第8話 アクア・アルタールの熱い夜(4)〈カシム視点〉
「素晴らしい!まことに素晴らしい、ザラ殿!本当に、予言通りの『救世主』が現れるとは!」
評議会議長のムスタフが、小躍りせんばかりの様子でザラの手を握りしめている。
脂ぎった顔には、安堵と媚びの色が張り付いている。
「これでアクア・アルタールは安泰ですな。あの冒険者たちが水源を浄化してくれれば、評議会の面目も保たれるというもの」
「ええ、すべては星々の導きですわ、議長」
ザラは聖女のような微笑みを貼り付け、しなやかに頷いてみせた。
その瞳の奥が、冷徹に男を値踏みしていることを、俺だけが知っている。
「しかし……報酬として『真昼の瞳』への拝謁を許可してしまって本当によろしかったのですかな?一応は、初代皇帝陛下縁の品ですが」
「あら、ご不満ですか?彼らは命懸けでこの街を救うのです。それくらいの慈悲は必要かと」
「いやいや!滅相もない!」
ムスタフは慌てて手を振った。
「正直なところ、あんな古臭い宝石一つで街が救われるなら安いものです。皇帝家との契約といっても、ここ数十年は形式的な巡礼があるだけ。誰もあの石の価値など気にかけておりませんよ」
ムスタフは声を潜め、卑しい商人の顔でニヤリと笑 。
「とはいえ、持ち出されてしまうのも困りもの。いざという時には命を賭して街を守った英雄たちとして地下水源に沈めてしまうという手もありましょう」
「ふふ、議長様ったら。……でも、名案かもしれませんわね」
ザラがクスクスと笑うと、ムスタフは満足げに頷き、上機嫌で議事堂を去っていった。
◇
重厚な扉が閉まり、足音が完全に遠ざかった、その瞬間だった。
「――ッあぁもう!虫唾が走るわッ!!」
ザラが顔を覆っていたヴェールを乱暴に引き剥がし、床へと叩きつけた。
さきほどまでの聖女の仮面は消え失せ、そこには傲慢で、癇癪持ちの、俺の愛しい妹の素顔があった。
「気安く触るんじゃないわよッ!!愚鈍な豚のくせに、偉そうに!」
ザラはムスタフが座っていた豪奢な椅子を蹴り飛ばした。
ガタン、と大きな音が響くが、俺は動じない。いつものことだ。
「……ザラ」
俺が影から歩み出ると、ザラは乱れた髪をかき上げながら、毒々しい瞳で俺を睨みつけた。
「それにあの女……『ミリア』とかいったかしら?あの生意気な目!」
ザラは爪を噛みながら、ホールを苛立たしげに行き来する。
「あたしの演技を見透かしたような、あの上から目線……。自分が『器』だからって、いい気になってるのが鼻につくのよ!」
そう、俺たちは知っている。
あの赤髪の女こそが、組織が追い求めている『月の民』の『真なる器』。
「……枢機卿からの手紙は読んだか?」
「ええ、読んだわよ。読んだからこそ、腹が立つのよッ!!」
ザラは懐から取り出した羊皮紙を俺の目の前でビリビリと破り捨て、床へと叩きつけた。
「『発見した器は、傷つけぬよう慎重に捕獲し、連行せよ』ですって?ふざけるんじゃないわよ!!」
ザラはヒステリックに叫び、バラバラに引き裂かれた手紙をさらにヒールの踵でグリグリと踏みにじった。
「相手は『真なる器』よ?あれを生け捕りにしろだなんて、正気とは思えないわ!」
彼女は肩で息をしながら、怒りに震える指先を突き立てた。
「制御するための『銀の鈴』も渡さずに、どうやって手懐けろっていうのよ!素手でドラゴンに首輪をつけろって言ってるようなものじゃないッ!!」
組織の無茶ぶりに対する憤怒。
『器』の力への畏怖と、それを認められない嫉妬。
それらが混ざり合い、ザラの堪忍袋の緒をズタズタに切り裂いていた。
「万が一、捕獲に失敗して暴れられたらどうするの?あたし達が死ぬかもしれないのよ?あんな道具のためにあたしが危険な目に遭うなんて、まっぴらごめんだわ!」
「……なら、どうする?」
俺が短く問うと、ザラは歪んだ笑みを浮かべ、踏みつけた手紙を蹴り飛ばした。
「ねえ、カシム。計画を変更するわ。枢機卿からの『捕縛命令』なんて、無視しちゃいましょう」
「……いいのか?」
「構わないわよ。帝都から離れた砂漠での出来事、死体が見つからなくたって言い訳は立つわ。『魔物の群れに襲われて、残念ながら跡形もなく消滅しました』って報告すればいいのよ」
不意に、ザラの瞳の色が変わった。憎悪から、ねっとりとした粘着質な欲望の色へ。
「あの女は殺す。……その代わり、後ろにいた金髪の男……アズール、だったかしら?あれは頂くわ」
彼女は舌なめずりをして、恍惚とした表情で虚空を掴む仕草をした。
「美しい顔だったわ。怯えたような目も、あたしを拒絶するような態度も、すべてがゾクゾクするほど愛らしかった。——欲しいわ。あんな綺麗な玩具、この砂漠にはどこにもないもの」
ザラの欲望は、いつも直情的で、俗悪だ。
世界を救う力も、組織の大義も関係ない。
彼女が欲しいのは、自分を見下す者を踏みにじる優越感と、美しい玩具、そして贅沢な暮らしだけ。
「決めたわ。あの生意気なミリアは、地下水源でなぶり殺しにしてやる。そして、あのアズールはあたしのペットにするの。首輪をつけて、あたしの足元でしか息ができないように躾けてあげる。あたしの味でしか満足できないようになるまで徹底的にね」
残酷で、身勝手で、そして無邪気な夢想。
「『真昼の瞳』さえ手に入れば、この街も用済みよ。そのまま砂の海に沈めてあげるわ」
俺は影から歩み出ると、彼女が床に投げ捨てたヴェールを拾い上げ、埃を払った。
「……ああ」
俺は短く答え、ヴェールを彼女の肩にかけてやる。
「お前の望むままに」
かつて、泥水をすするように生きていた頃。
幼いザラはいつも泣いていた。空腹に震え、寒さに凍え、惨めな自分を呪っていた。
俺は誓ったのだ。
もう二度と、この妹に涙は流させないと。
彼女が望むものは全て与え、彼女が憎むものは全て排除すると。
今のザラは傲慢だ。残酷だ。
だが、それでいい。
泣き濡れていたかつての姿より、欲望のままに他者を踏みにじる今の姿の方が、ずっと「生きている」と感じられる。
「兄様だけよ。あたしの願いを叶えてくれるのは」
ザラが俺の胸にすり寄ってくる。
俺はその背中に手を回し、無言で頷いた。
ザラが何不自由なく、女王のように笑って暮らせる世界。
彼女が望むものは、宝石でも、男でも、血に濡れた玉座でも、すべて俺が用意する。
それだけが、兄である俺の、唯一の喜びなのだから。




