第17話 覚醒!黄金の暴君(2)
「っ……ぅ……」
熱風に吹き飛ばされ、背中を壁に打ち付けた痛みが、わたしを現実へと引き戻す。
幻覚は消えた。
「……ッ、何だ……今の……」
隣でブレイズが呻き声を上げ、頭を振っている。彼もまた、正気を取り戻したらしい。
わたしたちを覆っていたあの不快な「霧」は、跡形もなく消え失せていた。
しかし、わたしの視界に映ったものは、幻覚よりも信じがたい光景だった。
「……」
そこに立っていたのは、一人の男。
吹き荒れた熱風によって賢者のローブは乱れ、フードが完全にめくれ上がっている。
露わになったその素顔。絹糸のような金髪に、彫刻のように整った美貌。
それは紛れもなく、わたしの知るアズール・クリフォードのものだった。
けれど――違う。
「……アズー……ル……?」
わたしは信じられないものを見るかのように、乾いた唇でその名を呟いた。
彼がゆっくりと顔を上げる。
その瞳の色は、わたしの知る、あの理知的な深い青色ではなかった。
揺らめく炎そのものを封じ込めたかのような、爛々と輝く、黄金色。
目が合った瞬間、彼がふわりと微笑んだ。
その表情を見て、わたしは背筋が震えるのを感じた。
それはいつもの、静謐の賢者の、皮肉に満ちた笑みではない。
まるでブレイズが乗り移ったかのような……いや、それ以上に傲慢で、全てを見下し、全てを支配するという絶対的な自信に満ちた、野性的な笑みだった。
「……大丈夫ですよ、ミリアさん」
彼はわたしに向かって、蕩けるように甘く囁いた。
その声は穏やかで、恐ろしいほどに澄み切っている。
「もう、何も心配はいりません。あなたを脅かす全てのものは……このボクが、消し去ってあげますから」
カラン、と乾いた音が洞窟に響いた。
彼が愛用していた杖『蒼天詠み』が、無造作に手放され、地面に転がったのだ。
あの論理的で完璧主義のアズールが、魔術師の命とも言える触媒を。
まるで、もうそんなものなど必要ないと言わんばかりに。
「なっ……おい、アズール!?」
ブレイズが驚愕の声を上げるが、アズールは一瞥もしない。
アズールは杖を捨てたその手で、地底湖を汚染していた泥の塊へと、無造作に手のひらを向けた。
「消えろ」
短く、吐き捨てるように。
ジュッ!!
次の瞬間、莫大な熱量が空間を歪めた。
地底湖を覆っていたおぞましい泥が、沸騰する間もなく一瞬で蒸発し、白い蒸気となって消え失せる。
ルーンの構築も、詠唱もない。ただの「熱」の暴力。
「チッ!」
立ち込める濃密な蒸気の向こうで、黒い影が動いた。カシムだ。
ヒュンッ!!
鋭い風切り音と共に、銀色の閃光が奔る。回転するシミターが、アズールの無防備な首筋へと吸い込まれるように飛来した。
「アズールッ!」
直撃する……!
――そう思った、次の瞬間だった。
ジュッ……!!
アズールの身体に触れる数センチ手前。
彼の周囲に揺らめく陽炎に触れた途端、鋼鉄の刃が、まるで水滴を灼熱の鉄板に落としたかのように爆ぜた。
「なっ!?」
常に冷静沈着だったあの暗殺者が、初めて恐怖に顔を歪ませた。
直後、踵を返して地下水源の入り口へと駆け戻って行く。
物理攻撃も魔術も通じない理不尽な怪物を前に、勝ち目がないと悟ったのだろう。
「はっ……逃げ足だけは速いですね、鼠が」
アズールは逃げ惑うカシムの背中を見て、鼻で笑った。
それは、獲物をいたぶることを楽しむ捕食者の嘲笑。
「ま、待って……!アズールッ!!」
わたしの呼び止めにも、彼は振り返らない。
彼はわたしとブレイズを一瞥もしないまま、カシムを追って悠然と歩き出した。
その背中には、ゆらゆらと陽炎のような赤黒い炎が揺らめいている。
「おい、ありゃあ……一体どうなってやがる……」
隣でブレイズが、信じられないものを見る目で呆然と呟いた。
「ブレイズ、立って!!ぼさっとしてる場合じゃないわ!!」
「あ、ああ……?なんだありゃ……アズールの野郎、どうしちまったんだ?」
わたしは痛む体に鞭を打ち、無理やり立ち上がった。
アズールがおかしい。あんなの、わたしの知っているアズールじゃない。
けれど。
あの瞳の奥にあった熱だけは――紛れもなく、わたしに向けられた執着だった。
「わからない!でも、このままじゃあの子、戻ってこられなくなる気がする……ッ!」
嫌な予感がした。
あの背中は、何か決定的な一線を超えてしまった者のそれだ。
わたしは双剣を拾い上げ、唇を噛み締めた。
「後を追うわよ!放っておけない!!」
◇
アズールの背中を追って駆け込んだ通路は、さっきまでとはまるで別世界に変貌していた。
ひやりとした地下特有の冷気は消え失せ、肺を焼くような灼熱の空気が充満している。
「……何よ、これ……」
思わず足が止まりそうになる。
視界の先、本来ならゴツゴツとした岩肌だったはずの洞窟の壁面が、飴細工のようにドロリと溶け、滑らかに固まっていた。
一瞬にして超高熱に晒された岩盤が、融解し、ガラス化しているのだ。
「ゲホッ……!」
視界を遮る白い蒸気。
それは、『砂の魔物』たちの成れの果てだ。
この通路にいたはずの無数のサンドスコーピオンやサンドバット。
けれど、今ここにあるのは、死骸の山ですらない。
砂粒ひとつ残さず蒸発させられた、虚無の痕跡だけ。
「……おい、ミリア」
背後から、押し殺したようなブレイズの声が聞こえた。
振り返ると、彼はアズールが捨てていった杖『蒼天詠み』を大事そうに握りしめ、青ざめた顔で周囲を見回していた。
「これ、全部……あいつがやったのか?」
「……ええ。恐らく、ただ通り過ぎただけで」
ブレイズがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。
あの豪快で不敵なブレイズが、弟の歩いた跡を見て、戦慄している。
「あいつの魔法は……氷と風だろ……?なんでこんな……杖もなしにデタラメな熱が出せるんだよ……」
ブレイズの手のひらにある『蒼天詠み』。
それはアズールにとって、自身の魔術を制御し、増幅させるための半身とも呼べる杖だ。
これは魔術による現象じゃない。
論理も、術式も介さない、ただ純粋なエネルギーの暴力。
あの子は今、制御装置である杖さえ捨てて、その身一つで災害そのものになってしまっている。
「急がないと……!あの子、自分の身体まで焼き尽くしかねないわ!」
立ち込める蒸気を切り裂くように、わたしは再び灼熱の道を駆け出した。




