第116話 いまわね。
「ぶあっ」
私は溶媒の中から出る。
びちゃりと、床に垂れる。
ダラダラと、スライムみたいな粘液が纏う。
はあ。これを取り去る作業をしなければならないのか。
「まあ。そんなことは後でも出来ること」
私は一応部屋の周りを確認する。
誰もいない部屋。
懐かしい匂い。うん。ゲームでは感じることのできない。
間違いなくこれは現実だった。
一足先に戻ってしまったのかと、私の部屋へと赴く。まだ、お兄ちゃんは眠っているようだった。
だけれど、ポットの表示はもう、離脱状態だとなっている。
相当な負担というのが掛かっていたのだろう。疲労感で、眠りこけてしまっているのだ。起きるのに時間が掛かるやもしれないな、と思った。
なら、それも好都合であった。
お兄ちゃんに《《罹っている呪い》》を解呪するだけだった。
お兄ちゃんが眠っているポットに近付いた。
「い、いや。この気は正気なのだろうか」と触れようとしたその手を意図的に止めてしまった。
正気ではなかったら、その、解呪を出来ない。再び世界へ送り込んでしまう。
私は知っている。正気かどうかを確かめる方法を。
その忌々しい方法を。引き出しへと言って、その道具を取る。
それを自分の方へ、突き立ててしまう。
「ははは」
でも、怖くて出来ねえや。そんなことを思っているうちは正気ではないのだろう。
だから、私は思いっきり……。
そのアイスピックを眼球へと。
「おいおい。そんな物騒なこと自分で滅多にするものじゃないよ」
耳元から囁かれる。
知っている声。おぞましい声。だ、誰もいなかったはずだ。そう、確認したはずなのに……。腕が掴まれて、針が、眼前でびたりと止まっている。
「ど、どうして」
どうして。
「ははは」とおどけて言う。おどけて、その声の主はつかみどころがない。
「君は正気さ。大丈夫そんなことをする必要はないから。正気だったなら、言われた通りに出来ないだろう?」
口を噛む。
「そうそう。逆に訊きたいくらいだ。どうして、放置したままだったんだ?ウイルスたちを」
「それは……」
息が詰まる。
言ってしまったら、どうなるか分かる。契約違反だ。
「言うことはなしということらしい。残念だ」
冷酷にそんなことを言い張って、持っていた腕を押し込んだ。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
アイスピックが目に刺さる。
プチリとつぶれてしまった。そんな軽快なことは思わない。ただただ激痛が走るだけだった。
「ほら、正気だっただろう?」
冷酷に声を掛けられるが、そんなの聞けやしない。
右から左へと流れていく。
ただ悶絶の限りだった。そ、そんな意味の分からない。ど、どうしようと、取り敢えず、お兄ちゃんを……、、、床を這いずって麓へと近づく。
「あら。無力なあなたでも守ろうとする気はあるらしいのね」
お兄ちゃんの寝ているポットである。それに寄りかかる。
「無駄」
そう言って、鈍器で背中を殴られる。
「ああああああああああ」
激痛が。
背中が、背中が熱い。眼を抑えていた手を、背中にやる。
同じ液体が付着した。おぞましくなった。いや、可笑しくなった。
「や、やっぱり殺そうと……」
「心外ね。これでお仕舞よ」と平然と言う。
「あーあ。血がついてしまったよ。水道借りるわ」
友達みたいに言う。
水道が流れる音が聞こえる。本当に洗っているらしい。
「お兄ちゃんになんかあったら……承知しない……。から」
「何もしないさ。何もしないさ」
二回繰り返す。
「いまわね」
「今は」なのか「今際」なのかは聞けるようなものではなかった。
うちはその前に気を失ってしまったのだから。
「どうせからっぱで、守る価値もない人なのにね」




