第二章③
当時、この異世界における株式や商品の取引は、証券取引所のような近代的な建物ではなく、「エクスチェンジ・アレイ」と呼ばれる金融街の裏路地にある、コーヒーハウスで行われていた。
煙草の煙とコーヒーの強い香りが充満する店内。
身なりの良い紳士や仲買人たちがテーブルを囲み、怒号のような声で手書きの価格ボードを指差しながら取引を行っている。
13歳の小娘が立ち入れる場所ではないため、私は没落した元商人の老人、オズワルドを金で雇い、代理人として使っていた。
私は店の外の路地裏に身を潜め、窓越しにオズワルドへ視線を送った。
(……今よ)
ランナーの一人が、港から息を切らして駆け込んでくる。
南方の香辛料を満載した大型商船が、嵐で沈没したという確定情報だった。
まだこの情報は、コーヒーハウスの大人たちには届いていない。
私は窓ガラスを三回、硬貨で軽く叩いた。それが合図だ。
店内のオズワルドが頷き、香辛料を扱う商会の株を、現在提示されている価格で次々と空売り(ショート)し始めた。
他の仲買人たちは「あの老人は気が狂ったのか? 明日には商船が着くというのに」と嘲笑しながら、こぞって彼の売り注文を買い取っていく。
そのわずか数十分後。
港の役人が血相を変えてコーヒーハウスに駆け込んできた。
「大変だ! 南方からの第四商船団が、嵐で全滅したぞ!!」
店内の空気が一瞬で凍りつき、直後に阿鼻叫喚のパニックが巻き起こった。
「なんだと!?」
「株を売れ! 今すぐ手放せ!!」
暴落していく価格ボード。
紙くずと化した株券を握りしめて頭を抱える大人たちを尻目に、オズワルドは底値で株を買い戻し、莫大な差額を懐に収めて悠然と店を後にした。
「……完璧ね。これでまた、資金が膨れ上がったわ」
私は路地裏の暗闇で、冷たく口角を上げた。
☆
さらに私たちが得意としたのが「ろうそく競売」におけるハッキングだった。
王都の広場で行われるこの競売は、破産した商人の財産などを売り払う際によく用いられた。
一本の短いろうそくに火を灯し、その火が燃え尽きて消えた瞬間に、最後に値を呼んでいた者が落札者となるという、極めてアナログなシステムである。
「いい? 競売のコツは、無駄に競り合って価格を吊り上げないことよ」
私はシンジケートの中で最も動体視力の良い子供たちを集め、徹底的な訓練を施していた。
「ろうそくの芯を見て。消える直前、炎の根元が青く変色し、煙の筋がわずかに揺らぐ。その『ゼロコンマ一秒前』にだけ、入札の声を上げるの」
ある日の午後。
広場では、極上の絹織物のロットがろうそく競売にかけられていた。
群衆に紛れたノアやランナーたちが、演台の上のろうそくを食い入るように見つめている。
大人たちは「銀貨十枚!」「十五枚!」と声を張り上げているが、私たちの代理人であるオズワルドは沈黙を保っていた。
ろうそくが短くなり、炎がチロチロと弱々しく揺れ始める。
会場が静まり返り、誰もが次の入札をためらう緊張の一瞬。
炎の根元が、わずかに青く変色した。
群衆の最前列にいた孤児の一人が、持っていた林檎をわざと地面に落とした。
その瞬間、オズワルドが静寂を切り裂くような大声を上げた。
「銀貨二十枚!!」
直後、ふつという音と共に、ろうそくの火が完全に消え去った。
「……そこまで! 落札者は、銀貨二十枚を提示したオズワルド氏!」
競売人の木槌が打ち鳴らされた。
周囲の商人たちは「しまった、出し抜かれた!」「もう一瞬待てば安く買えたのに!」と地団駄を踏んだが、すでに遅い。
市場価格の半値以下での落札だった。
「お見事。これで絹織物の市場価格も私たちがコントロールできるわ」
広場の隅で、私はノアと軽く拳を突き合わせた。
◆
これらの現代的な金融知識と組織力によって、私たちは地下社会で誰も無視できないほどの莫大な裏資金を稼ぎ出していた。
大人たちの暴力に怯えていた孤児たちは、今や清潔な服を着て、十分な食事を摂り、私が雇った家庭教師から読み書きや計算を学ぶまでに至っていた。
「クロエ、すごいよ。君のおかげで、もう誰も寒さで死ぬことはない」
ある夜、金庫に積み上げられた金貨の山を見つめながら、ノアが眩しいものを見るような目で私に言った。
「これだけのお金があれば、僕たちはもう立派な商人になれる。もっと安全な街に移って、まともな商売を始めよう。……でも、君はまだ満足していないんだろう?」
ノアは鋭かった。
私は金貨の冷たい感触を指先でなぞりながら、ゆっくりと振り返った。
「ええ。こんな小銭、まだ『準備資金』にすぎないわ。私たちが生き残るためのお金は、もう十分に稼いだ。……これからは、奴らを殺すための資金を稼ぐのよ」
「奴ら……?」
「平民を虫けらのように扱い、私の家族を奪った連中。この狂った経済システムの上に胡坐をかいている、特権階級の貴族たちよ」
私の瞳の奥で、決して消えることのない冷たい炎が揺らめいた。
「私の目的は、ただ成り上がることじゃない。奴らの持つ金、地位、権力、その全てを市場のルールに乗っ取って合法的に奪い取り、社会から完全に抹殺すること。……ノア、あなたも手伝ってくれるわね?」
ノアは一瞬息を呑み、そして私の底知れぬ覚悟に触れたように、静かに、しかし力強く頷いた。
「……ああ。君が地獄へ行くというなら、僕も、このシンジケートも、最後まで君についていくさ」
孤児たちのビジネス・シンジケートは、もはや単なる互助組織ではなくなっていた。
それは、腐敗した国家と貴族社会の心臓に食い込み、内側から食い破るための、見えざる巨大な怪物へと成長しつつあったのである。
☆
私たちが王都の裏経済を牛耳る闇のシンジケートとして確固たる地位を築いた頃、私は14歳になっていた。
孤児たちを束ねる冷徹なリーダーとして、私は表向きは代理人のオズワルドの「優秀な秘書」という仮面を被り、ついに貴族層との直接的なビジネスにまで手を伸ばし始めていた。
そしてある日、運命の歯車が致命的な音を立てて噛み合った。
「オズワルド氏。我が領地の特産品であるワインの独占販売権だが、もう少し融通を利かせられないかね」
「男爵閣下、それは市場の原理に反しますな。我々としてもこれ以上の譲歩は……」
王都の一等地にある、豪奢なギルス男爵の屋敷。
私はオズワルドの斜め後ろに控え、無表情で帳簿にペンを走らせながら、男爵の財務状況の脆さを脳内で計算していた。
(過剰な設備投資、浪費癖、そして裏帳簿の存在。この男爵は、少し揺さぶればすぐに崩れる)
商談が平行線を辿っていたその時、応接室の重厚な扉が無作法に開かれた。
「お父様! また新しいドレスの仕立て屋が遅れているの! どうにかしてちょうだい!」
フリルを過剰にあしらったドレスを着た、私と同年代の我儘そうな男爵令嬢が踏み込んでくる。
「こら、マリア! 今は大事な商談中だぞ」
「だって、明日の夜会に間に合わないわ! ああ、お化粧のノリも最悪……」
令嬢は不満げに顔をしかめながら、手元にあった小さな鏡を開いた。
その瞬間、私の心臓が、物理的に凍りついたように止まった。
(……あ、れは)
銀の精緻な透かし彫り。
美しい青いエナメルの装飾。
間違いない。
それは6年前、父アーサーが母メアリーに贈り、両親の暗殺と共に奪い去られた、あの「コンパクトミラー」だった。
(なぜ、こんなところにある? 市販品だという可能性は? いや、あの装飾は特注品だ。しかし、確証が要る)
私は前世のジャーナリストとしての凍てつくような冷静さを総動員し、顔には一切の動揺を出さずに商談を終えた。
そして屋敷を出た瞬間、待ち構えていたノアに指示を飛ばした。
「ノア。屋敷に潜り込ませているメイドのランナーに伝えて。今夜、あの令嬢の部屋の窓の鍵を開けておくように、と」
◆
深夜、私は黒ずくめの衣装に身を包み、男爵邸の二階の窓から音もなく侵入した。
前世では決してやらなかった物理的な潜入工作も、過酷なスラムで生き抜くために身につけた技術だ。
寝息を立てる令嬢のドレッサーに近づき、月明かりの下でそのコンパクトミラーを手に取る。
指先が震えるのを必死に抑えながら、鏡の裏側を親指でなぞった。
あった。
目立たない隅に、幼い私が遊び心で刻み込んだ、小さな「C」の文字。
「……見つけた」
暗闇の中、私の口から漏れた声は、自分でも恐ろしいほど冷たく、そして喜悦に満ちていた。
両親を殺し、私から全てを奪った実行犯。あるいはその一味。
標的は、この屋敷の主、ギルス男爵だ。
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