EP 3
満月の暴走村長と、温かいハーブティー
土埃を上げて村に飛び込んできたのは、恐ろしい魔獣ではなく――傷だらけの兎耳の少女だった。
ズザァァァァッ!!
私の目の前で、凄まじいブレーキ音が夜の静寂を切り裂く。
分厚いソールの安全靴――私が前世で知っている『タローマン』の製品によく似た特注靴――が、地面を深く抉りながら強引に制動をかけた。
風圧で私の髪が大きく煽られる。
土煙が晴れたあとに立っていたのは、両手に無骨なダブルトンファーを握りしめた、一人の少女だった。
年は二十歳くらいだろうか。頭にはピンと立ったウサギの耳。ラフで動きやすい現代風の服はあちこちが破け、土と血に塗れている。
「……ッ、ハァ、ハァ……」
少女は肩で荒い息をしながら、油断なく周囲を睨みつけた。その直後、ゴホッ、と酷く咳き込み、口の端から真っ赤な血をこぼす。
「え……? あんた、誰? 村の人間じゃないよね」
私と、私の背後で眠る老人を交互に見て、少女は警戒心を露わにした。
しかし、老人の顔色が幾分か良くなっているのを見ると、ふっとトンファーを下ろし、ふらつく足取りでこちらへ近づいてきた。
「よかった、生きてる。……ごめんね、国境の近くでルナミスとレオンハートの馬鹿共がまた小競り合いを始めてさ。鎮圧して、全員ひっくるめて回復させてたら、戻るのが遅くなっちゃった」
事も無げに言うが、異常な事態だ。
軍隊の戦闘に単身で介入し、あろうことか敵味方関係なく全員を回復させてきたというのか。
「私はキャルル・ムーンハート。このポポロ村の村長だよ。……おじいちゃん、今、私が楽にしてあげるからね」
少女――キャルルは、老人のそばに膝をつくと、自身の胸元に手を当てた。
彼女の身体から、淡い月の光のような魔力が立ち上る。それが彼女の命を削って生み出される『月光薬』の輝きなのだと、私は直感で理解した。
これ以上、力を使えばどうなるか。彼女の青白い顔色と、今も吐き続けている血が物語っている。
ガシッ。
私は迷わず手を伸ばし、光を放とうとするキャルルの両手首を強く掴んだ。
「……っ!? な、何するの! 離して!」
「駄目です。これ以上力を使えば、あなたが死んでしまいます」
「離してってば! 私が治さなきゃ……私がこの村の皆を守らなきゃ、駄目なんだ!」
キャルルは血走った目で私を睨みつけ、振り払おうと身をよじった。
しかし、マッハの速度で走り軍隊を鎮圧するほどの脚力を持つはずの彼女は、ただの人間である私の力すら振り解けないほどに衰弱しきっていた。
「私が……私が役に立たなきゃ、この村に私の居場所なんてなくなっちゃう……っ。また、一人ぼっちになっちゃうんだから……!」
悲痛な叫びだった。
それは単なる責任感ではない。誰かに必要とされたい、ここにいていいのだと許されたいという、ヤンデレ気質にも似た、痛々しいほどの強迫観念。
王族の囲い込みから逃げ出し、冒険者として日銭を稼ぎながら自由を求めていた彼女が、ようやく見つけた「自分が村長として必要とされる場所」。それを失う恐怖が、彼女の命を削ってまで走らせていたのだ。
あぁ、痛いほどよく分かる。
私は、キャルルの両手を包み込むように握りしめたまま、彼女をそっと抱き寄せた。
「え……?」
「もう十分よ。よく頑張ったわね、キャルルさん。あなたは、もう休んでいいの」
「でも……っ、村が、おじいちゃんが……」
「おじいさんの熱は下がりました。脱水症状も、私が薬を飲ませて落ち着いています。だから、今は自分の心配だけをしてください」
私の肩に顔を埋めたまま、キャルルは大きく目を見開いて硬直していた。
霞が関で、私は幾人も見てきた。
国のため、国民のためと歯を食いしばり、自分の限界を超えて働き続け、最後には心がポキリと折れて去っていった有能で優しい同期たち。
彼らもまた、キャルルと同じように「自分がやらなければ」という呪いに縛られていた。私自身もそうだった。
自分をすり減らして得る平和など、決して長くは続かない。
一部の天才の自己犠牲で成り立つ共同体は、政策という観点から見れば『システムのエラー』だ。
太陽のように無理をして燃え尽きるのではなく、月のように穏やかに生きていける環境を、私が作らなければならない。
私は片手で背中を優しくトントンと叩きながら、もう片方の手で『エンジェルすまーとふぉん』を操作した。
看病で得たポイントの残りで、今、彼女に一番必要なものを注文する。
ぽんっ、と軽い音がして、私の足元に小さな紙袋が届いた。
私はキャルルをそっと離し、袋の中から小さな缶を取り出した。
「口を開けて」
「……?」
呆然としている彼女の口に、赤いドロップを一つ放り込む。
「ん……甘い……苺、の味……?」
「ええ。よく頑張った良い子には、甘いご褒美が必要でしょう」
キャルルのピンと立っていた兎耳が、ふにゃりと力なく垂れ下がった。
続けて、私は保温魔法瓶に入ったお湯と、ティーバッグ、そして小瓶のオーガニック蜂蜜を取り出す。
紙コップにお湯を注ぐと、カモミールのりんごに似た甘く優しい香りが、夜の冷たい空気にふわりと広がった。そこに、黄金色の蜂蜜をたっぷりと溶かし込む。
「熱いから、少しずつ飲んでね」
手渡された紙コップを、キャルルは両手で大切そうに包み込んだ。
ふー、ふー、と息を吹きかけ、恐る恐る一口飲む。
その瞬間、彼女の身体から入っていたガチガチの力みが、嘘のようにふっと抜け落ちた。
「……っ、おい、しい……あったかい……」
蜂蜜の甘さとカモミールの鎮静効果が、極限まで張り詰めていた彼女の神経をゆっくりと解きほぐしていく。
トンファーを握るために血豆だらけになっていた小さな手が、微かに震えていた。
「……私、怖かった……」
ぽつり、ぽつりと、キャルルが呟く。
「軍隊が来るのも、村のみんなが傷つくのも。……私が、必要とされなくなるのも、ずっと怖かった……っ」
大粒の涙が、紙コップの水面にぽたぽたと落ちていく。
無敵の雷神のように村を守り続けてきた少女の、それが本当の姿だった。
「大丈夫。あなたはもう、自分を削らなくてもいいのよ」
私は彼女の隣に座り、その柔らかな髪をゆっくりと撫でた。
「私が、あなたの居場所をちゃんと守ってあげる。誰も犠牲にならない、優しい村の仕組み(ルール)を、私と一緒に作りましょう」
「わたしと、一緒に……?」
「ええ。私には戦う力はないけれど……村を豊かにする知識があるわ。あなたのその強くて優しい力を、正しく使えるようにしてあげる」
キャルルは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、私を見た。
そして、安心したようにふにゃりと笑うと、コップの中身を飲み干し――そのまま、パタリと私の膝の上に倒れ込んだ。
「あ……」
スースーと、子供のような規則正しい寝息が聞こえてくる。
限界をとうに超えていた身体が、安心感を得たことで一気に休息のスイッチを入れたのだろう。
私は苦笑しながら、自分のカーディガンを老人の分から半分だけ引き寄せ、キャルルの小さな背中に掛けてあげた。
「おやすみなさい、村長さん」
膝で眠る少女の温もりを感じながら、私は静かに夜空を見上げた。
雲が完全に晴れ、真円の満月が、ポポロ村の寂れた大地を明るく照らし出している。
月兎族であるキャルルにとって、満月の光は最高の治癒の力を持つという。月の光を浴びながら、彼女の傷ついた身体がゆっくりと癒やされていくのを感じた。
霞が関での日々は終わった。
これからは、この辺境の地で。
私は自作のぐい呑みを傾ける代わりに、温かいお茶の香りの余韻に浸りながら、今日という長い一日の終わりに静かに目を閉じた。
(……明日から、忙しくなりそうね)
不器用で、優しすぎて、自分の身を削ってしまう彼女たちを、本当の意味で輝かせるために。
私はこのポポロ村で、誰もが月を見上げて笑えるユートピアを作るのだと、夜空に向かって静かに誓った。
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