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職員室。
「おや、もう来たのか。昼を食べてからで良かったのに。」
志摩津先生が広げたばかりの彩りの良い愛妻弁当に蓋をして、弥の方を向いた。
「話というのは他でもない、夏の間だけでも剣道部に参加してもらいたくてな。」
弥は面食らった。
「は?」
何で俺がという、意味不明すぎてなんとも形容のしがたい表情を向けたまま唖然としている。額の傷は剣道部の主将に因縁を付けられたのが原因なのだから。
「西郷、もとい剣道部の主将の高杉があのあと、私が処分を下す前に自ら謹慎を申し出てな、今も竹刀を握ろうとしない。部にも顔を出さずひたすら走り込みや筋トレなどの基礎練習だけを自分でやっているんだ。お前に申し訳ないことをしたと悔やんでいる。」
まあ、当然だろうなと弥は思った。停学や退学にならなかっただけ彼は恵まれている。
「お前も知っているとおり、夏休みになれば大会がある。が、今のままではな。高杉抜きではまず勝てん。」
志摩津先生はやおら立ち上がって弥と目線を合わせ、
「お前が剣道部の練習に参加してくれれば高杉も前に進めると思う。どうだろう。この役目退屈男にぴったりなんだがな。」
はっははと笑う。
話の趣旨は理解できたが、自分がそこまでしてやる義理はないという思いから少々冷たくきっぱりと、
「先生、すいません。俺、夏休みは北海巨島で住み込みのバイトをすることになってるんで剣道部には参加できません。」
「いつ向こうへ行くんだ?」
「休みに入ったらすぐに。」
「いつ帰ってくる?」
「夏休みいっぱい向こうにいます。」
志摩津先生は落胆して椅子にストンと腰を落とした。
「そうか・・・残念。今年は(大会は)諦めるか。」机の上の弁当箱を見やった。
弥には申し訳ないという気持ちはなかったが、どうにもすっきりしない何かを感じた。北海巨島へ行けば自分も澪もどうなるか分からない。もしかしたらまともに帰ってこられないかもしれないという不安もあった。だから思わず口走ってしまった。
「あの、先生、テストが終わったら主将と勝負させて下さい。練習には参加できないけど、一度だけなら。」
*
2日後、昼下がりの武道場に弥はいた。午前中で期末テストは全て終了した。
ゆっくりと剣道部から借りた防具を身につけていく。体育の授業で数回経験があるから自分で装着できた。だが、弥の経験はその程度でしかない。主将はもとより、入部して数ヶ月の1年生部員にすら勝てないだろう。弥に勝算は全くなかった。ただここでやっておかないと悔いを残すという衝動に駆られただけだ。
西郷どんこと主将の高杉が防具に身を包み現れた。
身支度を終えた弥の前に進むといきなり土下座して謝罪した。俄訛りでなく標準語になっている。
弥は高杉に立つよう促すと道場の真ん中へ進んだ。高杉もあとに続き、弥と対峙した。志摩津先生が合図をかける。
「三本勝負だ。礼!」
お互いに腰から上体を曲げる。
弥は姿勢を正すと、左手に持っていた竹刀を抜き、授業で習ったように中段に構えた。ところが、高杉は竹刀を抜きもせず両腕を下げたまま立っている。
「高杉、構えんか!」
志摩津先生が高杉に指導するが応じる様子がない。面の格子越しに見える弥の眼は静かに高杉を見据えている。
「お前がそのつもりならこちらから行かせてもらうぞ。」
弥がそう言っても高杉は動かない。弥は志摩津先生に目で合図した。
「始め!」
先生が試合開始を告げると、弥は気合いは発せず無言で棒立ちの高杉の面に真っ直ぐ打ち込んだ。乾いた音が道場に響く。
「一本!」
志摩津先生のカウントが響く。それでも高杉は動かない。格子の向こうに見える彼の目は閉じられたまま口を一文字に結んでいる。表情は暗い。
それを見た弥は面を脱ぎ捨てた。髪を手ぬぐいでまとめているから額の傷が目立つ。
「目を開けやがれっ。」
弥の怒声を聞いて恐る恐る瞼を持ち上げた高杉は動揺した。たじろいで右足を下げた。視界の真っ正面に彼が付けた三日月形の傷が。
弥が高杉を睨みつけながら左手の人差し指で額の傷を指し、志摩津先生が初めてその傷を見たときに言ってた台詞を思い出して口にした。
「天下御免の向こう傷。」
高杉はわななき始めた。左手に持っていた竹刀を落とす。
「面を外せ高杉。お前にもこの向こう傷を付けてやる。それで相子だ。」そういって再び竹刀を構えた。
志摩津先生が止めに入ろうとしたが、高杉が震える手で制して、面を外し足下に置いた。
竹刀も持たず震えながら、それでも視線は額の傷に釘付けになりながら立っている。
「上等だっ。」
弥は竹刀を上段に構え直して飛びかかった。
ドシンと大きな音が道場を包んだ。
高杉が床に転がっている。だが、怪我一つしていない。
高杉は弥が打ち込んでくる一瞬目をつむってしまった。その直後体に大きな力が加わりうしろへ吹っ飛ばされた。何が起きたのか理解できていない。
転がったまま弥を見た。
弥は打ち込むと見せかけて体当たりした。高杉は普段から鍛えているとはいえ、同じくらいの体格の弥に不意を突かれれば吹っ飛びもする。弥は転がっている高杉の顔の横の床に竹刀の切っ先を叩きつけると、
「俺に申し訳ないと思うならうじうじしてないで精神も鍛えやがれ。剣道は身体だけ鍛えりゃいいものじゃないだろ。」
授業で体育の先生が言っていた言葉だ。
高杉ははっとした。
「そうやって部のみんなにも迷惑かけて、それで主将と言えるのかよ。」
高杉は何も返せなかった。歯を食いしばるように唇を固く結んで、床に打ち込まれた竹刀の切っ先を見つめている。涙を堪えているようにも見えた。
「一つ約束しろ。夏の大会で優勝してこい。でなけりゃその時は本当に天下御免の向こう傷を付けてやる。」
そういって弥は道場の外へ姿を消した。
*
更衣室の前で澪が待っていた。試合を見るのが怖くて道場の中へは入れなかった。
心配そうに弥を見る。手ぬぐいのおかげで三日月の傷が映えている。
「大丈夫。ありがとう。」
「これで心置きなく北海巨頭へ行ける。」
弥はそれだけ言って着替えに中へ入っていった。




