第四話:冬の深まりと、解けゆく氷
アルノルトは王都へ戻らなかった。
王子としての地位も、山積する公務も、今の彼にとっては意味を持たない。
リシェルに「嫌です」と静かに拒絶されたあの日から、彼の世界は完全にこの北の小さな街へと縛り付けられていた。
彼はパン屋の目と鼻の先にある、古びた宿屋の一室を借りた。
そして毎日、夜が明ける前からパン屋の前に立ち続けた。
連れ戻すためではない。
ただ、彼女が視界から消えてしまうことが、狂おしいほどに恐ろしかったからだ。
だが、王宮という温室で完璧に育てられた王子は、この厳冬の街では驚くほどに無力だった。
「……チッ、なぜうまく割れない」
街の男たちが小気味よく真っ二つにしていく薪が、アルノルトの手にかかると不格好に斜めに裂け、あるいは斧の刃が食い込んだまま抜けなくなる。
見かねた店主が声をかけるが、アルノルトの手はすでに冷たい木肌と摩擦で、無惨に皮が剥け、血が滲んでいた。
朝の雪かきをすれば、慣れない重労働にすぐ息が上がり、市井の人間なら一時間で終わらせる範囲に半日を費やす。
かつてリシェルが、自分のために毎日どれほどの労力を費やしていたかを思い知るたび、今の自分の不甲斐なさが、惨めさが、刃となって胸に突き刺さった。
「おい、あんた。そんな格好じゃ凍え死ぬぞ」
店主に呆れられながらも、アルノルトは凍える手で薪を運び続けた。
かつてリシェルが感じていたであろうどれだけ尽くしても、完璧でなければ認めてもらえない無力感を、彼は今、まったく違う形で、骨の髄まで味わっていた。
冬の深まりとともに、リシェルの病状は目に見えて悪化していった。
朝、店先に立つ時間が少しずつ遅くなり、時折、胸を押さえて激しく咳き込む声が、冷たい空気を通じてアルノルトの耳に届く。
そのたびに、彼の心臓は凍りつくように縮み上がった。
それでも、リシェルはアルノルトを拒絶しきれなかった。
怒りや恨みがあるなら、怒鳴り散らして追い出すこともできただろう。
だが、今の彼女にあるのは、ただの諦念だ。自分に冷たかった婚約者が、ボロボロの手で慣れない雑用に追われている姿を見かねて、ある日の夕暮れ、彼女はついに、彼を店の裏口へと招き入れた。
「……中へどうぞ。そんなところで倒れられたら、お店の迷惑になりますから」
かけられた言葉は、どこまでも事務的で、優しかった。
その優しさこそが、アルノルトには何よりも残酷だった。
彼女が自分を怒るに値する対象とすら思っていない証拠だったからだ。
小さな薪ストーブの前の特等席。
リシェルは、店主が焼いてくれた甘い焼き菓子を小さな皿に乗せ、お茶と一緒にアルノルトの前に置いた。
「これ、美味しいんですよ」
リシェルは焼き菓子を一口齧り、ふんわりと、子供のように目を輝かせた。
その赤いリボンが、ストーブのオレンジ色の光に照らされて揺れる。
「王都では……こんなに甘いものは、食べられませんでしたから。いつも、健康のためと言って、苦いお茶ばかり」
「リシェル、俺は、そんな決まりがあるとは知らなくて……」
「いいえ、殿下が悪いわけではありません。私が勝手に、それが完璧な婚約者の義務だと思い込んでいただけですから」
責めるような口調は一切ない。
ただ、淡々と過去を振り返る彼女の横顔を、アルノルトは言葉を失って見つめることしかできなかった。
「私、春になったら、海が見たいんです」
リシェルは窓の外、しんしんと降る雪を見つめながら、ぽつりと言った。
「絵本でしか見たことがなくて。本当は、ずっと行ってみたかった。……殿下は、海へ行ったことがありますか?」
「ああ。……西の領地に、大きな海がある。どこまでも青くて、綺麗だ。春になったら、俺が、お前を連れていく。いくらでも見せてやる」
アルノルトは縋るように、必死に言葉を紡いだ。
しかし、リシェルは彼を見ようともせず、ただ静かに、寂しげに微笑んだ。
「そう、ですか。……それは、素敵ですね」
彼女の返事は、どこまでも遠かった。
「連れていく」と言ったアルノルトの言葉を、彼女は最初から信じていない。
自分の命が春まで持たないかもしれないという現実を、彼女自身が一番よく分かっているからだ。
夜、リシェルが奥の部屋へ下がったあと、アルノルトは一人、宿屋の部屋で冷え切った自分の手を見つめていた。
暖炉の火が、壁に長い影を作っている。
(俺は、何を見ていたんだ……)
十数年、ずっと側にいた。
彼女が赤色を好むことも、甘い焼き菓子で目を輝かせることも、海へ行きたいと願っていたことも。
そのささやかな望みを、自分がすべて、知らず知らずのうちに踏みにじってきた。
『言わなければ分からない』
あの日、自分が放った言葉が、どれほど傲慢で、独りよがりな言い訳だったかを、今の彼は痛いほどに理解していた。
彼女は「言わなかった」のではない。「言えない」ように、自分が仕向けたのだ。
そして、脳裏に去来するのは、リシェルが焼き菓子を食べて見せた、あの眩い笑顔。
(ああ……)
胸の奥が、引き裂かれるように熱くなる。
その痛みの名前を、彼はようやく、自覚せざるを得なかった。
依存ではない。
執着でも、自責でもない。
自分は、あの静かで、誰よりも強かった少女を、心から――。
「……愛していたんだ」
生まれて初めて口にした、本当の本音。
けれど、その言葉は、冷え切った室内の空気に溶けて消えるだけだった。
理解した時には、すべてが終わっている。
どれほど手を伸ばしても、彼女の心はもう、王都のあの冷たい回廊には戻らない。
自分に向けられるのは、ただの優しくて遠い、他人のための微笑みだけ。
窓の外では、ただ静かに、二人の残された時間を埋め尽くすように、純白の雪が降り続いていた。




