第八十七話 兄弟の別れ
それからも国衡と忠衡は毎日のように衣川の館を訪れ、豪華な食事と装束を用意していった。
喪の余韻が薄れていくにつれ、館にはまた明るさが戻ってきた。夕刻になると御所の方から家人たちが膳を運び、国衡と忠衡が当然のように席に加わる。食後は、用意された装束に牛若が次々と着せ替えられていく。牛若はいつも穏やかに笑っていた。
毎日のように夕餉を共にするため、牛若たちは本当の三人兄弟のように見えた。
泰衡は現れなかった。
そんな日々がどれだけ続いただろうか。
今も夕餉がちょうど終わったところだ。三郎は満足げに腹をさすっていた。
「毎日食べきれないぐらい豪華な食事が届いて、俺たちほんと幸せだよな。ありがとうな、国衡さん、忠衡さん」
三郎が遠慮なく言うと、国衡は大きな声で笑った。
「義経の家人のみなさんも、奥州の宝ですから」
その言い方に、三郎は照れくさそうに頭をかいた。忠衡も、牛若の方を見ながら穏やかに続ける。
「義経兄上を、いつまでもこの館で守ってあげて下さい」
「もちろんだ!」
三郎は力強くうなずく。
「俺なんて――」
鷲尾は天井を見上げながらつぶやいた。
「猟師だった時のことなんか、もう思い出せないぞ」
「鎌倉も都も、今となっては仮の宿でしかなかったな。ここは理想郷だ」
駿河の声にも深い実感がこもっていた。
「それがしもこちらへ参ってから、会う人がみな良い人ばかりで、得意の悪知恵を働かせる機会が全くなくなり申した。寂しい限りにございます」
喜三太が肩をすくめると、三郎が「働かせなくていいんだよ」と呆れている。
郷御前は膝の上で袖をそっと撫で、少し困ったように微笑んだ。
「私も、お食事はもちろんのこと、河越の田舎娘だった時には想像もしなかったような、分不相応な綺麗なものばかり着させて頂き、恐縮するばかりですわ。こんな贅沢ばかりさせて頂いてよろしいのか……藤原氏のお台所が心配ですの」
郷御前らしい心配だったが、国衡は豪快に首を振る。
「奥方殿、ご安心を。平泉の富を見くびってはなりませぬ」
「まさに」
忠衡も兄に続く。
「我らの富は限りがございませんゆえ」
(それは事実かもしれぬが、その富を果たして我らだけが使い続けてよいのか……)
弁慶は、豪奢な館の柱や敷かれた布、並ぶ器を見回した。
牛若が笑っている。それだけで全てが正しいことのように思えはする。だが、この館の外には、牛若を討てと命じる鎌倉があり、朝廷があり、日の本全土の武士たちの存在があるのだ。
その時、門の方から馬の蹄の音が聞こえた。
「――兄上はおられますか? 忠衡も」
それは当主の泰衡の声だった。
「泰衡兄上だ」
忠衡が立ち上がる。
国衡もすぐに腰を上げた。
「義経、こちらでしばらくお待ちを」
そう言って後を追う。国衡は牛若を呼び捨てながらも、敬意を捨てきれずにいるらしい。牛若も立ち上がりかけつつ、ほんの少しだけ迷った後、静かに口を開いた。
「泰衡殿……泰衡兄上を見るのは久しぶりゆえ、会ってくる」
そう言って立ち上がる牛若に続いて、弁慶も腰を上げた。
「それがしも参ります――他の皆はそのままで」
三郎が何か言いかけたが、弁慶は視線だけで制して後を追った。
夜気が流れ込んでくるのを感じる。門を入ってくる泰衡の姿が見えた。
衣川の館の中を一目見た瞬間、その顔がわずかに歪む。
「何だ、この豪奢な造りは……」
その表情は明らかに曇っている。
自分の祖父基成の館を勝手に改造されたのだ。良い気はしないだろう。
泰衡は国衡の方を向いて言った。
「たった今、早馬が来ました。鎌倉からの意を受けた昌尊という法師が率いる軍勢が出羽の国境を破ろうとしているとのこと」
「なんと」
国衡の顔つきが変わった。
「それは一大事にございますね」
忠衡の声も深刻さを帯びていた。
牛若は遠慮がちに、柱の陰から三人を見つめている。弁慶は斜め後ろに控えて耳を澄ませた。三人は深刻な話のせいか、死角にいるこちらの気配に気づかない。
「関守程度では対処できまい。私が今すぐ討ちに参らねば」
国衡の表情には今すぐ走り出しそうな緊迫感があった。
「私も参ります」
忠衡も力強い声で言う。
なるほど、軍事の苦手な泰衡に代わり、これから討伐へ行こうというのか。
だが、二人の言葉を聞いても泰衡の顔は晴れなかった。
「兄上。正面戦争になる前に、考え直せませぬか?」
泰衡は、館の中を射抜くような視線で見回してから、さらに続けようとする。
「これまで、何度も申し上げましたが……」
「泰衡、その話はとっくに終わったではないか」
「さよう。父上の遺言を守ると決めたではありませんか」
二人とも声が厳しい。
(ん? どういうことだ……?)
国衡と忠衡の顔つきに険しさが見える。
出羽の国境の話だけではない。三人の間には、これまで何度もぶつけられたらしい話題がありそうだ。
泰衡は苦しそうなため息をついた。
「――ただ抱え込むのを止めれば良いだけです。それ以上のことまではせずともよいのですから」
(読めた……)
これは明らかに、牛若の扱いをめぐる話だ。
朝敵で日の本中から追われる身の牛若をこの平泉で庇護し、このような豪奢な館に堂々と住まわせることが藤原氏の滅亡を招くというのは、とっくに分かりきっていたことではある。泰衡は牛若を手放せと言っているのにちがいない。
三人がもって回った言い方をしているせいで、牛若は首を傾げているだけだった。
「何を言う」
国衡がわずかに声を荒げた。声の大きさは変わらないが、かなりとげとげしい。
「やっと、この平泉に戻って下さった光を手放すなど、父上も許さぬし、この私も許さぬ。どなたのおかげで、平泉が活気を取り戻したと思っているのだ」
泰衡は絶句して唇を噛み締めている。
国衡は、牛若の光が平泉を栄えさせていると本気で思っているらしい。
「泰衡兄上、そんなことをすれば天罰が降りましょう。我々が大切にお守りしているからこそ、我々は安泰でいられるのですから」
(言っていることが逆さまではあるまいか)
牛若を見捨てれば確かに天罰は降るだろうが、現実は今この瞬間に牛若を守り、この館を守っているからこそ、奥州が安泰でいられなくなるのではないか。牛若の笑顔を見ていると、決して認めたくはないが――。
泰衡はうんざりしたようにため息をついた。
「兄上も忠衡も、正気を失っておられる。このままでは奥州が滅びてしまう」
「正気を失っているのは泰衡兄上の方です。父上の満ち足りた寝顔を思い出されよ」
忠衡の顔にも声にも、迷いは見えなかった。
「忠衡の言う通りだ。父上は泰衡を跡継ぎとして信頼しておられたのに、お前は裏切るつもりなのか? お前の考えは孝道にも、人の道にも反する行いだ」
国衡は力強く言ってのけた。
「――全く話が通じぬ……」
泰衡は頭を抱え込み、重いため息をついていた。その肩は先ほどより小さく見えた。
「それでは、この事態をどうすればよいのです」
泰衡はうつむいたままつぶやいている。
「知れたことだ。武は我らの出番。泰衡は安心するがよい」
国衡の声に一切迷いはなかった。
「私も国衡兄上に従います」
忠衡も深く頷いている。
「武は国衡兄上に任せるのがよいと、父上も言っていたはずです」
「それでは解決にならない」
泰衡の声には深い疲労が滲んでいた。
「何を言う。法師の率いる烏合の衆など、奥州十七万騎のもとではものの数に入らぬではないか。泰衡は政を続けていればよい。私は今すぐ参る。それでは」
「私も参ります。泰衡兄上は、義経兄上のお食事と装束を整えながらお待ちくだされ」
「いや、それは……」
泰衡は血の気の引いた顔で止めようとしていたが、国衡はすでに「義経に伝えて参る」と踵を返そうとしていた。
二人はそこで、牛若の存在に気づいた。
「義経……っ」
「聞いておられたのですか……」
二人は気まずそうに兄弟で顔を見合わせている。
牛若は柱の陰から静かに進み出た。
「今から、戦いに行くのですか」
牛若の声音は穏やかだった。三人の険悪な雰囲気やその理由など、理解できていないにちがいない。
「私も参ります」
牛若は力強く言った。自分の意志をはっきり表明できてはいる。
「義経、それには及びませぬ」
「相手はただの法師が率いる軍勢に過ぎませぬ。義経兄上はこの館にいて下さい」
国衡も忠衡も、優しく、しかし強く制した。
「しかし……」
牛若は心配そうな表情をしているが、国衡は胸を張った。
「むろん、本当にここまで鎌倉軍が侵入してきたら、その時は大将軍の義経の出番です。されど、たかが法師の率いる軍勢に大将軍が出ていくのは不適切ゆえ」
(何を言う。こんなところまで敵が侵入してきた時はもう手遅れであろう……)
弁慶の背中に悪寒が走った。
この男たちは、牛若を大将軍と呼びながら、今目の前で起きようとしている現実の戦場に出そうとは考えていないのだ。
「私と国衡兄上は、これから出羽の烏合の衆を倒してくるだけです。もちろん、『義経大将軍』の軍勢である、と名乗ってまいります!」
「おお、それがよい! 義経、安心して待っておられよ。我らはすぐに行かねばならぬ」
国衡が力強く頷く。
「お食事と装束の手配は泰衡兄上がしてくれますから」
忠衡が当然のように付け加えた。
泰衡は何も言わずにうつむいていた。
「国衡兄上……忠衡……」
牛若が寂しそうな声で涙ぐむと、二人は牛若の肩にそっと手を置いた。
「義経。すぐに戻って参りますのでご安心を」
「また義経兄上に会えるのを楽しみにしております!」
二人の声はどこまでも温かかった。
「どうか、ご無事で……!」
牛若は声を震わせるが、二人はそれを笑顔で見つめるだけだ。
兄弟二人は名残惜しそうに牛若の肩から手を離すと、泰衡にも一礼だけして、すぐそこの馬に飛び乗る。
「義経。それでは」
「行ってまいります!」
「ご武運を……!」
牛若をうれしそうに見つめた後、二人は踵を返して馬を走らせた。
蹄の音が遠ざかっていく。
泰衡は呆然とした表情で二人の後ろ姿を見つめていた。顔は血の気が引いたままだった。
「――泰衡兄上、お久しぶりにございます」
牛若が静かに言った。
「なに、兄上、か……」
泰衡は顔がひどく青ざめるのが弁慶には分かった。
「私も、いざという時は戦います」
牛若は真剣な表情で言っていた。
(いつ、どういう状況で戦うのか、天界の稚児には見えていない……)
秀衡がこの世の極楽浄土を作って死んでいってしまったのだ。牛若はその極楽の中に立っている。
その場に沈黙が落ちた。泰衡は深く息を吸い込んだ。
「――良き館ですね。朝餉、届けにまいります」
泰衡は牛若の言葉には答えず、そっと微笑んでみせたが、その口元は微かに引きつっていた。
「――失礼いたします」
泰衡は礼節を崩さないまま、馬にまたがり走り去っていった。
闇の中へ蹄の音が消えていく。
牛若はそっと振り返った。
「弁慶」
「はい」
「――鎌倉の兄上は、どうしても私を討ちたいのだな」
そう言う声は少しだけ寂しそうだったが、ひどく穏やかだった。
鎌倉の、兄上。
牛若にとって、あの不潔な男は、何人かいるうちの「兄上」の一人に成り下がったのだろうか。
「今日はもう寝るとしようか」
「――はい、牛若さま」
弁慶は静かに答え、牛若の背中をそっと追うことにした。
広間へ戻ると、三郎が真っ先に顔を上げた。
「何だったんですか? 二人は?」
珍しく心配そうな声だった。鷲尾も駿河も、喜三太も、郷御前もこちらを見ている。
「出羽への侵入を企む法師の軍勢を討つため、国衡兄上と忠衡は出陣するそうだ。もう出発してしまった」
牛若は落ち着いた声で答えた。
牛若は何が起きているかは理解している。だが、今の牛若にとって大事なことではなさそうだった。
「聞いたこともない法師が率いる軍勢でしたら、とりあえず大丈夫そうですわね」
郷御前が言った。土佐坊の時のことを想定した言葉なのだろうか。あれだけ疑り深く冷徹だった郷御前も、ここでは普通の奥方になってしまっているようだ。
牛若が笑顔なら、喜ぶべきなのかもしれない。
弁慶は静かに息を吐いた。




