第117話 自分探しの旅は一周してここに戻ってくるだけ。
ぐうう……。と、冷たい海、大体秋から冬に変わるぐらいの海に深く沈んでいっているような感覚がする。
視界には、俺が吐いた息によってできた泡が数多に広がっている。
それが見るもの全てを邪魔している。歪ませている。
なので、俺はちょっと酔狂になってしまったのだろう。ちょっと変な方向へ考えてしまったのだろう。
俺はいつから俺なのだろうと、そんな問いを無意識に考えてしまったのだ。
俺はいつから俺なのだろう。そして、俺がどこまで、どう集まったなら、俺なのだろうか。
あの側面も、この側面も、そんな多面的に考えても、はたまた時間という軸で考えたとしてもずっと連綿と続くのはこの俺である。
それはあまりにも哲学的な問いだった。
冷たい海だというのに、頭が全く冷えていない。
呆れたものである。
もっと呆れたことにそれを解消するほどに、俺は哲学的思考というのを持ち合わせていなかった。あー考えれば、壁。そー考えれば、壁。
ぶち当たるところしかない。
無理に考えるならば、他者との境界線がわかるようになって来ただとか、自分が自分であるというアイデンティティの確立に寄るものだったり、年齢が経ったから歴史を自分だと認識しているだとか……、結局どれもこれも生呑活剥でしかないだろう。
自分の言葉で自分が説明ができない。なのに自分がいつの間にか確立している。はてさて、どういうことなのだろうか。
そもそも、自分というものを自分が理解するなんて到底できる至難の技なのではないか?本当は誰かに見てもらって、そうまるで鏡写のように屈折した自分が、つぎはぎの如く、俺を適当に理解しているのだろう。そういえば、鏡の一般的な反射率というのは大体九割で、残りの一割は失われているという話を聞いたことがある。
この言説に基けば、その一割は自分ではないのだろうかと思う。
断じて否である。
けれども、視認できない一割を俺だと言い張るにはちゃんちゃらおかしな話である。まるで、UFOを見たことないのに、居ると言い張るようなものである。
そこまで、言い切る必要はないだろうけれど。いてほしい。あってほしいくらいには願っているのかもしれない。
その一割に。
俺は何があってほしいと思っているのだろう。
本当の自分だとか?そんなものがあるのだったら、この九割は嘘ということになる。いつもいつも認識される表層がそれだと、ほとんど嘘つきじゃないか。そんな人だとはまさか思いたくないものである。じゃあ早くその一割を探さなければならないじゃないか。
自分探しの旅である。
九割他人からの視認であるのならば、外に残りの自分があるとは思わないけれど。その言葉はまるで、自我が空洞みたいである。まるで俺のためにある言葉であるようだ。
だからと言って、内側に自分を探すことなんてしない。
俺はそれを放棄してしまった側の人間である。
人は考える葦だなんてパスカル大先生は名言を残したが、その残した言葉は俺にまで届くことはなかったのである。
聞こえていたかもしれないけれど、とうとう俺は耳を塞いでしまったというべきだろう。いや、だってなんか。考えた方が辛くないだろうか。考えるというのは、一生果てのない論理を突き詰めなければならないのだ。
二つの選択肢があったとしよう。なんでもいい。極論でも。生死の問題でも。
どうせどちらも良くて、どちらも悪い。両面性。考えればキリがないと言ったところだろう。ならば、どっちを選んだとしてもどっちでもいい。選ぶということに関して、どうでもいいのかもしれない。
ここで下手に自我を出して、失敗したなら、後悔するからだ。自我を出すということは少なからず、選んだ選択肢に愛着が沸くということだ。それではコロコロと瞬間的な合理性を追求することはできない。
それどころか、学びもせずに、そうして再び同じ過ちを繰り返してしまう。これを過度に繰り返してしまって、俺がようやく人生で学んだことかもしれない。だから、俺はこういう人間に仕上がってしまったのかもしれない。
根本的に選択権をなくすという……。
まさかね。
まあ。結局は泡沫のような妄言である。
何も結論はなかったし……。




