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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第八十六話 隣の身体

 国衡と忠衡が去っても、牛若は明るく微笑んだままだった。


 館の中には、先ほどまでの妙な騒がしさの余韻が残っている。


「牛若さま、国衡さんも忠衡さんも優しくて、これからも幸せですね!」


 三郎が元気よく言った。


「そうだな」


 牛若は穏やかに答える。


「俺も、義経さまが笑ってくれてうれしいです!」


 鷲尾がまっすぐな声で言うと、駿河も牛若へ向き直った。


「九郎さま。この奥州には我らを含め、味方しかおりませぬ」


「それがしのような悪人はおらぬようですな。ははは」


 喜三太が笑うと、三郎が「お前がいるじゃねえか」と返した。


「ちょっと歓待は度を越している気もいたしますけれど」


 郷御前が静かな声で言った。


「義経さまが元気でいられるなら、ここは安住の地ですわね」


 その口調は以前よりずっと穏やかだった。


(郷御前も、もはや警戒心を失っている)


 弁慶は牛若の横顔を見つめる。


 確かに、この奥州に着いてから至れり尽くせりで、ただ豪遊をさせてもらっているだけではある。


 亡き秀衡も、あの兄弟も、狂っているのは確かだ。それでも笑っている牛若を見ていると、どうでもよくなってくる。


 夜の闇が濃くなってくると、牛若は用意されていた薄い小袖に着替えた。弁慶たちもそれぞれ、夜を過ごすための楽な姿になった。


 静御前が去ってから、牛若は寝る時はいつも一人だ。几帳と屏風で仕切られた向こうが牛若の寝所であり、御簾を隔てた外側に弁慶たちが控える。反対側には郷御前がいる。


 秀衡が亡くなり、この館で暮らすようになってから、牛若は秀衡を思い出しては何度も涙をこぼしてはいた。だが、その清らかな寝息は静かなものだった。


 今夜もいつも通り、牛若は寝所へ入った。


 三郎たちは満腹なのも手伝って、すぐに大きないびきをかいて寝入ってしまった。


 弁慶だけは目が冴えていた。


 御簾の向こうを見つめながら、これまでのことを思い出す。


 牛若は鎌倉の頼朝に、ずっと身も心も削られていた。あの不潔な男に拒絶されて全てを失った時、抱き止めるのは自分だと思っていた。肌身離さず持っている牛若の短刀を、弁慶は懐の中で握りしめる。


 法皇にも泣きながら見捨てられた。こんな奥州へ帰ってきても、朝敵で日の本全てから追われる身となった牛若を受け入れるはずがない。その時こそ、自分が抱き止めるのだと考えていた。


 だが、秀衡も、その息子たちも、牛若に一番の幸せを与えてしまった。


(もう、俺の出番はあるまい)


 弁慶は小さく息を吐いた。牛若が幸せなら、喜ぶべきなのだ。


 ふと、隣から不思議な息遣いが聞こえた。


 牛若の眠る、向こう側だ。


 弁慶は耳を澄ませる。


 息が詰まるような――嗚咽と共に、甲高い声が喉の奥から漏れている。


 牛若が泣いているのだ。


(なぜだ……?)


 秀衡が亡くなってからも、ここまで忍び泣く音を夜に聞いたことはない。


 弁慶の心臓の鼓動が速まる。胸が苦しくなってくる。


 国衡にも忠衡にも愛され、何の曇りもない日だったではないか。なぜ今泣くのだ。


 気になって仕方がない。しかも、その忍び泣く声は一向に収まる気配がない。三郎たちは眠り込んでいる。郷御前の方からも物音はない。


 弁慶は意を決して立ち上がった。


 足音を殺し、御簾の前へ進む。指先がわずかに強張った。天界の稚児の寝所へ入るなど初めてだ。


 弁慶は、御簾をほんの少し持ち上げ、その中へ入った。


 奥では、牛若が(しとね)の上でうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。肩が小さく震えている。引き寄せた(ふすま)が乱れ、その背中が闇に浮かんでいた。


 弁慶は静かに歩み寄り、牛若のそばにそっと腰を下ろした。


 耳元に口を近づける。


「――牛若さま」


 静かにささやいた。


「――弁慶……?」


 嗚咽を残したまま、牛若は枕から顔を上げた。濡れた目が、暗がりの中でこちらを見ている。


「――すまぬ、起こしてしまったか」


「――なぜ、泣いておられるのですか」


 こんな無礼な、不躾な問いなどしたことがない。それなのに、気づけば口から言葉が出ていた。


 牛若は戸惑ったように口ごもる。


 弁慶はそれを静かに見つめ、言葉を待ち続けた。


「――寂しいのだ」


 牛若の声は、衾の中で小さく震えていた。


「――国衡殿と忠衡殿がおられるではありませんか」


 左右から砂金を浴びせる狂人たちではあるが、牛若を温かく包み込んではいる。


「――それは……」


 牛若は震える息を整えながら、弁慶の目を真っ直ぐに見つめた。弁慶の胸の奥が甘痒さを覚える。


 奥州に帰ってきてから、牛若は少しずつ、自分の心を言葉にできるようになっていた。


「――喪に服していた時は、ただ呆然としていたのかもしれぬ。だが、今日は国衡兄上や忠衡が来てくれて……今の私は幸せでしかない。だからこそ……この床の隣に――いないのが寂しいのだ――ちちうえが」


 その声は震えていた。


 弁慶はすぐに言葉を返すことができなかった。


 あの兄弟の狂った歓待が再開して初めて、牛若は隣に秀衡がいない寂しさを実感してしまったらしい。


 弁慶は何と言えばよいか分からなくなる。自分は牛若の父でも兄でもないのだ。


 だが、ここで黙っていてはならない気がした。


「――それがしは……」


 深く息を吸い込んでから言ってみる。


「――今宵はここにおります」


「――弁慶が……?」


 牛若の声が、少しだけ幼い響きを帯びた。


「――牛若さまを慕う者はたくさんおります。秀衡殿も、極楽浄土から見守っておいでです」


 歯の浮きそうな言葉だが、幼子に言い聞かせるようにささやいてみる。


「――牛若さまは決してお一人ではない。今宵は弁慶がここにおりますゆえ、安心してお目を閉じて下さいませ」


 言い終わると沈黙が落ちた。


 牛若はしばらく弁慶を見つめていた。暗がりの中で息遣いが少しずつ落ち着いていく。


「――分かった」


 それは穏やかな声だった。


 牛若は素直に仰向けになり、乱れた衾を胸元まで引き寄せた。その動きがあまりに頼りなく、弁慶は思わず手を伸ばしかけたが、すぐに指を引いた。


 牛若はそのまま目をつぶった。


 弁慶は自分の衾を持ってくることはせず、牛若のそばであぐらをかいたまま、その清らかな顔をじっと見つめている。


 牛若は寝息を立てていなかった。


「――弁慶」


「はい」


「たまに、五条の大橋でそなたに会った時のことを思い出す」


「――それがしも」


 いつも思い出しております、とは言わなかった。


 弁慶の中で、霧の夜がゆっくりと蘇る。橋の上の影と、高下駄の音。長刀を空しく振り回した感触。敗北の屈辱と、そこに差し込んだ清らかな声。


 あの夜のすべてが、弁慶にとっての始まりだった。


「――あの頃の私は、鞍馬を出たばかりだった。まだ見ぬ平泉が楽しみで、有り余る力を費やしたくなった。刀を奪い取ることで評判のお前を退治したかったのだ」


「それがしをご退治くださり、うれしい限りでございます」


 また耳元に口を近づけて、力強く言っておいた。


 牛若は少しだけ笑ったようだった。暗くて表情ははっきりしないが、息の震えはなくなっていた。


「――弁慶に、礼を言いたい」


「はい……?」


 弁慶は思わず姿勢を正した。


「土佐坊に襲われた時、そなたは私の自刃を止めてくれた」


「――はい」


 弁慶の心臓が高鳴る。


 あの夜の感触が、指先に蘇る。牛若の身体を押さえ、短刀を奪った。


「あの時、私は全てが終わったと思っていた。だが、弁慶が私を無理やり生きさせてくれたおかげで、今ではこんな幸せな日々を送れるようになった」


 確かに無理やりではあった。あの時の気持ちは、牛若には言えない。


「――もったいないお言葉にございます」


 弁慶は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


「――ありがとう」


 それはあの日に聞いた時と同じ言葉だったが、今は温かさに溢れていた。


「――それがしこそ、ありがたき幸せにございます」


 弁慶は心を込めてつぶやいたつもりだった。


 だが、牛若は急にほっとしたのか、気づいたらすやすやと清らかな寝息を立て始めていた。


 牛若は、頼朝のことを口には出さなかった。


 今の牛若は毎日、美味しいものをみんなに愛されながら食べ、綺麗な装束を着せられてばかりだ。鎌倉の、人の心を持たない化け物は、いかに棟梁とはいえど、さぞ田舎のつまらない食事と装束に毎日耐えていることだろう。


 そう思う弁慶の心は、妙に晴れがましかった。


 灯が足りないことをいまいましく感じつつ、弁慶は牛若の寝顔をいつまでも見守っていた。

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