第15話 水底の泥龍(4)〈アズール視点〉
「――な……っ!?」
事態を理解するのに、数秒の空白が必要だった。
勝利の安堵に緩んだ空気が、一瞬にして凍りつく。
崩れ落ちたサーペントの残骸から噴き出した漆黒の霧が、ミリアさんと兄さんを飲み込んだのだ。
視界を奪うほどの濃霧。
その中で、あろうことか二人は武器を構え、互いに切っ先を向け合っていた。
「どうしたのです、一体!ミリアさん!兄さん!」
声が枯れんばかりに叫んだ。
けれど、ボクの声は黒い霧に吸い込まれ、二人には届かない。
まるで互いを不倶戴天の怨敵と認識しているかのように、二人の瞳には狂気の色が宿っていた。
兄さんの剛剣が岩を砕き、ミリアさんの神速の刃が兄さんの首筋を狙う。
どちらも本気だ。手加減など一切ない。
急所を的確に狙い合うその攻防は、拮抗しているがゆえに、一瞬でも気を抜けばどちらかの命が散る――そんなギリギリの均衡の上に成り立っていた。
「やめてください……ッ、二人とも!!」
ガギィィィンッ!!
ミリアさんの双剣が流星のごとき速さで喉元を狙い、兄さんの大剣が剛風を巻いてそれを弾く。
演舞でも、訓練でもない。
正真正銘、互いの命を刈り取るための必殺の連撃。
霧の中で、火花が散る。
ブレイズ兄さんの大剣が、ミリアさんの双剣が、殺意を持って交錯している。
刹那——。
呆然と立ち尽くすボクの背筋を、氷柱を突き立てられたような寒気が走った。
殺気。
思考するより早く、身体が動く。
「――『風よ』ッ!」
ボクは足元に風を纏わせ、無理やり身体をねじって横へと跳んだ。
ヒュンッ!!
一瞬前までボクがいた空間を、銀色の刃が切り裂いていく。
「……ほう。まだ、動けたか」
着地したボクの目の前に、ゆらりと黒い影が立つ。
カシム。
今までボクたちの護衛をしていた男が、感情のない瞳で曲刀をぶら下げていた。
「貴様……ッ!これはお前の仕業か!」
「……」
カシムは答えず、無言で踏み込んでくる。
速い!
滑るような、音のない一撃。
ボクは懐から細剣を抜き放ち、身体強化の術式を全開にして応戦する。
キンッ、ガギンッ!
一撃一撃が、骨の髄まで響くほどに重い。
広範囲凍結魔法で魔力を消耗しきったボクと、万全の状態で好機を待っていた暗殺者。
その差は歴然だった。
「ミリアさん!兄さん!目を覚ましてください!!」
刃を交えながらも、ボクは叫び続けた。
カシムの曲刀を紙一重で弾き、その隙に霧の向こうへ視線を飛ばす。
届かない。聞こえない。
二人は血を流しながら、互いの命を削り合っている。
「よそ見をしている余裕があるのか?」
一瞬、二人に気を取られた隙だった。
シミターが振り下ろされる。
「しまっ――」
ガキィンッ!!
咄嗟にレイピアで受け止めたが、受けきれない。
圧倒的な膂力で押し込まれ、レイピアが手から弾き飛ばされた。
ドスッ!
カシムの蹴りがボクの鳩尾に突き刺さる。
肺の空気が強制的に吐き出され、ボクは泥の上に無様に転がった。
「が、はっ……!」
「終わりだ」
冷徹な声と共に、カシムがボクの上に馬乗りになり、喉元に曲刀を押し当てる。
動けない。魔力が、体力が、底をついている。
「あ……あぁ……」
そして、ボクの視線の先。
均衡が、崩れようとしていた。
兄さんが大剣を大きく振りかぶり、ミリアさんが双剣を交差させて懐へと飛び込む。
防御を捨てた、最後の一撃。
あのタイミングでは、どちらかが死ぬ。いや、二人とも死ぬ。
二人の動きがまるでスローモーションのように感じられる。
脳裏に、走馬灯のように記憶が溢れ出す。
『流石ね、アズール』
ボクの名前を呼ぶ、世界で一番愛しい声。
ミリアさんの、聖母のような微笑み。
凍え、歪んでいたボクの心を初めて溶かしてくれた、唯一無二の光。
『へっ、シケた面してんじゃねえよ、陰険モヤシ』
いつもボクの前を歩いていた、あの忌々しいほどに眩しく、けれど誰よりも頼もしかった太陽。
追いかけ続け、憎み、憧れ、そしていつか超えたいと願い続けた、たった一人の兄。
……嫌だ……。
心の奥底から、原始的な叫びがせり上がってくる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だッ!
この二人を失って、ボクに何が残るというのだ?
賢者としての名誉に、一体何の意味がある?
父に認められ、クリフォード家を継いだとして……その空っぽの玉座で、ボクは一体誰に微笑みかければいい?
ミリアさんのいない世界など、色が消え失せた灰色の絵画と同じだ。
兄さんのいない世界など、音が消え失せた無音の牢獄と同じだ。
そんな、意味のない世界で、ボクはこれから、どうやって生きていけというのだ。
世界の真理?帝国の未来?
知ったことか。
――そんなもの、どうでもいい!
全ての知識を失ってもいい。賢者の塔から追放されても構わない。帝国を捨て、反逆者の烙印を押されたとしても、それでいい。
世界の全てを敵に回したとしても、この二人だけは、失いたくない……!
もし、神がいるのなら。
どんな代償でも払う。
ボクの地位も、名誉も、誇りも、命さえも捧げよう。
この魂さえも、喰い尽くされて構わない。
だから、どうか。
ボクから、二人を奪わないでくれ……!
視界が滲む。喉が裂けるほどに、ボクは咆哮した。
「やめろォォォォォォッ!!!!」




