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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第八十八話 影の立往生

 朝になり、いつものように目覚めた弁慶たちは、縁側に腰かけて静かな時間を過ごしていた。


 三郎と鷲尾は「朝餉(あさげ)はまだか……?」とぼやいているが、今朝の日の出はいつになく陰りのない鮮やかな光で、牛若や郷御前はその太陽を静かに見上げていた。駿河と喜三太も、その美しさに息を呑んでいた。


 弁慶は縁側に座ったまま、牛若の横顔を見ていた。牛若はただ、光を見上げていた。


 次の瞬間、大勢の人馬の音が一気に近づいてくる。


「何事だ……?」


 三郎が一番に反応した。皆が顔を見合わせる。弁慶も胸騒ぎを感じたが、それはあっという間のことだった。


 気がつけば、衣川の館は大軍勢に包囲されていた。(とき)の声が一斉に上がる。


「囲まれてしまいましたわ」


 郷御前の声は冷静に努めながらも動揺している。


「出羽の坊主の軍勢が、ここまで攻め込んできたのかよ」


 三郎は首を傾げながら短剣を手に持ち、片膝を立てた。鷲尾も「そんなことあるか?」とつぶやくなり、自分の短剣を握りしめた。


「あれは、我らの敵であるのか?」


 牛若は無邪気に首を傾げている。


「敵でしたら、こんな風に囲まずとも、すぐ襲いかかってくるのでは?」


 腕を組んだ喜三太が言うと、それもそうだと皆がうなずく。


「――いや、この素早い馬の動きは……奥州の馬では」


 駿河が静かにつぶやき、三郎たちは顔色を変えた。


「まさか……俺たち、裏切られたのか……?」


「出羽に向かった国衡殿や忠衡殿が、わざわざ舞い戻ってくるとは考えられませんわ。おそらく相手は……」


 郷御前の言葉を受けて、三郎は立ち上がった。


「泰衡さんかよ……!」


 全員が息を呑む。


 いや、牛若はただ門の向こうの軍勢を見つめていた。弁慶も、不思議とまだ実感を持てずにいた。


「――泰衡兄上が、私を討とうと……?」


 いつになく、牛若の認識は的確だった。その声には失望や恐怖や緊張感はなく、ただ戸惑いだけがあった。


「――義経殿。包囲させて頂きました……!」


 泰衡の声が響いてくる。


 牛若は静かに立ち上がると、そばにあった草鞋(わらじ)をはいて門の前へ向かおうとする。


「牛若さま、危険ですよ! 俺が行きます!」


 そう言う三郎を牛若は制した。


「大丈夫だ。泰衡兄上が私を直接呼んでいるのだから」


 その声は力強かった。


 弁慶と三郎が牛若の横を護衛する。他の者も後を追ってきた。心臓の鼓動が一気に早まってくる。


「――義経殿……!」


 泰衡は門の向こうで、牛若を馬上から見下ろしてきた。周りを大勢の家人が守っている。普段見かける家人たちとは異なった顔ぶれだった。泰衡の直属の家来たちだろう。


 彼らは隙がほとんどなく、明らかな殺気が漂っている。喜三太が多田行綱だった時に河尻で遭遇した、烏合の衆とは違う。目の前の彼らは、泰衡のことが何よりも大事な男たちであるにちがいない。


「泰衡兄上」


 牛若の声は真剣さを帯びてはいたが、それでもどこかあどけない響きがあった。


「その呼び方はおやめなされよ……!」


 その声はとげとげしいものだった。牛若を弟とは認めないつもりのようだった。


「なぜ……このようなことをなさるのですか」


 牛若は透き通った声で問いかけていた。天界の稚児に、襲撃の理由は本当に分からないようだ。


「私は父上の遺言を破ります。天罰が降ってもよい……!」


「なんと……?」


 牛若はただ驚いた声を出していた。


 泰衡の言葉は落ち着いているようでいて、どこか震えていた。


「義経殿。今からほどなく、この館を焼き払わせて頂く。今すぐこの館を出て行かれよ。北の蝦夷(えぞ)へでも行かれるがよい。さもなくば、持仏堂にてご自害なされよ……!」


「――そうか……」


 牛若の反応は鈍かった。三郎が「何いいやがるんだ……!」と怒りをあらわにしている一方、牛若はただ泰衡を不思議そうに見つめるだけだ。


「――なぜでしょうか……」


「――義経殿は、たくさんのものを奪った。平泉を守るためです……!」


「――私が、何かを奪ったと……?」


 牛若は無邪気に首を傾げる。


 泰衡が守りたいのは平泉だけではないにちがいない。牛若の存在が、許せないのだ。


「それ以上、お聞きなさるな……!」


 泰衡の無様な叫び声に呼応してか、向こうの家人たちが一斉に閧の声を上げる。牛若は無言で踵を返し、館の中へ戻ろうとした。弁慶たちは慌てて後を追う。


 そのまま縁側に一同が集まった。泰衡たちは追ってこず、侵入してくる様子もない。


「攻めてくるわけじゃねえのか? それにしても、牛若さまへ出て行けだの自害しろだの、とんでもないことを言いやがって……!」


「――中へ入ろう」


 牛若はいつになく落ち着いていた。追ってくる様子がないので、そのまま――まるで朝餉を始めるかのように――皆が広い畳の上に集まり腰を下ろす。


「――蝦夷へ行くか……自害せよ、と言っておられましたわね」


 郷御前の声はひどく動揺していたが、気丈に声を張っていた。


「蝦夷か……」


 牛若は真っ直ぐに郷御前を見つめた。


「そのような、聞いたこともない北の果てまで、私は今更行くことはできない」


「牛若さま、まさか……っ」


 三郎がひどく焦った声を出している。


「まさか、ここで死ぬなんておっしゃる気では……そんなの、俺が許しませんよ……!」


 三郎は泣きそうな声で叫んでいた。


「義経さま! そんな、死んじゃ駄目だ!」


 鷲尾も震える声で叫び出す。


「義経さま、悪の王者のそれがしならともかく、義経さまが死ぬ理由なんて、何一つありませぬぞ……!」


 喜三太の声にも、いつになく無様な動揺が現れていた。


「九郎さま、いったんここを出ていけばよろしいのでは。北の果ての蝦夷まで行き、次の落ち着き先を探せばよいはず」


 駿河の声も、いつものような落ち着きはなくなっていた。


 弁慶は何も言えなかった。ただ意味もなく胸がざわつくのを、どうすることもできずにいた。


「――皆、すまぬ」


 牛若は頭を下げた。こんな、気丈な声で頭を下げるなど、いつもの牛若ではない。断じて牛若ではない。


「――私はこの平泉で、充分に幸せな時を過ごさせてもらった。今さら、何の(ゆかり)もない蝦夷へ行って何の意味があるだろう」


 牛若が、ここまで力強く自分の思いを口にするのは初めてのことだ。


「――私は、もう思い残すことがない。皆のおかげで、皆が助けてくれたおかげで、私は都で死なず、北陸でも死なず、ここまで帰ってくることができた」


 弁慶の指先は微かに震え出していた。あの土佐坊の夜、短刀を奪い、牛若を押さえつけた感触が蘇る。あの時の牛若は、何もかもが終わったような目をしていた。それなのに今は違う。


「毎日、たくさんの美味しいものを食べさせてもらった。美しい装束も着させてもらえた。もう充分なのだ」


 三郎たちは泣き出し、もう何も言えなくなっている。今までと、泣く相手が逆になっていた。


「――私の残った望みは……ちちうえに、会うことだ。極楽浄土のちちうえの元へ、早く行きたい」


 弁慶は奥歯を噛みしめた。


 秀衡の手を握り、初めて父上と呼んだ牛若の声が、耳の奥で甦りそうになる。国衡と忠衡がどれだけ優しくしても、夜に隣にいない身体を、牛若はずっと求め続けていたのだ。


「ちちうえに、会いたい……」


 牛若は震える声で言い切った。その目は泣いていなかった。


「義経さま、なんてことをおっしゃいますの……」


 いつの間にか、郷御前が大粒の涙を流していた。


「ここまで生きてこられたのです。こんなところで、諦めてはいけませんわ……っ」


 それは、あの冷徹な声をいつも響かせる隙のない女の声ではなくなっていた。ただ夫の命を守りたい、か弱い妻の声でしかなかった。


「郷……私は、ちちうえの元へ行きたいのだ」


 郷御前の涙も、牛若を思いとどまらせることはできないらしい。


「――極楽浄土にいらっしゃるのは、ちちうえだけではなかろう。継信も、忠信も、おそらく叔父上も。待っていれば、静も来てくれるかもしれぬ。そのうち、国衡兄上も、忠衡も」


 牛若の言葉は力強さを失わなかった。


「私は、ここの皆に死ねとは言わぬ。私一人でよい。私が死ねば、泰衡兄上は皆を許してくれるはずだ」


 牛若はまだ、泰衡を兄と呼んでいる。こんな時に、従者を思い遣ってくれている。


「私は持仏堂から、父上の元へ行きたいのだ」


「そんな……っ」


 三郎たちがすすり泣く。郷御前も涙を流し続けている。


 弁慶の目にいつの間にか浮かんでいるいまいましい涙も、止まる様子がなかった。


 皆、気づいているにちがいない――牛若の考えは、もう変わらないのだ。


 今まではしょっちゅう、泣く牛若を皆で慰めていたのに、今はすっかりあべこべになっている。


「郷」


 牛若は郷御前を真っ直ぐに見つめる。


「そなたは女子(おなご)だ。泰衡兄上が危害を加えるはずはない」


「義経さま……っ」


 郷御前は涙を流しながらも気丈に声を張ろうとした。


「私は義経さまの妻でございますの。私は……」


 そこで彼女はわずかに口ごもる。妻が夫に従うという(ことわり)を言いかけたのかもしれない。


「――私は、自らの意志で、義経さまと最期を共にさせて頂きますわ。敵に館を焼かせるより前に、こちらで火をかけねば。自刃の作法も存じておりますゆえ、持仏堂へご一緒いたしますの」


 そう言うなり、牛若の目をじっと見つめ返す。


「――そうか……ありがとう」


 牛若は優しく微笑み、そっとうなずいた。郷御前は深々と頭を下げた。


「おいおい、帳面ねえさんに先を越されちゃいけねえ……! 牛若さま」


 三郎は牛若を真っ直ぐ見つめていた。


「俺は、これから裏切り者の泰衡軍と戦って、牛若さまと一緒に極楽浄土、行きたいです! あのじいさんにもまた会いたいし……」


 三郎は短剣を握ったまま、泣き笑いの顔でそう言った。声が震えている。


「――三郎、ありがとう」


 牛若が穏やかに微笑むと、三郎はうれしそうに笑った。


「俺も……。俺も、最後に戦いたい」


 鷲尾も涙で顔を歪ませながら、必死に言葉を紡ぎ出していた。


「神さまみたいな義経さまが死んじゃうのは嫌だけどさ……」


「――鷲尾は、猟師に戻ったら幸せに暮らせるだろう」


 牛若は鷲尾に対して、こんな配慮ができるようになっていた。


「そんなこと、言わないでください! この幸せな館を追い出されるより、みんなで一緒に極楽浄土ってとこに行った方がいいと思うんだ。俺、死んだら義経さまの子供と勘違いされるかもしれないけどさ」


「そうだな」、と三郎も涙を浮かべたまま同調する。


「――鷲尾も、ありがとう」


「はい……っ」


 鷲尾は牛若に微笑まれて、涙が止まらなくなってしまったようだ。


「九郎さま……っ」


 駿河が泣くところを見るのは初めてのことだった。


「――駿河は元々、鎌倉の兄上に仕えていたのだから、これから帰ったらよかろう」


「何をおっしゃいますか。九郎さまは、それがしのただ一人の主君でございます。それがしも最後に戦って、不届きものに一泡吹かせ、あの世へのお供をいたします……!」


「それがしも……っ」


 喜三太も泣きじゃくっていた。


「喜三太は、いろいろな主人に仕えてきた身であろう」


 牛若の言葉はひどく優しい響きがした。


「これまで通り、また新しい主人に仕えるがよい」


「そんな悲しいことをおっしゃいますな……! 裏切り者の、多田行綱は、とうの昔に死んでおりまする。それがし――悪の王者喜三太の、生涯ただ一人の主君は、義経さまだけにございます……!」


 喜三太はわんわん泣き出した。牛若は「ありがとう……」と穏やかに呟いた。


「――弁慶……そなたも泣いているのか……?」


「……っ」


 涙を止めているつもりが、まだ止められていなかったらしい。弁慶は「はい」、と腹に力を込めた。もう、弁慶の心は決まっていた。


「――それがしは、牛若さまの影として生きると決めた身。牛若さまが極楽浄土へ行かれるなら、それがしはそれまでの時間稼ぎのため、最後まで戦う所存にございます」


 深く息を吸い込む。


「――一緒に、あの世へお供させて頂きたい」


「……ありがとう、弁慶」


 牛若のうれしそうな笑顔が、弁慶を真正面から見つめている。弁慶の胸は、今は高鳴っていた。


「私は、そなたたちの心がうれしい。――このまま一緒にちちうえの待つ極楽浄土へ参り、幸せに暮らしたい」


 皆が一斉に嗚咽を漏らしながら頷く。今一番微笑んでいるのは牛若だった。


「――それでは、私は郷と、持仏堂へ参る」


「はい……!」


 三郎たちが一斉に叫んだ。一礼と共に武器を手に取り、そのまま部屋を飛び出していく。


 門の向こうで敵の悲鳴が一斉に上がった。敵は突然の来襲に驚いたにちがいない。


 弁慶はそばの長刀(なぎなた)をそっと手にとった。


「――牛若さま」


「弁慶……?」


 持仏堂へ郷御前の先導で向かおうとしていた牛若は、穏やかな表情のまま振り返ってくれた。郷御前も向こうからこちらの様子を見ている。


「――渡すものがございます」


 そう言うなり、弁慶は懐から――ずっと返していなかった牛若の短刀を取り出した。


「これは牛若さまのもの。今までずっとお預かりしており、誠に申し訳ありませぬ」


 深々と頭を下げると、牛若が突如肩に手を置いてくれたものだから、弁慶の心臓はとび上がっていた。


「そなたがあの時、私の自刃を止めてくれたから、今の私は穏やかな心で向こうへ行ける。――ありがとう」


「――もったいなき、お言葉……」


 弁慶の目からまた涙が溢れた。牛若は優しく微笑むだけだった。牛若は弁慶から短刀をそっと受け取る。


「――私と郷の方が、先に行くだろう」


「……それで、良うございます」


「弁慶殿、極楽浄土にてお待ちしておりますわ」


 郷御前からの言葉に、弁慶は軽く会釈を返した。


「弁慶――」


 牛若は、弁慶の耳元に口を近づけようとする。長身の弁慶は少しだけ身をかがめた。


 牛若がまた肩に手を置いてきて、弁慶の胸はざわめいてしまう。


「――私はそなたと出会えたことを、うれしく思うぞ」


「――ありがたき、幸せにございます……」


 一気に顔が熱くなった。牛若は弁慶の肩からそっと手を離すと、静かに歩み出す。


 天界の稚児が天へ帰るお供を、これからするのだ。弁慶は深く息を吸い込んだ。


「――この弁慶、行ってまいります!」


 そう言うなり弁慶は走り出した。牛若の背中を振り返りはしない。


 ――門の外では激しい戦闘が続いていた。


「牛若さまがあの世へ行けるまで暴れてやるぜ!」


 三郎は敵の足元へ飛び込み、短剣を逆手に握って懐へ潜った。太刀を振り下ろそうとした敵の腕の下を抜け、その脇腹を突く。


「おい、鷲尾! でかいのはそっちへ行ったぞ!」


 鷲尾の短剣が低いところから襲い、大柄な敵の膝が崩れる。


「義経さまのところへは行かせないぞ!」


 鷲尾はそのまま肩で押し倒し、すぐに次の敵へ向かって走る。


「悪の王者、喜三太の技は、今こそ義経さまのために使わせて頂きまする!」


 喜三太が太刀を振りかぶった。泣き腫らした目のまま、喜三太は踏み込んできた相手の太刀をすかし、その勢いのまま胴へ刃を返す。


「九郎さまの邪魔をする敵は、全て消す!」


 駿河の低い声が飛んだ。太刀を両手で構え、相手の攻撃を受け流し、踏み込んだ足で進路を塞ぐ。そこへ三郎が横から飛び込み、鷲尾が低い体勢で抜け、喜三太も斜め方向から太刀を走らせる。


 四人は、いつの間にか敵の中へ深く入り込んでいた。


 弁慶はその向こうを見ながら、長刀を握り直した。


 三郎たちは館の外へ敵を引きつけている。だが、門へ向かってくる数は一向に減らない。


 弁慶は門の前で足を軽く開き、長刀を横に構えた。


 牛若と郷御前のいる持仏堂へ、一人も通してはならない。


(来い……!)


 声に出したつもりはなかったが、喉の奥から低い音が漏れていた。


 敵が一斉に踏み込んでくる。


 弁慶は長刀を門の前で振り回し、大勢の敵を一気に薙ぎ倒していく。敵は泰衡に心から従う直属の家人たちだ。混じり気のない心で襲いかかってくるから強い。


 重い手応えが腕に返る。長刀の柄が掌に食い込み、肩の奥まで衝撃が響いた。それでも弁慶は後ろへ下がらなかった。


 遠くから矢が次々と襲いかかる。一本目は肩をかすめ、二本目は腕に深く刺さった。弁慶は歯を食いしばり、そのまま長刀を振るい続けた。激しい痛みはあるが、まだ腕は動く。


 三本目が脇腹に刺さった。


 息が止まりかけ、膝が折れそうになる。弁慶は長刀の石突を地面に突き、なんとか身体を支えた。門の向こうに一歩でも踏み込ませてはならない。


(まだだ……)


 弁慶は心の中で呟いた。


 長刀で敵をなぎ倒すうちに、気づけば無数の矢が全身に突き刺さっていく。


 背に、腕に、脚に、腹に、次々と重さと痛みが加わり、全身へと広がっていく。もうどこが痛むのか、よく分からなくなってきた。


 三郎たちの居場所も、もう今となっては分からない。彼らの声が、もう聞こえない。耳に入るのは、敵の足音と、矢の風を切る音と、自分の呼吸だけだった。


 弁慶は門の前で必死に防戦しているつもりだったが、いつの間にか身体が動かなくなってきているらしい。腕も足も、力が入らない。


 弁慶は歯を食いしばり、長刀を胸の前へ構えたつもりだった。


 決して門の前からは動かなかった。


 もう斬り込む力はない。立っていることしかできない。


 弁慶の大きな身体がここにある限り、敵は持仏堂へ向かうことはできない。


 痛みの中で、だんだん意識が遠のいていく。視界がぼやけてきた。


 立って応戦しているつもりだったが、身体はもうほとんど動かなくなっていた。


 指は長刀に固くくっついたままだ。膝から崩れ落ちそうなのに、身体が金縛りにあったように動かない。


 ふと、煙の匂いが立ち込める。後から、火花の散る音が耳に入る。


 残った力を込めて、なんとかうっすらと目を開け、首をよじって振り返る。


 牛若と郷御前がいる持仏堂から、炎が上がるのが見えた。


 赤く揺れる光の中に、牛若の後ろ姿が見えたような気がした。


(今、牛若さまは、郷御前と共に、一足先に行かれたのだ……)


 天界の稚児が天へ帰るまで、この門を守り通すことができた。


 弁慶の全身から痛みが消え、力が抜けていく。


 弁慶はそっと目を閉じた。


 その真っ直ぐに立ちはだかる身体は、微動だにすることはなかった。



(了)

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