第三話:手遅れの追跡と、氷の街の笑顔
真実を知ったあとの王宮は、アルノルトにとって生き地獄に等しかった。
「リシェルはどこだ」
「アルベリア侯爵家の領地か?それとも王都の別邸か?」
髪を乱し、血走った目で文官たちに掴みかかる王子の姿に、周囲は完全に怯えきっていた。
しかし、いくら調査を命じても、彼女の足取りは妙に綺麗に消えていた。
のちに判明したことだが、戸籍管理の老受付官が、リシェルの最後の願いを察し、意図的に彼女の移動書類を処理の底へ沈めていたのだ。
王宮に満ちる、リシェルの残痕。
通りかかる回廊、かつて彼女とすれ違ったバルコニー。
そのすべてに、彼女がいないという空白が酷く重くのしかかる。
アルノルトの睡眠時間は削られ、食事も喉を通らなくなった。
彼を動かしているのは、愛の自覚などという美しいものではなかった。
ただ、己の半身を捥ぎ取られたかのような強烈な「飢餓感」と、彼女の死という現実から目を背けたいという「執着」だけだった。
「見つけろ……。手段を選ぶな。俺のすべてを賭してでも、リシェルを連れ戻せ」
彼はまだ、気づいていなかった。
連れ戻してどうするのか。
謝るのか? 許しを乞うのか? 治療法を探すのか?
そのどれもが、今の自分にはあまりにも資格がないということに、彼はまだ、目を瞑り続けていた。
そして、数ヶ月に及ぶ必死の、狂気じみた捜索の末、ようやく一枚の報告書がアルノルトの手元に届いた。
国の北端、年中雪が舞う小さな街。
そこに、リシェルらしき黒髪の少女が暮らしているという。
アルノルトはすべての公務を放り出し、自ら馬を駆った。
ただの一秒も、無駄にはできなかった。彼女に残された時間は、もう一年もないのだから。
北の街は、王都とはまったく違う静寂に包まれていた。
空からは、綿毛のような雪がひらひらと舞い降り、石畳を白く染めていく。
アルノルトは馬を降り、報告書にあった小さなパン屋へと向かって、雪を踏み締めた。冷たい空気が肺を刺すが、それすら気づかないほどに彼の心臓は激しく脈打っていた。
(リシェル、リシェル、リシェル――)
呪詛のようにその名を頭の中で繰り返しながら、角を曲がった、その時だった。
「あはは、本当ね。マイルズくん、お顔に粉がたくさんついているわよ」
不意に、鈴を転がすような、清らかな笑い声が聞こえた。
アルノルトの足が、凍りついたように止まった。
視線の先、古びたパン屋の店先。
そこには、素朴なウールのドレスを纏い、エプロンをつけたリシェルがいた。
彼女の美しい黒髪には、王都では決して許されなかった、鮮やかな赤いリボンが結ばれている。
リシェルは、隣で小麦粉の袋を抱えて鼻の頭を白くしている小さな男の子に向かって、屈み込んで笑っていた。
その笑顔は、あまりにも眩しかった。
目元を優しく和らげ、頬をほんのり桜色に染め、心の底から楽しそうに、幸せそうに、彼女は笑っていた。
ガタガタと、アルノルトの身体が震え始めた。
(……なんだ、あの顔は)
脳裏に、王都でのリシェルが蘇る。
いつも背筋を伸ばし、一分の隙もなく微笑んでいた彼女。
自分が『似合っている』と声をかけた時ですら、彼女はただ『ありがとうございます、殿下』と、完璧に、けれどどこか寂しげに微笑むだけだった。
一度も。
十年以上の年月を共に過ごしてきて、ただの一度も。
アルノルトは、リシェルの本当の笑顔を見たことがなかった。
引き出したことも、なかった。
彼女をただの人形にしていたのは、他でもない自分だ。
自分といる時の彼女は、いつだって息を詰まらせ、心を殺していた。
自分から離れ、死を目前にして、市井の子供とパンを焼いている今の方が、彼女は遥かに生き生きとしている。
「俺は……」
アルノルトは、己の胸に鋭い氷塊を突き立てられたような衝撃に、言葉を失った。
自分が彼女から、どれほど残酷に、すべてを奪い続けていたのか。
その手遅れの実感が、彼を激しく打ちのめした。
「リ、シェル……」
掠れた声が、雪の静寂を破った。
リシェルがハッとして顔を上げる。
その瞳に映ったのは、かつて完璧と称えられた面影もなく、旅の汚れに塗れ、青白い顔で自分を見つめる婚約者――アルノルトの姿だった。
リシェルは一瞬だけ、驚いたように目を見開いた。
赤いリボンが、冬の風に揺れる。
しかし、彼女の動揺は一瞬だった。
すぐにマイルズという少年の背を優しく押し、「奥でおじさんと待っていてね」と店の中へ避難させる。
そして、アルノルトに向き直った。
その表情は、先ほどの温かな輝きが嘘のように、すっと凪いでいた。
恨みも、怒りもない。
ただ、何の関心も抱いていない他人に向けられるような、完璧で、冷たい静寂。
「アルノルト殿下。……どうして、ここに」
「リシェル、お前……その髪は」
アルノルトの視線が、彼女の髪の赤いリボンに泳ぐ。
リシェルはそっと自分の髪に手を触れ、小さく微笑んだ。
「これですか?私、本当は赤色が一番好きだったんです。殿下が嫌うから、ずっと着けられませんでしたけれど」
「あ……」
あらかじめ用意されていたかのような、痛烈な告白。
アルノルトは息を吸うことすら忘れた。
自分が何気なく口にした『派手な装飾は嫌いだ』という言葉が、彼女の好きを何年も圧殺していたのだ。
「リシェル、頼む、帰ろう」
アルノルトは一歩踏み出し、震える手で彼女の細い肩を掴んだ。
驚くほどに軽い。
上着の上からでも、彼女の身体が以前よりずっと細く、脆くなっているのが分かった。
「王都へ戻るんだ。俺が悪かった。お前の病のこともすべて聞いた。宮廷医師を総動員する、世界中から薬を集める。だから、俺の側に――」
「嫌です」
遮るように、静かな、けれど鉄のように固い拒絶が、リシェルの唇から零れ落ちた。
「リシェル……っ!?」
「嫌です、殿下。私はもう、王都には戻りません」
「なぜだ!お前は俺の婚約者だろう!言わなければ分からないから、お前が裏でそんなに苦しんでいたなんて知らなかったんだ!これからは、俺がお前を――」
「殿下」
リシェルは、アルノルトの手をそっと拒むように、自分の肩から押し退けた。
その手応えのなさに、アルノルトの心臓が冷たく跳ねる。
「私は、殿下のために生きてきました。殿下の役に立つことだけが、私の価値だと信じて。……でも殿下は、一度も私を見てくださらなかった」
リシェルの瞳が、まっすぐにアルノルトの氷の瞳を射抜く。
「だから最後くらい、私は私のために生きたいんです。この小さな街で、焼き菓子を食べて、海を見て、自分の好きな自分で死にたい。……お願いです、もう私を放っておいてください」
「あ……っ」
アルノルトの口から、言葉が消えた。
彼女の言葉には、彼が付け入る隙など、一微塵も存在しなかった。
彼女を愛していたのか、それともただ必要としていただけなのか、まだその答えは出ない。
けれど、確実なことが一つだけあった。
自分は、完全に敗北したのだ。
手遅れという名の、底なしの沼の中で。




