目が逢う瞬間
目が合ったのがわかる。こんな遠い距離にも関わらず、それが感じ取れる。背中を冷や汗がつたっていく。彼女は、こちらを見ている。じっと見つめている。目線は見えない、が、見ている。もうこうなってしまっては目を逸らせない。逸らしたいのは山々だが、体がピンと張り詰めて、動けない。これが金縛りというやつなのだろうか。
ドンッという衝撃が背中を刺した。それにつられて俺の目線は彼女から外れ、ようやく動けるようになった。振り返ると、背中を叩いたのは須口だった。
「君というやつは。大方、もう見えるようにまでなってしまったのだろう、それで目線があって金縛りにあった、そんな所じゃないのか。」
流石である。オカルトマニア、馬鹿にできない。
「幸いなのか不幸なのか、僕には見えていないからね。今のうちに僕が塩を撒いてみよう。」
そう言ってつかつかと歩き出す須口。俺はまた車の方に目をやった。
彼女は須口の方に注目しているらしく、金縛りにはあわない。そして須口は後部座席のドアを開き、勢い良く塩を撒いた。
「どうだ、消えたかい。」
消えていない。俺は首を横に振った。消えるどころか、嫌な様子も一切見せていない彼女は、須口を見るのをやめると、またこちらに顔を戻した。
金縛りに合う、そう思ったがそうではなかった。こちらに顔を向けた彼女は、またこんな遠い距離にも関わらず、なおかつ車の後部座席という見辛い位置にも関わらず、にっこりと微笑んだように見えた。
「微笑み、かけた?」
こちらも釣られて愛想笑いをしてしまうところが日本人の悲しい性なのかもしれない、こんな異常な状況下ですら無意識のうちに笑みを作ってしまう自分がいる。
なんだか、急に怖いという気持ちが薄れていった。彼女は、俺に笑いかけているというのに、俺だけが怖がって、嫌がって、目を背けていてはいけないような、そんな気持ちになる。
ああ、どうしてだろう、それはまるで、今、この世界に俺と彼女だけの二人しかいないような、そんな錯覚に陥り、駐車場も車もすべて消え去り、何もない深い蒼い空間にただ二人浮かびながら見つめ合っている。えげつないまでに張りつめた静寂が、辺りを包んで離さない。そんな中に彼女の頭に響き渡るほど透き通った声がただただ、耳を通して俺に問いかけてくる。
「あなたは、誰。」
俺は、俺の名前は。
「私は、誰。」
その言葉を聞いた時、俺は、彼女の微笑みが、とても悲しいもののように見えた。それが、とても切なくて、その瞳の端から大粒の涙がこぼれてきそうな気がして。その粒がこぼれた時、どうなってしまうのか、俺には到底理解ができず、でもそれがいけないことだというのはわかった。その時俺は何も考えずに走り出し、蒼く深海のように澄んだ二人だけの空間を、まるで泳ぐかのように彼女のもとにたどり着こうとした。
そして俺がたどり着いて、彼女がその手をこちらに伸ばそうとして、俺もその手に自らの手を重ねて、彼女と目線が交わり、唇が動くのが見えた。
「あなたは、誰。私は、誰。」
同じ問いを投げかけられる。君が誰なのか俺は知らない。だが、俺は自分が誰なのかを知っている。
「俺は、国木田、国木田圭一だ。」
その瞬間、彼女は目を閉じ、そして消えた。ただ独り取り残された俺は、急に魔法がとけるように、夢から覚めるように、辺りの蒼く美しい空間が、まるでブラックホールに吸い込まれるかのように縮小し、なくなっていくのを見つめながら、気がついた時には須口の傍で車の前に立っていた。
「どうした、急に走り出して。」
何事もなかったように須口は問う。どうやら、俺は夢のようなものを見ていたようだ。そしてなぜか、俺は泣いていた。