第105話 楽しみは最後に取っておくと食べられるものだ。
あれから、天川先輩とは日が暮れるまで、テニスに明け暮れた。
「シッキー。なんか腕上がっているんじゃないかな」なんていう何気ない一言でも随分と嬉しさが最絶頂を迎えそうだ。
これなら、あの天才性の塊である華月結音にも勝ててしまうんじゃないかと、そんな淡い期待を抱いた。
そう。これが青春というものを全力で謳歌している感じがしていた。
修行編という感じがしていた。
勉強、勉強しか、記憶がなくて、 まともな夏休みの記憶は聖良さんと海へ行った。まあ着いたら海だったあの場面以来で、結構楽しかっただろう。
あの見知らぬ人と言ったカラオケは楽しかった思い出に含めるかと聞かれれば、楽しさよりも、不気味さが勝っていた。俺の好みの曲を百発百中で当て続て、表面上は盛り上がれたやもしれないけれど、やっぱり気味が悪いとしか思っていなかったのだ。純粋な楽しさに分類できるものではなかった。
まあ。細々と過去の出来事と比較したけれど、つまり結論は今日は過去一楽しかったという単純明快な回答である。そして、その楽しさは引き続くと言うことである。
俺はまだ、気が早いと言うのに旅行のための服を取り集めていた。
どういう服を着て行けば、先輩を驚かせることが出来るのか。それを考えるだけで精一杯だった。それで、一通り選び終わったら、それを収納しなければならないと思った。あれ。仕舞ってあったはずの旅行カバンがない。
どこにやったのだろうか。見当もつかない。
「なあ。妹よ。旅行用カバンってどこ遣った?」
「はあ?なんで」と嘲笑したような声をリビングでテレビを観ていた妹にされる。
「いやいや、旅行に行こうと」
「一人で?」
「そんな訳」
俺が一人で旅行なんてしたら、道が未知すぎて、迷子になってしまうだろう。近所のゲームセンターですら迷っていた音痴さだぞ。多分、帰ってくる頃には死体になって発見されてしまうことだろう。
「じゃあ。なんな訳?」
「はいはい、良くぞ聞いてくださいました」
はあ。と呆れたような顔をする。
「テニス部の先輩と旅行へ行くのです」と腰に手を当て、エッヘンと言った。
「あー。それはとどのつまりは合宿と言うこと?」
「なんですぐに気づくんだよ」
二人でデートに行くみたいに誤認させる言い方をしたと言うのに。
「いや、お兄ちゃんカノジョいるじゃん。何、浮気するつもり?」
それも悪くないな。どうせここはゲームなのだ。
どっちも選べないと言って葛藤するラブコメディではないのだ。ハーレムエンドくらい用意してくれても大歓迎だ。
「そんな碌でもない兄に育てた覚えはないのだけれど」
「育てられた覚えもない」
「まあまあ。お兄ちゃんが元気そうで何よりだよ」
「なんだよ。俺はずっと元気だぞ?」
ほらほら、こうやって力こぶぐらいできる。
「いや、一時期死んだように……、」
はて、何のことやら。
「忘れているのならいいけれど」
忘れている?微かにそんなような記憶はあるけれど、それを意識的に思い出すことは出来なかった。
その様子を妹は悲しそうに眺めていた。そんな筋合いで見られるようなことはしていないと思っているのだが、認識が違うみたいだ。
「旅行カバンは多分一段目の押し入れにあるから。ああ。布団が無造作に押し込まれているから、それに押しつぶされないようにね」
どこぞの国民的アニメの押し入れだ。仕方がないか。先輩とのロマンスのためなら、どこぞの危険地帯だって分け入ってやる。
そんな意気込みで、俺は押し入れのある部屋まで行った。
けれど、唐突にピロピロピロと着信音が鳴る。
太腿がバイブレーションで震える。
俺はちょっと無視をする。それどころではないからだった。
だけれど、ブルブル、ピロピロと携帯が喚き散らす。
はて、こんな時間に電話をかけてくる、しかも連続コールをしてくる非常識な人は誰だろう。まあ。聖良さんのデートのお誘いか、華月さんによる勉強日程の設定だろうとなんて、見当をつけた。つけるだけで、億劫であったけれど、そこまでされたなら、出ざるを得なかった。
でも、その見当は外れていた。
意外も、意外。
「星宮?」




