し上げましたように――今のブルーメンフェルト伯爵家王都別邸に、使用人はおりません。……誰一人」
アーデルハイドは扇で口元を押さえた。
「まさか――本当に、自分たちだけで生活しているというの……?」
「お労しいことですが、報告書に記されたことはすべて、事実でございます」
アーデルハイドが口を開いた。何かを言う前に、扉が再度開かれた。
「お待たせいたしました。ご案内いたします」
ルードヴィヒが畏まり、一礼した。完璧な貴族の子弟の所作だと、アーデルハイドは思った。
応接間に通されたアーデルハイドは、さりげなく周囲を観察した。趣味の良い帷に、丁寧に手入れされた長椅子。卓はきれいに磨かれている。浪費家の気配はひとつもない。
(いいえ。娘が出て来たら、化けの皮を剥いでやるんだから)
静かに扉が開いた。
亜麻色の髪に灰青色の眸の娘が紅茶を運んできた。
「どうぞ。お口に合いますかどうか」
盆を横に置き、娘は丁寧に一礼した。
「フィロメナでございます。本日お越しくださいましたのは、どういったご要件でしょうか」
(地味なドレスね。それに袖口が傷んでいるわ)
だが、所作が洗練されている。確かにフィロメナは美しかった。
「クローネンベルクのアーデルハイドと申します。突然のご訪問をお許しください」
フィロメナは頷いた。アーデルハイドは目を細める。
「本日は、あなたを見定めに参りましたの。何しろ上がってくる報告が、まるで信用ならないものばかりでしたので」
フィロメナは目を瞬いた。
「従兄妹のヴィンフリートとの縁談のことです。失礼ながら調べさせていただきました」
まっすぐに見据えてくるアーデルハイドに、フィロメナは静かな視線を返した。別に睨まれたわけでもないのに、アーデルハイドの方が気圧された。
「我が家の状況をご存知でしたら、無理からぬことと存じます」
淡々と。フィロメナは頷いた。
(調子が狂う)
アーデルハイドは立て直すべく、紅茶を一口飲んだ。そして目を瞠った。
「……困窮しているというのに、紅茶だけは上等なものをお使いなのね」
フィロメナは少しだけ微笑んだ。
「チャンパの春摘みです。三級品ですが、我が家にはそれしかございませんもので」
アーデルハイドは少し乱暴に紅茶茶碗を置いた。カシャンと音が鳴った。
「これが三級ですって? 嘘よ。一級品の味だわ」
「お褒めいただき光栄です。紅茶を淹れることだけは得意としております」
嘘を言っている顔ではなかった。これがはったりなら大したものだ。
アーデルハイドは侍女を振り返る。彼女は静かに頷いた。驚きを隠せない顔で、アーデルハイドはフィロメナに向き直った。
「ブルーメンフェルト伯爵家が困窮したのは、家財を削ってまで領民に施しを与えたからというのは、本当なの」
「――そればかりが原因ではありません。事業に失敗いたしました」
「その事業、冷害に強い小麦の開発だというのは?」
「本当です。……よくご存じですね」
少し驚いた表情でフィロメナが目を瞬いた。
「――あなたが、ご家族の食事を作っているというのも、掃除や洗濯までしているというのも……」
フィロメナは少し吐息した。
「――本当です」
アーデルハイドは眉を寄せた。
「戻ってきたいという使用人たちを、呼び戻さないのは何故」
フィロメナは目を伏せた。
「――給金が、払えませんもので」
アーデルハイドは深々と溜め息を吐いた。
「呆れた。――まさか、本っ当に、領民に尽くし過ぎて、身代を潰す貴族がいるだなんて!」
身分の高い者は、それに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある。しかし、それは身分に相応しい振る舞いをせよというだけのことで、身を削って民に尽くせと言うことではないはずだ。
フィロメナは少しだけ険のある表情になった。
「私は父を尊敬しております」
「ああ、ごめんなさい。貶した訳ではないの。言い方が悪かったわ。訂正します。ブルーメンフェルト伯爵は領主の鑑よ。――やりすぎだとは思うけど」
「――何事も、突き詰めてしまうのは事実です」
軽く溜め息を吐いたフィロメナに、アーデルハイドは少し微笑んだ。
「お互い、父親には苦労させられるわね」
フィロメナは目を瞬いた。
「アーデルハイド様も?」
「頑固な父親よ。貴族の秩序を守るためなら、甥でも躊躇わずに駒にするわ」
アーデルハイドは溜め息を吐いた。
「そう、そのことよ。あなたゼーベルク商会には男爵に会いに行ったのに、ヴィンフリートは放って置くのはどういうことかしら」
「ええと……?」
「不公平だと言っているの。ヴィンフリートを袖にするだなんて、信じられないわ」
「そんな、とんでもないことです。ですがヴィンフリート様は――その、クローネンベルク邸にいらっしゃいます」
「それはそうよ」
フィロメナは少しだけ俯いた。
「お伺いするのに、相応しい服を持って参りませんでしたので――」
アーデルハイドはフィロメナを見た。地味なドレスだ。しかもだいぶくたびれている。
確かに、この服でクローネンベルク邸に来いとはいえない。アーデルハイドは溜め息を吐いた。
「あなた、誕生日はもう過ぎた?」
「はい。つい先日」
「なら、一着贈るわ」
「は?」
「ここに呼んでもいいかしら。贔屓の店があるの」
「アーデルハイド様?」
「施しではないわ。誕生日の贈物なら、受け取ってくれるでしょう?」
唖然とするフィロメナに、アーデルハイドはにやりと笑った。




