EP 5
誰も犠牲にならない、優しい医療と政策の形
「はい、じっとしててね。すぐによくなるから」
翌朝、村の広場の一角で、キャルルが両手を淡い月の光で包み込んでいるのを見つけた。
彼女の目の前には、農作業中に鎌で指先を少し切ってしまった村人が座っている。キャルルは昨日あれほど血を吐くほど衰弱していたにもかかわらず、その小さな切り傷に対して、自身の命を削る『月光薬』の治癒魔法を使おうとしていたのだ。
「ストップです、キャルル」
私は足早に近づき、ふわりと光を放ち始めた彼女の手を背後からそっと包み込んで止めた。
「えっ、カグヤ?」
「その程度の浅い切り傷に、あなたの魔法を使う必要はありません。……村長さん、昨日約束したでしょう? 自分を削らない仕組みを作るって」
私はキャルルのピンと立った兎耳を軽く撫でて落ち着かせると、村人に向き直った。
「少し指を見せていただけますか。……うん、大丈夫。水で洗い流せばすぐに塞がる傷です」
霞が関での激務の中で、私は幾度も『リソースの適切な配分』という課題に直面してきた。
どんなに優秀な人材であっても、些細な雑務から重大な決断まで全てを一人で背負わせれば、必ずシステムは崩壊する。今のキャルルは、まさにその状態だ。
村人たちが彼女の優しさに甘え、彼女もまた「自分が必要とされたい」という強迫観念から、どんな小さな怪我や病にも全力の魔法を使ってしまう。これでは、本当に命の危機が迫った時に彼女が倒れてしまう。
「必要なのは『トリアージ(優先度順位の決定)』と、誰でも使える『一次診療』の仕組みね」
私は小さく呟くと、ポケットから『エンジェルすまーとふぉん』を取り出した。
昨日から少しずつ貯めていた小ポイントを使い、現代の医療物資を取り寄せる。虚空から現れた段ボール箱の中には、市販の『消毒液』『ガーゼ』『絆創膏』、そして『化膿止めの軟膏』が入っていた。
「カグヤ、それは?」
「現代の……私の故郷の道具よ。これを使えば、魔法がなくても小さな怪我は治せるわ」
私は村人の指を清潔な水で洗い、消毒液を含ませたガーゼで拭き取ると、軟膏を塗って絆創膏を丁寧に巻いた。
「ほら、これでバイ菌も入りません。二、三日もすれば綺麗に治りますよ」
「おお……痛みがスッと引いた。カグヤ様、ありがとうございます!」
村人は感心したように自分の指を眺め、深く頭を下げて去っていった。私のスマホに、また『小ポイント獲得』の通知が小さく灯る。
「すごい……カグヤの道具、魔法みたいだね」
キャルルが目を丸くして絆創膏の箱を見つめていた。
「魔法じゃないわ。ただの『知識』と『道具』よ。……キャルル、あなたの魔法は、絶対に誰にも治せないような重傷や、命に関わる急病の時のために温存しておくの。それが『最後の切り札』としての、村長の正しい役割よ」
「最後の、切り札……」
「ええ。そうすれば、あなたは毎日血を吐かなくて済むし、村の人たちも『いざという時は村長がいる』という最大の安心感を得られる。誰も犠牲にならない、優しい医療の形よ」
私が政策の基本を説くように優しく言い聞かせると、キャルルの赤い瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「わたし、ずっと……無理しなきゃ、全部わたしがやらなきゃ、見捨てられると思ってた。でも、そうじゃないんだね……」
「当然よ。あなたはもう一人じゃないんだから」
私は彼女の小さな身体を抱きしめた。
ヤンデレ気質になるまで自分を追い詰めていた少女の背中から、ようやく本当の意味で重い荷物が下りた瞬間だった。
*
午後。私はヒエンの鍛冶場を訪ねていた。
村の空き家を一つ改修し、簡易的な『診療所』を作るためだ。
「なるほど。怪我人を寝かせるための、清潔で少し高さのある『ベッドの枠』と、道具を煮沸消毒するための『深い金属鍋』だな」
私の書いた簡単な図面を見て、ヒエンが頼もしげに頷いた。
「ええ。異世界……いえ、この村には『衛生』や『感染症予防』という概念が乏しいわ。清潔な環境を保つだけでも、傷の治りは格段に良くなるの」
「感心するぜ、カグヤ。アンタ、ただの旅人じゃないな? まるで一つの国を動かしてる軍師か宰相みたいだ」
ヒエンが煤けた顔で、ニカッと笑う。
推しの朝倉月人くんに瓜二つのその無邪気な笑顔を向けられ、私は思わず心臓を跳ねさせた。
「そ、そんな大層なものじゃないわ。ただの……元・役人よ」
「役人? よくわかんねぇが、アンタの考える仕組みは合理的で、どこか温けぇな」
彼はそう言いながら、炉の火を巧みに操り、あっという間に鉄の枠組みを打ち上げていく。彼の指先から放たれる微かな紅蓮の炎が、鉄を飴細工のように柔らかく変形させていた。凄まじい技術と能力だ。
「よし、一休みしようぜ。はい、これ」
ヒエンが作業の合間に、焼き網の上で炙っていた何かを小皿に乗せて差し出してくれた。
「これは?」
「肉椎茸の炙り焼きだ。醤油草って植物の絞り汁を少し塗ってある。疲れた時は、美味いもんを食うのが一番だからな」
香ばしい醤油の焦げる匂いが、たまらなく鼻腔をくすぐる。
遠慮なく一口いただくと、肉厚なキノコの食感と共に、牛肉のような強烈な旨味と出汁の香りが口いっぱいに弾けた。
「……美味しいっ! 本当に、あなたのお料理は絶品ね」
「ははっ! アンタが美味そうに食ってくれると、作り甲斐があるってもんだ」
推し似のイケメンが、私のために料理を作り、美味しそうに食べる私を見て満足そうに笑っている。
前世の私が知ったら、ショック死してしまうかもしれない贅沢な時間だった。
*
数日後。
ヒエンの協力で作った簡易診療所が本格稼働した日。さっそく、最初の「危機」が訪れた。
「村長! カグヤ様! 森で木を伐っていた若者が、魔獣に脚をえぐられて……っ!」
血まみれになった村の若者が、戸板に乗せられて運び込まれてきた。
太ももから大量の血が流れ、顔面は蒼白になっている。通販の消毒液や絆創膏でどうにかなるレベルではない。
「キャルル、出番よ!」
「うんっ!」
私が鋭く声をかけると、キャルルは迷いなく若者のそばに駆け寄り、その両手を傷口にかざした。
「月の光よ、命を繋いで!」
彼女の身体から、これまでになく純度の高い、眩いほどの銀色の魔力が溢れ出す。
ここ数日、小さな怪我の治療を私と通販の道具に任せ、しっかりと食事と睡眠をとっていたキャルルの魔力は、完全に満ちていた。
光が傷口を包み込むと、見る間に肉が盛り上がり、失われた血管と皮膚が再生していく。
ものの十秒も経たないうちに、致命傷だったはずの脚の傷は完全に塞がり、若者の顔に赤みが戻った。
「あ、あれ……? 痛くない……俺、治ってる……!」
「よかったね! もう無茶しちゃ駄目だよ!」
キャルルは、血を吐くことも、ふらつくこともなく。
元気いっぱいの明るい笑顔で、ピースサインを作ってみせた。
「村長……ありがとうございます! 本当に、ありがとうございます……っ!」
若者と、付き添ってきた家族が、ボロボロと泣きながらキャルルにすがりつく。
「えへへ……わたし、村長だもん。村のみんなを守るのが仕事だからね!」
キャルルはウサギの耳を嬉しそうにパタパタと揺らしながら、照れくさそうに笑った。
自分を犠牲にする悲壮な英雄ではなく、皆に頼られ、愛される『本当の村長』の顔がそこにあった。
ピロリンッ!!
その瞬間、私のポケットの中で、今まで聞いたことのない大きな電子音が鳴り響いた。
驚いてスマホの画面を見ると、そこには目を疑うような桁数のポイントが加算されていた。
『特大ポイントを獲得しました(才能の開花・迷える者の救済)』
(……そうか。ただ物資を配るよりも、人を見出し、その人が本当の場所で輝けるように導くこと。それがこのシステムにおける最大の『善行』なのね)
私は、皆の中心で太陽のように笑うキャルルを見つめながら、この『善行ポイントシステム』の本質を完全に理解した。
これなら、いける。このポイントと私の知識があれば、村の課題なんて一つ残らず解決できる。
*
その夜。
私は診療所の縁側に座り、自作の備前焼のぐい呑みで冷たい陽薬茶を飲んでいた。
隣には、いつの間にかヒエンが腰を下ろしている。彼の手には、夜食にと持ってきてくれた、甘いハニーかぼちゃの包み焼きがあった。
「キャルルの奴、今日はすげぇいい顔して笑ってたな」
「ええ。彼女はもう大丈夫よ。本当の自分の輝き方を知ったから」
私はぐい呑みを月に掲げ、静かに微笑んだ。
霞が関では実現できなかった、誰も潰れない優しい仕組み。それがこの異世界の小さな村で、一つ形になった。
「今日も一人、輝けたわね」
静かな達成感が、温かいお茶と共に胸の奥へと染み渡っていく。
けれど、村を本気で「国家」として自立させるためには、まだ決定的に足りないものがあった。
それは、複雑なルールを運用するための『法』と、冷徹な『マネジメント能力』だ。
「……おや。辺境の掃き溜めかと思えば、随分と理にかなった動線の診療所があるではありませんか」
月明かりの下、ふいに冷たく、それでいて酷く洗練された声が響いた。
振り返ると、診療所の入り口に、一人の男が立っていた。
仕立ての良すぎる漆黒の燕尾服。手には白手袋。そして、その頭には、夜の闇に溶け込むような『狼の耳』が生えている。
「非効率と情けに塗れたこの村に、マネジメントの概念を理解する者がいるとは。……少しは、刺激的な主になり得るでしょうか」
男は片眼鏡の奥の瞳を細め、品極まるお辞儀をした。
それは、このポポロ村の運命を決定づける、もう一人のワケありの天才との出会いだった。
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