第五話:最後の雪と、初めての本音
冬が最後の猛威を振るうように、街は深い白に閉ざされていた。
リシェルの病状は、もはや誰の目にも明らかなほどに悪化していた。
ベッドから起き上がれる日は一日としてなく、白く透き通るような肌は、まるで雪そのものに同化してしまいそうだった。
アルノルトは、もはや薪割りも雪かきもしなかった。
ただ許された僅かな時間、彼女の枕元に座り、その横顔をじっと見つめ続けることしかできない。
王宮で万能を誇った彼の両手は、今や、愛する少女の命を繋ぎ止めることすらできない無力なものへと成り下がっていた。
だが、アルノルトは変わった。
彼は今、かつて決してしなかった学びを、必死に、貪るように繰り返していた。
「リシェル、今日は……その、甘い焼き菓子を、店主殿に焼いてもらった。一口でも、食べられそうか」
「ありがとうございます、殿下。でも、今は少し、胸がいっぱいで」
リシェルは申し訳なさそうに微笑む。
その枕元には、アルノルトが街の小さな商店を巡って買い集めてきた、形も大きさも不揃いな赤いものが並んでいた。
赤いリボン、赤い刺繍の施されたハンカチ、赤いガラスの小瓶。
かつて彼女が一番好きだったと言った色。
アルノルトは、リシェルがふと口にした言葉、見せた表情のすべてを、取り憑かれたように記憶に刻み込もうとしていた。
彼が好んだぬるくて薄いアッサムティーではない。
リシェルが本当は飲みたかったであろう、お砂糖がたっぷり入った、甘いミルクティーを不格好に淹れては、彼女の枕元へ運ぶ。
(遅い。あまりにも、遅すぎる)
彼女を理解すればするほど、自分が十数年間、どれほど都合のいい機能として彼女を消費していたかが分かり、喉の奥が焼けるように痛む。
それでも、アルノルトは学ぶことを止められなかった。
それが、今の自分に許された唯一の、そして最後の贖罪だからだ。
ある日の午後、窓の外でしんしんと降る雪を眺めながら、リシェルが小さく息を吐いた。
「……殿下」
「なんだ、リシェル。何か欲しいものはあるか?水か?」
アルノルトは弾かれたように立ち上がり、彼女の手を握りしめた。
驚くほどに冷たい。
指先からは、生きようとする温もりが、砂時計の砂のようにサラサラと零れ落ちていくのが分かった。
「いいえ。……ただ、もっと早く、こうして普通にお話ししたかったですね」
「リシェル……っ」
彼女の瞳には、やはり恨みも怒りもなかった。
あるのは、旅を終える者が荷物を整理するような、ひどく穏やかで、澄み切った静寂だけだ。
彼女はアルノルトを拒絶していない。
しかし、それは彼を許したからではなかった。もう、彼に対して何の期待も、未練も、執着も残っていないからこそ、ただの側にいてくれる優しい人として、受け入れているだけなのだ。
「私、この街に来てから、本当に幸せでした」
「……ああ」
「好きな色のリボンをつけて、美味しいお菓子を食べて、優しい人たちに囲まれて。……私の人生は、最後のこの一年で、ようやく私のものになりました」
リシェルは満足そうに目を細める。
その幸せの言葉が、アルノルトの胸を鋭く抉る。
彼女の幸福は、自分を捨てたことによって、自分のいない世界で、ようやく完成したのだ。
「行くな、リシェル……っ」
アルノルトの目から、堪えきれない涙が溢れ、彼女の手の甲を濡らす。
「頼むから、俺を置いていかないでくれ……!俺が悪かった、全部俺の傲慢だったんだ!これからお前を愛させてくれ、お前の行きたい場所へ、どこへでも連れていくから……っ」
完璧だった王子が、子供のように声を上げて泣き、必死に懇願する。
初めて剥き出しにした、彼の本音。
初めて伝えた、彼なりの愛の言葉。
しかし、リシェルはただ、遠い目をして微笑むだけだった。
「最後に……私を一人の女の子として、好きになってくれて……嬉しかったです、アルノルト様」
初めて、殿下ではなく、彼の名前を呼んだ。
けれどそれは、親愛の証ではなく、彼女の人生の『終わりの挨拶』だった。
「……海、行きたかったな」
ぽつり、と掠れた声で呟き、リシェルは静かに、長い睫毛を伏せた。
繋がれた手の力が、完全に失われる。
「リシェル?嘘だろ、目を開けてくれ……リシェル!」
部屋の中に、男の慟哭が響き渡る。
しかし、彼女が再び目を開けることはなかった。
彼女の黒髪に結ばれた赤いリボンだけが、ストーブの残火に揺れている。
彼女は、アルノルトを許さないまま。
けれど、自分自身の人生を、確かに愛して、静かに息を引き取った。
その日の夜。
静まり返った部屋で、アルノルトは一人、リシェルの亡骸の傍らに座り込んでいた。
冷たくなった彼女の枕元から、一本の赤いリボンを手に取る。
彼女が自分の意志で、最初に選んだ自由の象徴。
アルノルトはそのリボンを、両手で、壊れ物を扱うように 強く、強く握り締めた。
「……あ、……ああぁ……っ」
押し殺した悲鳴のような、嗚咽が漏れる。
布地を通じて、彼女の生きた形跡が、自分の傲慢さが、一気に押し寄せてくる。
『本当は赤色が一番好きだったんです』
『もう、頑張らなくていいんですね』
彼女の小さな願いを、自分がどれほど踏みにじってきたか。
どれほど彼女を孤独の中に置き去りにしてきたか。
理解した。
すべてを、完璧に理解した。
だが、世界で一番欲しかったその理解は、彼女の命が尽きると同時に、何の意味も持たないガラクタへと変わってしまった。
「ごめん、……ごめんな、リシェル……」
どれほど涙を流そうと、どれほど謝罪を重ねようと、彼女はもうそれを聞いてはくれない。
アルノルトは、赤いリボンに顔を埋め、夜が明けるまで、ただ一人で泣き続けた。
彼に残されたのは、彼女を深く理解したという事実と、それゆえに一生消えることのない、底なしの自己嫌悪だけだった。




