第二話:日常の崩壊と、突きつけられた真実
「……どういうことだ」
地を這うような低い声が、第二王子執務室に響いた。
アルノルトは、机の上に置かれた一枚の書類。
王宮の戸籍管理窓口から回されてきた、正式に受理された『婚約破棄届』の写しを、穴が開くほどに見つめていた。
眉間には深い皺が刻まれ、その美貌は不快感で歪んでいる。
「リシェルが自らこれを提出し、王都を出た?……馬鹿馬鹿しい。あの大真面目で、俺の言うことなら何でも従うリシェルが、そんな勝手な真似をするはずがないだろう」
アルノルトの胸を最初に占めたのは、後悔でも動揺でもなく、純然たる怒りだった。
王家の婚約という絶対の義務を放り出し、相談もなく姿を消すなど、一国の王足るべき自分の婚約者として、あまりにも不条理で、甘ったれた行動に思えたからだ。
「夜会のエスコートを他令嬢に変えた程度で、へそを曲げたのか?……子供っぽすぎる。少し甘やかしすぎたな」
彼はリシェルの完璧さに、そして自分への献身に、完全に胡坐をかいていた。
不器用なりに、馬車の中で「似合っている」と声をかけてやったのだから、それで十分伝わっているはずだ。
一時の感情で義務を放棄するなど、戻ってきたら厳しく言い聞かせねばならない。
アルノルトはそう結論づけ、無理やり怒りを収めると、いつも通りペンを取った。
「放っておけ。どうせ数日もすれば、立場を自覚して泣きついてくる」
その冷淡な言葉が、どれほど致命的な手遅れへの第一歩であるか、この時の彼はまだ気づいていなかった。
しかし、リシェルが消えて三日が経過した頃、アルノルトの世界は急速に、不気味な音を立てて狂い始めた。
朝、執務机に向かったアルノルトは、無意識に口を開いた。
「リシェル、先日の隣国との交易協定に関する資料を――」
返事はない。
静まり返った室内で、アルノルトは自分が、誰もいない空間に向かって声をかけたことに気づき、ハッと息を呑んだ。
「……そうだ。あいつはまだ、戻っていないんだったな」
舌打ちをして、代わりに控えていた文官に資料を運ばせる。
だが、運ばれてきた書類の束を見た瞬間、アルノルトは再び手を止めた。
いつもなら、彼が一番読みやすい順序で、重要度別に美しく色分けされたインデックスが貼られていたはずの書類が、ただ雑然と積み上げられているだけだった。
「チッ……」
苛立ち紛れに書類をめくるが、ペンを握ろうとして、さらに指先が止まる。
いつも右斜め上、ミリ単位の狂いもなく置かれていたはずの万年筆の予備が、どこにもない。
インクの補充もされていない。
日常の、ほんの些細な綻び。
(……いや、これくらい、大したことではない)
自分にそう言い聞かせ、運ばれてきた紅茶に口をつけた瞬間、アルノルトは「熱っ……!」と激しく顔を顰めた。
舌が焼けるほどに熱く、渋みの強い、最悪の紅茶だった。
『アルノルト殿下は、少し冷ました、ぬるめの温度を好まれます。それから、執務中は集中力が切れないよう、茶葉はアッサムの、極めて薄いものを』
かつて、リシェルが侍女たちにそう指示していた声を、記憶の底から思い出す。
彼女がいた頃は、いつだって最適な温度で、完璧な味の紅茶が、彼が欲しいと思う絶妙なタイミングで机に置かれていた。
「おい、この紅茶はなんだ!誰が淹れた!」
「ひ、ひえっ……!申し訳ありません、いつも通りに淹れたのですが……!」
怯える給仕を下がらせ、アルノルトは頭を抱えた。
書類の順序、ペンの位置、紅茶の温度、自分の体調管理、着替える上着のサイズ合わせ。
当たり前だと思っていた。
自分が完璧に仕事をし、完璧な王子でいられるのは、自分の才能が優れているからだと信じて疑わなかった。
だが、違った。
自分の完璧な世界のすべては、リシェルという少女が、裏で血を吐くような細やかさで支え、守り続けていたからこそ成立していたのだ。
その事実が、日常の小さな不便となって、じわじわとアルノルトの心へ冷たい楔を打ち込んでいく。
王都から遥か遠く、馬車を乗り継いで一週間。
リシェルは、国の北端にある雪深い小さな街へとたどり着いていた。
王都のような華やかさはなく、石畳の道も少し古びている。
けれど、窓から漏れるランプの光や、すれ違う人々の素朴な笑顔には、どこか温かみがあった。
リシェルは、街の片隅にある小さなパン屋に住み込みの店員として雇われることになった。
朝早くに起き、小麦粉で手を白くしながら、パンをこねる。
王妃教育の高度な学問に比べれば、それはとても単純で、しかし、ひどく新鮮な労働だった。
「リシェルちゃん、これ、焼き上がったよ。味見してみて」
優しい初老の店主から渡されたのは、お砂糖と蜂蜜をたっぷりと使った、不揃いな形の焼き菓子だった。
王宮であれば、「淑女の健康を害する」「はしたない」と、一口すら許されなかった代物。
リシェルはそれを、そっと口に運んだ。
じゅわりと、暴力的なくらいに濃厚な甘みが、舌の上に広がる。
「……おいしい」
ぽろぽろと、涙が溢れた。
悲しいのではない。ただ、生まれて初めて自分の意志で、食べたいものを食べているという事実に、心が震えたのだ。
その日の午後、リシェルは近くの市場へ足を運んだ。
そして、小さな雑貨屋の店先で、足を止める。
そこにあったのは、一本の鮮やかな赤いリボンだった。
アルノルトが嫌った、派手で、激しい、情熱の色。
「……これをください」
リシェルは手に入れた赤いリボンを、自分の黒髪に結んだ。
鏡に映る自分は、完璧な侯爵令嬢でも、王子の婚約者でもない。
ただの、どこにでもいる、少し病弱な一人の女の子だった。
「海は……ここからじゃ、まだ見えないけれど」
リシェルは胸元に手を当て、小さく微笑んだ。
病の痛みは、確実に彼女の身体を蝕み始めている。
夜、ベッドの中で激しく咳き込む時間も増えた。
けれど、彼女の足取りは、かつてないほどに自由で、軽やかだった。
リシェルが去って、二週間。
王宮の第二王子執務室は、完全に崩壊しかけていた。
貴族間の利害調整が滞り、あちこちの侯爵家や伯爵家から「第二王子殿下の手際が悪い」と、あからさまなクレームが入り始めていた。
アルノルトは不眠不休で書類に向かっていたが、リシェルという完璧なフィルターを失った事務処理は、どれだけ時間をかけても終わらない。
髪は乱れ、目の下には濃い隈が浮かんでいる。
「なぜだ……なぜ、あいつ一人がいなくなっただけで、これほど……っ」
ガシャァン!!
アルノルトは耐えきれず、机の上の書類を床にぶちまけた。
怒り。苛立ち。そして、その奥底から這い上がってくる、正体不明の恐怖。
そこへ、部屋の扉が激しく押し開けられた。
入ってきたのは、アルベリア侯爵家に長く仕える老侍女だった。
彼女の目には、怒りと、そして深い悲しみの涙が溜まっている。
「第二王子殿下……ッ!!お嬢様が姿を消したというのに、貴方は、まだそんなところで書類仕事ですか!」
「不敬だぞ。リシェルが勝手に義務を放棄したのだ。俺は被害者――」
「義務、ですって……!?貴方は、お嬢様がどんな思いでその義務を果たしていたか、一度でも考えたことがあるのですか!」
老侍女は、アルノルトの言葉を遮って叫んだ。
そして、懐から一通の紙を、叩きつけるように机に置いた。
宮廷医師ハリスの署名が入った、診断書の写しだった。
「お嬢様は、魔力病でした。……体内の魔力が暴走し、内臓を蝕む、完治不能の奇病です」
「な……に?」
「もう、長くはありません!あと一年の命だと、ハリス様から宣告されたのです。それなのに殿下は、あの夜会でも、お嬢様を衆目の前で足蹴にされ、別の令嬢と……っ」
老侍女の言葉が、アルノルトの鼓膜を通じて、脳髄へと突き刺さる。
魔力病。
あと、一年。
「嘘だ。あいつは、いつも通り、完璧に……」
「完璧に振る舞わなければ、貴方の側にいられなかったからでしょう!!お嬢様が倒られた時、何と仰ったかご存知ですか!?『もう、頑張らなくていいんですね』と、泣きもせず、嬉しそうに笑われたのです……っ」
『もう、頑張らなくていいんですね』
その言葉が、アルノルトの胸を、鋭利な刃物で直接抉り出した。
彼女をそこまで追い詰めたのは、誰だ?
彼女の心を殺し、死を救いだと、安堵だと感じさせたのは、誰だ?
――他でもない、俺だ。
「リ、シェル……?」
アルノルトの口から、掠れた声が漏れる。
視界が急速に歪んでいく。
完璧だった王子の世界が、今、完全に粉々に砕け散った。




