3.アンタッチャブル(1)
「分かりました。ご協力します……」
「それでは……」
「はい……。プルートと、一緒に暮らします……」
ああ、遂に言ってしまった。とうとう自分は、彼らに買われてしまったのだ。
事実を噛み締めれば、どうしたって伏目がちになってしまう。卑屈だ。情けない。
ピカピカに磨かれた床のタイルに映った自分の顔を覗けば、運命に翻弄された疲労が色濃く宿っていた。
――だが、ここで負けてはダメだ。魂まで渡してしまっては、二度と抜け出せない深い渦に、飲み込まれてしまうだろう。
「だけど、条件があります!」
自分に出せる限りの大声を張り上げ、遊笑は挑むように一同を見回した。
初老の紳士、知的な美女、逞しい青年。対峙した三人は、それぞれがそれなりの表情をもって、遊笑の決心を見届けんとしている。
「うん、言ってごらん」
初老の紳士、尼崎 一郎は、穏やかな笑みを浮かべつつ、遊笑を促した。元々彼は温厚な性格だが、もうじき目標の達成が成るからだろうか、その振る舞いには一層の余裕が見て取れた。
尼崎の後ろに控えている男女は、ミチルとイサムという。
遊笑は三人の名前と、職業しか知らない。職業というか、彼らの所属先は――地球防衛軍。何かのパロディだったらともかく本気で名乗っているのなら、色々な意味でヤバイ団体であることは想像に難くない。
しかし尼崎たちは大真面目であり、そして彼らがいなければ、確かに人類滅亡の危機を防ぐことはできなかっただろう。
そんな重要な組織の面々の後ろに、一際大きな黒い影が佇んでいる。
長身のイサムよりも、更に頭一つ分抜きん出た男。彼こそが、遊笑を飲み込まんとしている運命の渦、その中心である。
この男さえいなければ、遊笑の平凡な人生には、少しの狂いも生じなかったはずなのに。
そう。最凶の宇宙人「プルート」が、空から降ってこなければ――。
「私の心を読まないで! それが条件です!」
遊笑はプルートを睨みつけながら言った。浅黒く艶やかな肌に、少女漫画にでも出てきそうな耽美な作りの顔。 だが涼やかな切れ長の瞳は、遊笑を映しているようで、別の何かを見ているようでもある。ただ単に、ぼーっとしているだけかもしれないが。
宇宙人という特殊な設定な人がアグレッシブなのはもちろん困るが、ぼんやりされてもどう扱っていいか分からない……。
「あの、プルート? あんた、起きてる?」
「起きてる」
とりあえず目は覚めているようだが、どうにも反応の薄いプルートに、遊笑は少しイライラしながら重ねて物申した。
「絶対に私の心を読まないで! 記憶を探るのもダメだからね!」
最凶最悪の宇宙人に対して、よくもそこまで強気に言えるものだと、尼崎たちは息を呑んだ。当のプルートは眉一つ動かさず、遊笑の顔を見詰めたままだ。
「ちょっと……。やっぱ寝てるんでしょ?」
業を煮やして遊笑が再度尋ねると、プルートはようやく形の良い唇を動かした。
「なぜだ?」
この男には、本当に分からないのだろう。悪気はない。プルートは常識や、人間の物の考え方が分からないだけなのだ。なにしろ、宇宙人なのだから。
――なぜ、人の心を読んだり、記憶を探ってはいけないのか。
遊笑は幾分か態度を和らげ、プルートの問いに答えてやった。
「口に出さず心で思ったことや、過去の記憶は、その人のものだから。他の誰にも知られたくない、自分だけのものなの。
あんたにもあるでしょう?誰にも知られなくない気持ちとか……」
「ない」
即答だ。
「じゃ、じゃあ、人には知られたくない、秘密はない?」
「…………」
「人の気持ちを勝手に覗くってことは、その人の秘密を暴くのと一緒よ」
しばらくの沈黙ののち、プルートはぼそりと宣言した。
「了解した。お前の心も記憶も、お前の許しがない限り、触れない」
事態が収束したのを見計らって、尼崎たちはほっと息を吐いた。しかし遊笑は、先ほどのプルートの様子が少し引っかかった。
秘密。その言葉にプルートは反応したが、彼は何か人には言えない事情を抱えているのだろうか。
――まあ、存在自体が怪しい人だし。
宇宙人で、不思議な力を持っていて。突き詰めれば、秘密の一つや二つどころか、一億か二億出てきそうだ。
遊笑はバカバカしくなって、それ以上考えるのをやめた。
「では、これを」
尼崎の指先には、鍵がぶら下がっていた。銀色に光るそれを受け取ると同時に、遊笑は改めて自分の役割について思った。
――私は「鈴」だ。
地球人類を滅ぼすためにやってきた、恐ろしい悪魔。遊笑はその首元に付けられた、鈴なのである。
翌日、遊笑は地球防衛軍が用意してくれた手土産を持参し、職場で平謝りしていた。
あんな騒ぎを起こしたのだ、正直クビも覚悟していた。しかし、同僚たちは意外なほどあっさりと、遊笑を歓迎してくれたのだ。
「いやいやいや。遊笑ちゃんも大変だったよねえ」
ずり落ちたメガネを上げつつ、話しかけてきた事務員の友野は、実に同情的だった。
「……え?」
遊笑は思わず聞き返してしまった。
大変とは――大変とは。いやそれは確かに、いきなり宇宙人のイケニエにされてしまったのは大変なことだが、友野はそんなことまで知っているのだろうか。というか、地球防衛軍はここ「ヒムロ工務店」の人々に、一体どこまで話したのだろう?
「親戚のイタズラだったんだって? 遊笑ちゃんの誕生日を間違えてたなんて、人騒がせだよねえ」
友野は善良そうな顔に、苦笑いを浮かべている。
「しんせき? 誕生日?」
ますます分からない。
「でもさすが、外国の人は粋なことを思い付くもんだね。サプライズ・パーティー?だっけ? いきなり拐かされて、目が覚めたらパーティー会場!って寸法だったんでしょう? 手間もお金も物凄くかかってて、ビックリしたよ!」
「サプライズ・パーティー……」
「でも、肝心の日にちを間違えちゃ駄目だよねえ」
「…………」
うふふとさもおかしそうに笑う友野を前に、遊笑は返す言葉を思い付かない。
「ヒムロ工務店」の襲撃と、遊笑の拉致。この二つを、同僚たちはサプライズ・パーティーの仕掛けの一部として理解しているらしい。
「それって、誰が吹きこん……いえ、誰から説明があったんですか?」
「いやね、いきなり煙に包まれて、気を失って……。そんで、遊笑ちゃんがいなくなっちゃったじゃない。ワタシたちもパニックになっちゃってね。警察呼ぼう!ってなったときに、バーン!と、そっから外人さんたちが現れたんだ。聞けば『遊笑ちゃんの親戚の関係者』って言うじゃない」
友野は言いながら、大通りに面した出入り口を指した。何者か知らないが、そんな目立つところから堂々と踏み込んできたのか……。
「私の親戚の関係者?」
しかも、随分とくどい続柄の人たちではないか。
「そうそう。今回の件について細かく説明してくれて、それでね、とても丁寧に謝罪してくれたんだよ。お土産なんかも、いっぱいもらっちゃって。ワタシ、素敵なボールペンをいただいちゃった!」
友野はうきうきしながら、傍らに立っていた部長の氷室に、ね、と目配せした。氷室は友野ほど先日の出来事を素直に解釈していない様子で、渋々といった風に頷いた。
「その『親戚の関係者』って、どんな人でした?」
ミチルか、尼崎だろうか。
「白人の女の人だったねえ。ちょっと歳はいってるけど、綺麗だったなあ。日本語、上手だったよ」
「女の人……」
「あ、名刺もらってるよ。ほら」
友野は財布から一枚の紙片を取り出し、見せてくれた。
Isabella Moretti……。英字だから不確かだが、「イザベラ」と読むのでいいのだろうか。
名前の右上は、有名な製薬会社のロゴで飾られている。もしこれが本物の名刺だとしたら、あの製薬会社と地球防衛軍には、何らかの繋がりがあるのだろうか。
――然るべきルートから説明を受けるはず。
尼崎はそう言ったが、そのIsabellaという女性が、そうなのだろうか。
考え込む遊笑を、自分たちのやらかしたことに気を病んでいると誤解したのか、友野は明るく笑って見せた。
「親戚の人がやっちゃったことだもの、遊笑ちゃんは気にしないでいいからね。
あのときここには、ワタシと部長しかいなかったでしょ。だからワタシたち以外何も知らないし。あの日の遊笑ちゃんの勤怠は、体調不良で早退したってことにしてあるからね」
「あ、ありがとうございます……」
「いやいや。さ、さ、お仕事しようね」
「は、はい!」
遊笑が深々と頭を下げると、友野は気にするなとでも言うように軽く手を振って、自分の席に戻っていった。
遊笑もそれに続こうとして、だがふと視線を感じ、顔を上げた。
「……あ」
先ほどから口数の少なかった氷室が、何か言いたげにじっとこちらを見詰めている。
ずっと憧れていた、優しい上司。
会社に来られなかったのはたった一日のはずなのに、もうずっと長いこと会っていなかった気がする。
凛々しく、男らしい顔だち。だが、いつもほど魅力的には感じない。
そんな勝手なことを思うのは、きっと自分の環境に変化があったからだろう。
氷室はすぐ側にいるのに、遊笑の目に映る彼の姿は、まるでアルバムに綴じられた古い写真のようだった。色褪せた、セピア色の――。そう思ってしまうのが、切ない。
「遊笑ちゃん、大変だったね」
「あ、あの……。ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした!」
遊笑が再び頭を下げると、氷室は首を振った。
「いや、いいんだよ、気にしないで。遊笑ちゃんが悪いわけじゃないから。
でも、先月、誕生日だったんだってね」
「あ、そうです……」
遊笑の本当の誕生日は、一ヶ月前だ。恋人なんて立派なものもいない彼女は、家族にひっそりと祝ってもらった。
「その――良ければ、今夜どうかな? 一ヶ月遅れで、君の誕生日を祝ってあげたいんだけど……」
「え!」
瓢箪から駒とは、こういうことを言うのだろうか。思ってもみなかった展開に、遊笑の心臓は激しく鳴った。
「あの……!」
胸の奥にしまいかけた恋心が、ヴェールのように覆いかぶさってくる。
セピア色の写真が、鮮やかな色を取り戻しかけて――。
が。
脳内に一人の男が現れて、氷室の写真をビリビリと破いてしまう。全身真っ黒な彼は、しかも顔に恐ろしげな般若面を着けていた――。
――プルート。
「……!」
「遊笑ちゃん?」
「ごめんなさい……。今日は都合が悪くて……」
「あ、そうなんだ。急に誘って悪かったね」
「いえ、とんでもないです!せっかくなのに、本当にすみません」
「ううん。じゃあ、また今度ね」
氷室は遊笑の肩をぽんと叩くと、自らの席に就いた。残された遊笑は、小さくため息を吐く。
これだけ心が動くということは、まだ自分は氷室のことをあきらめきれていないのだ。
この会社に入ってから二年間、淡い思いを抱いていた相手――。だが今の遊笑には、その思い人の誘いすら受けることができない。なぜなら、自分には悪魔が憑いているのだから。
――だけど、これも一年間の辛抱……!
遊笑は拳を握り締めた。
繁忙日は過ぎているから、仕事はスムーズに片付く。遊笑は十八時を少し回ったところでタイムカードを通すと、残っているわずかな数の同僚たちに挨拶をしてから、外に出た。
「さむ……」
吐き出した息が湯気となり、夜闇に溶けていく。
目の端で何かが光った。その合図がなければ気付かなかっただろうが、外灯から外れた脇道に、一台のワゴン車が停まっている。
はっきり言って、気乗りはしない。しかし、相手を待たせるのは申し訳ない気がして、遊笑は早足で自分を待っている車の元へと駆け寄った。
「ゆっくり来てくれればいい」
助手席に滑り込むと、運的席の男はそう言った。
「お疲れさん」
「……あなたこそ」
遊笑がそう返すと、二人は目を合わせ、疲れた笑顔を交わし合った。
男の名は、イサム。ジーンズにジャケットとラフな格好をしている彼は、これでも勤務中の社会人だ。
「んじゃ、帰るか」
エンジンがかかったかと思うと、車は素早く発進した。イサムの運転は巧みで、遊笑は家へと帰る道中、ほとんど揺れを感じることがなかった。
「あの……。わざわざ迎えに来ていただかなくても……」
「ま、新しい住まいに慣れるまでな。うちのボスは過保護なんだよ。ああ、あの宇宙人もな」
「すみません……。あ、定期代の申請しなくちゃ……。あと、会社に出す書類って、何かあったかな?」
遊笑は指を折りながら、ぶつぶつとつぶやいた。
とりあえず、何をしなければいけないか。住民票の移動に、免許の住所変更。
それからこれが難題なのだが、会社にはどう説明しよう。遊笑はうーんと唸った。
彼女が急遽暮らすことになったマンションも、今まで暮らしてきた実家も、同じ市内にあり、そう離れていない。便利は便利だが、だからかえってわざわざ実家を出て別の部屋で暮らす、いい言い訳が思い浮かばなかった。
「やっぱりこれで通すしかないか」
――自立するために、一人暮らしします。
「素直に、男と暮らすって、言ったほうがいいんじゃねえの?」
フロントガラスの向こうをまっすぐ見たまま、イサムは言った。
「や、やです!!そんなこと言えません!」
「なんで?いまどきとやかく言う奴もいないだろ?」
「……ともかく、嫌なんです」
顔を赤くして俯く遊笑をちらりと一瞥すると、イサムは視線を前に戻した。
「もしかして、あんた、会社に好きな男がいんの?」
「!」
――当たりである。だがそうとも言えず、遊笑は黙り込んだ。
「……だとしたら、つらいよな。今回のことって。
はっきり言って俺はヒラだし、あの人らを止めることはできねえんだ。だけど、あんたがどうしても嫌になって逃げ出したくなったら、手を貸してやるくらいはできると思うぜ」
「……イサムさん」
「人類が滅ぶとか、そりゃすげー困ったことだけどよ。だからって、あんたみたいな普通の女の子を犠牲にしてまで助かろうってのは、何か違う気がするからよ」
イサムの言い方はぶっきらぼうで、素っ気なかったが、遊笑は涙が出そうなほど嬉しかった。
自分のことを気遣ってくれる人がいると思うだけで、心が暖かくなる。
図体は真逆だというのに、イサムと妹の姿が、なぜか重なった。
「行かないで」と自分に抱きついて泣いた、遊真と。
昨晩は一旦実家に戻った。その前日、遊笑はプルートによって乳父に連行されており、やむをえず無断外泊をしている。両親にはそのことを咎められるかと覚悟していたのだが、なぜか彼らは遊笑を明るく迎えてくれた。
「おかえり、遊笑。急なお仕事で帰れなかったんだってね。お疲れさま!」
「え? う、うん」
ここにも、地球防衛軍とやらの情報操作が、施されているのか。関心するよりも、遊笑は彼らが自分の家族に接触したことに、ぞっとした。まるで家族を人質に取られているかのようだ。
古い団地の一角にある自宅に足を踏み入れた途端、玄関のチャイムが鳴った。母親が対応に出る。
「あら、どうも、こんばんは!」
驚いたような母親の声に振り向くと、そこにはなぜか尼崎とミチルが立ってた。
「夜分にお邪魔してすみませんね、お母様」
「!?」
二人は遊笑に笑いかけながら、さっさと靴を脱ぎ、散らかっているわけではないが、どうにも雑然とした垢抜けない遊笑の自宅に、素早く上がりこんだ。
つづく