第八十五話 平泉の兄弟
秀衡の遺骸は読経の声の中で清められ、香を満たした棺へと納められた。
火葬にはせず、中尊寺の金色堂にその肉体を置き、「奥州を見守って頂く」ということらしい。先代の基衡や初代の清衡もそうされているようだ。
喪に服すため、牛若たちには国衡と忠衡が暗色の装束を用意してくれた。喪の中でも泰衡は政を行わなければならない。また、出羽国に鎌倉の意を受けた軍勢が侵入を企んでいるという報せもある。
ひとまずの仏事が終わると、牛若たちは秀衡が遺してくれた衣川の館へ移ることとなった。泰衡はあの日から牛若たちに話しかけてくることはなかった。
喪中ということで、御所からは国衡と忠衡が姫飯に加え、干菜、豆や木の実を中心とした清浄な食事を届けてくれた。泰衡は御所で政務を執っているようだ。
秀衡の遺骸が中尊寺に納められるのを見届けた牛若は、泣き腫らした目のまま魂の抜け殻のようになっていた。秀衡という心の拠り所を失った今、また牛若は壊れるのではないか。その時に受け止めてやれるのは――そんな思いもよぎったが、どうもそれは少し違うようだった。
秀衡が過剰な愛を注いでくれたからだろうか、いつかの時のように死を考えたりする様子はなく、痛ましく泣き暮らすというよりも、与えられた食事は静かに受け入れながら、秀衡を思い出して涙がこぼれる、という具合だった。
「牛若さま、元気を出してくださいよ」
夕方になっても縁側――秀衡が倒れた場所――で空を見つめる牛若を見て、三郎が心配そうに声をかけている。三郎はただ牛若が打ちひしがれていると思っているようだが、弁慶の目から見ると、今の牛若はこれまでに比べたらずっとましな状態に思える。牛若は「ああ」、と素っ気なく返していた。
「それにしても……喪に服すってこんなにつらいんだな。毎日あんなに豪勢な食事だったのが、急に坊さんみたいな食べ物になっちゃってさ……ま、弁慶は慣れてんじゃねえか?」
「喪は、何よりもまず、秀衡殿を偲ぶためのものだ」
弁慶は冷たく答えてやった。
「確かに俺も、あのじいさんがいきなりいなくなっちゃって寂しすぎるぜ」
「でも秀衡さま、こんな豪華な館を遺してくれたんだなあ」
鷲尾も寂しそうにつぶやいている。
「九郎さまを心から愛しておられたことが分かるな」
駿河も力強くうなずいた。
「それがしは、あの――義経さまの声を最後に聞こうとされた瞬間が、頭から離れませぬ」
喜三太も神妙な顔をしていた。
「それがしも、義経さまに会うたびに心が洗われる思いでしたから、秀衡殿のお気持ちはよく分かります」
「ふん、秀衡殿はお前のように心を洗濯してもらうような汚れに心当たりはなかろう」
弁慶が鼻で笑ってやると、喜三太は「恐縮でございます」とにやにや頭をかいていた。こういうのも癪にさわる男だ。
「されど、いくら秀衡殿が言い含めましても、ご子息のみなさまが義経さまをどう扱うかはまだ分かりかねますわ」
郷御前の冷徹な声は以前よりも穏やかになっていた。
「このまま、こんな腹の空く食事で飼い殺されるのはごめんだな……」
三郎は食事の心配ばかりしているようだ。
牛若は抜け殻のように空を見つめるだけだった。秀衡を失った今、牛若を抱き止められる者は弁慶以外にいないはず――それなのに、弁慶は声をかける気になれずにいた。
ほどなくして、門の方が騒がしくなった。
家人の声が聞こえ、続いて国衡と忠衡が姿を見せた。二人の装束は喪の色ではなくなっていた。四十九日がいつの間にか過ぎたのか。顔つきには幾分か明るさが戻っている。
「義経殿、そろそろ元気を出しましょう」
国衡は館の中へ入るなり、牛若の方へまっすぐ歩いてきた。
「そうやって物憂げな表情でおられては、父上も喜びますまい」
忠衡も穏やかに言う。牛若はぼんやりと二人を見上げた。
「国衡殿……忠衡殿……」
「はい」
国衡は牛若のそばへ膝をつき、その肩に大きな手を置いた。忠衡も反対側から、壊れ物に触れるような慎重さで手を添える。
「父上は、義経殿がこの館で笑って暮らすことを願っておられた」
「そのお望みを、我らが途切れさせるわけにはまいりませぬ」
忠衡も力強く言った後、国衡は辺りを見回していた。
「これは義経殿にふさわしい館ですね」
しみじみと呟いている。
「この世の極楽浄土そのものです。義経殿がそのご本尊のようなものですね」
忠衡がうっとりとした声で言う。
(泰衡がこの館を見たら何と言うか――祖父の館であるのに……)
弁慶は喉の奥に引っかかるものを感じざるを得ない。
牛若は二人の言葉を素直に受け止め、少し困ったように微笑んでいる。
そこへ、いくつもの足音が近づいてきた。
家人たちが夕餉の膳を運んでくる。喪中の器とは違い、膳の縁には控えめな艶があり、温かな湯気が次々と立ち上った。
「今まで粗末な食事で失礼しました。もう喪が明けましたゆえ、夕餉から本来の食事に戻しましょう」
国衡が明るい声で言った。
「私たちもひと段落しましたので、今日から一緒に食べさせてください!」
忠衡は牛若と食事を共にできることを心から喜んでいるようだった。
「おお……!」
三郎があからさまに目を輝かせる。
「やっと腹に残るものが来たか!」
串に刺された岩魚は皮が張り、火に炙られた香ばしさを漂わせている。干した鮭は細く裂かれ、山椒の香りがわずかに添えられていた。熱い汁には鮭と茸、根菜が入り、栗を混ぜた飯からはほのかに甘い香りが上る。胡桃で和えた青菜、煮含めた豆、澄んだ水で洗われた山の実も並べられている。
平泉の山と川が、弔いの静けさを破って、ふたたび牛若の前に戻ってきたようだった。
「すげえな……。やっぱり奥州はこうでなくちゃ」
三郎は早くも箸を持とうとしている。
「それがし、粗食で少しは清くなったかと思いましたが、早くも心が揺らいでおりまする」
喜三太の言葉に、弁慶は「お前は揺らぐほどの清さを持っておらぬ」と吐き捨ててやった。喜三太は「左様でございました」と素直に頭を下げてくる。
牛若は二人に促されて箸を取った。
しょっちゅう涙をこぼしている目元は痛ましいが、それでも少しずつ食べ始めると、国衡と忠衡の顔が同時にほころぶ。
(この兄弟、本当にあの老人の遺志を継ぐつもりなのか……)
国衡も忠衡も、牛若が一口食べるたびに、父のように嬉しそうな顔をする。牛若を中心に膳が並び、家人たちもそれを自然なこととして受け止めているようだ。
秀衡の心はしっかりと二人の息子に受け渡されていた。
「――そろそろ日にちも経ちますゆえ……」
国衡が、箸を置いて少し声を落とした。
「えっと……義経殿、最後に父を『父上』と呼んでくれたのは、本当にありがたいことでした」
「――はい……」
牛若は思い出して胸がいっぱいになったようで、箸を持つ手が止まっている。
「父上は、義経殿のその言葉をずっと聞きたかったはずです」
忠衡が優しく言った。
「あの世へ行った父の寝顔は微笑んでおられました。満足して逝かれたのですよ」
「そうか……」
牛若は小さくうなずき、その意味を噛み締めているようだった。
国衡はそんな牛若の瞳をじっと見つめている。
「これからは、それがしのことを兄と呼んでほしいものです」
「え……っ?」
牛若は少しだけ目を見開いていた。
国衡はどこか照れたような顔をしている。その眼差しはまっすぐだった。
牛若は、はにかむような表情で口を開いた。
「――国衡兄上……?」
「おっ、なんと……!」
国衡はひどくうれしそうな声を出した。
「義経殿という素晴らしい弟ができて、なんと幸せなことか」
「義経、でよいです……」
牛若は恥ずかしそうに微笑む。
「おお、義経……ああ、なんと優美な響きだろう……」
国衡は本気で感動しているようだった。この男も、決して正気ではあるまい。
忠衡が待ちきれない様子で身を乗り出す。
「義経殿、私も義経兄上と呼ばせてください!」
「――はい……うむ」
牛若が快くうなずいたのを見て、忠衡も「おう……!」、と歓喜の声を上げている。
「我らの絆がいっそう深まりました! かくなれば、ぜひ泰衡兄上も兄と呼んであげてください!」
「――そうだな、忠衡」
「はい、義経兄上!」
(牛若さまは、兄弟も増えたのか……)
もともと平泉に最初にいた時から、兄弟のような付き合いではあったが、とうとう兄上と呼び合える間柄になったようだ。
鎌倉にいた不潔な汚物のことは何と呼ぶのか――それはもう、考えないことにした。
食事が終わるとすぐに帰るかと思いきや、国衡と忠衡は「しばしお待ちを!」と楽しそうな声を張り上げた。
「まだ終わりではありませぬ」
国衡が家人たちに目配せしていた。
「父上の喪は明けました。ならば、義経殿……義経が、再び笑えるようにせねばなりません」
その言葉を合図に、廊から大勢の家人が入ってきた。腕に抱えているのは、折り畳まれた衣、帯、冠、袴、香の移った布の数々だった。
「喪に服すのは終わりです」
忠衡が晴れやかに言う。
「みなさまの装束もご用意しております」
「俺たちのもか?」
三郎が間の抜けた声を出す。
喪に服す前にすでに豪華な装束はもらっていたが、また別のものを用意しているようだ。
家人たちは迷いなく動き始めた。
三郎には、楓の葉を思わせる赤茶の直垂が用意された。動きやすく身軽で、三郎には妙に合っている。鷲尾には深い山道の陰を思わせる緑褐色の衣だが、加えられた紫色の刺繍が風情を醸し出していた。駿河には、武骨な体つきに合った墨混じりの茶色がかった直垂。喜三太には明るい黄土色の衣が渡され、本人は「それがしなどが明るくなってよいのでございましょうか」と妙なことを言っている。
郷御前には紅を抑えた小袿が用意された。華やぎを取り戻しながらも、喪の余韻を踏みにじらない奥ゆかしさがある。郷御前は袖を通すと、意外そうに布の端を撫でた。
「……関東の田舎女ゆえ、こういったものには疎いですが……細やかなお心遣い、感謝いたしますわ」
弁慶にも衣が渡された。今回は灰色を混ぜた黒褐色の直垂で、巨躯に合わせて肩と袖にゆとりがある。僧兵の荒々しさを残しつつ、妙な気品を漂わされていて落ち着かない。
「弁慶、似合ってるじゃねえか。随分出世したみたいだぞ」
「黙れ」
弁慶は短く返したが三郎は笑っていた。
牛若の着替えには特別な屏風が立てられる。国衡がまず衣を手に取り、家人に目配せした。
「義経、こちらを」
「はい、国衡兄上」
その呼び名に、国衡がうれしそうな顔をするのが見えた。咳払いをして牛若を屏風の奥へ導いている。
最初に現れた牛若は、雲の切れ目から差す朝の光を思わせる白い衣に、薄く青みを含んだ狩衣を重ねていた。水の冷たさというより、冬を抜けた空の明るさがある。これまでの喪の気配を、静かに遠ざける装いだった。
「おお……」
家人たちから、抑えきれない感嘆の声が漏れた。
「義経兄上、次はこちらを!」
忠衡が待ち構えていたように次の衣を差し出す。牛若は少し戸惑いながらも、素直に屏風の裏へ戻る。
次に現れた時には、薄紅を帯びた狩衣に、白茶の袴を合わせていた。華やかではあるが、溢れる気品が漂い過ぎている。頬の血色のよさと衣の色が響き合い、牛若の目元にわずかに残った赤みまで美しさに変わってしまう。
「これが忠衡の選びか」
国衡が感心したように言う。
「はい、兄上。義経兄上には、このような柔らかな色もお似合いかと」
「確かに見事だ」
二人は、どちらが牛若をより美しく見せられるか競い合っているようだった。
さらに衣が運ばれる。今度は国衡が選んだらしい。
牛若は、墨を薄く流したような灰白の狩衣に、濃い蘇芳の袴を合わせて現れた。派手ではないが、灯の中で立つと、顔の白さと瞳の澄み方が際立つ。
皆が一様に感嘆の声と吐息を漏らしている。
牛若の顔には確かに生気が戻り始めていた。
(だが……これはいったい、何の舞台を見せられているのか……)
弁慶は腕を組んだまま、その美しいありさまをじっと見つめていた。
秀衡が一人でしていたことを、今は国衡と忠衡が二人でおこなっている。家人たちまで自然に巻き込まれ、牛若が屏風の向こうから現れるたびに感嘆している。
「仕上げが足りませんな」
国衡が楽しそうな声で笑った。
「はい、さようですね」
忠衡が家人に合図すると、袋が二人に手渡された。
国衡と忠衡は牛若の左右に立った。
「義経。これも、私からの気持ちだ」
「義経兄上。これは父上の代わりです」
そう言うなり、二人は同時に牛若へ向かってありったけの砂金をばらまいた。三郎たちがあっと声を上げる暇もなかった。
黄金が牛若の肩、袖、髪の先、足元へきらきらと降りかかる。灯に照らされて、牛若の周囲に小さな星が散ったようにも見えた。
三郎たちは呆然と口を開けていた。郷御前も目を見開きつつ、今は牛若の輝きだけを眺めることにしたようだった。
(秀衡一人だった砂金ばらまきが、とうとう二人がかりになりおった……)
弁慶は背筋が寒くなる。これは、狂人が二人に増えただけなのではないか。
だが、砂金を浴びせられた牛若は、少し困った顔だがそれでも幸せそうに笑っていた。その笑顔に、国衡と忠衡は満たされたような表情になっている。
弁慶はもう、何を言えばよいのか分からなかった。
夜が深くなる頃、ようやく国衡と忠衡は帰り支度を始めた。
帰り際、家人たちは畳や板の上に散った砂金を、慣れた手つきで小さな器へ集めていった。箒で乱暴に払う者は一人もおらず、牛若の足元に触れた粒を拾うことまで、何かの仏事か神事のように丁寧だった。
門の外まで出ると、衣川の水音が夜気の中に静かに響いている。館の灯はまだ温かく、先ほどまでの笑い声の名残が廊に残っていた。
国衡は牛若の方へ向き直った。
「義経殿……いや、義経。父上のことは残念だったが、これからは我らが父上を引き継ぐゆえ、どうか安心されよ」
兄のような力強い口調で言い切る。
「国衡兄上……」
「おう、その言葉が私もうれしい」
国衡は満足そうにうなずいた。
忠衡も前へ進み出る。
「我らは父上よりも体力があります。どうぞこの館で、幸せな毎日をお過ごしください――義経兄上」
頬を染めながら言ってくる忠衡に、牛若ははにかみながら微笑んだ。
「ありがとう、忠衡……」
「もったいないお言葉!」
忠衡は歓喜している。国衡もその横でうれしそうに笑っていた。
二人は何度も名残惜しそうに振り返りながら、御所へ帰っていった。
門が閉じられた後、三郎が肩の力を抜いた。
「じいさんがいないのは寂しいけどさ、これからも楽しそうだよな」
「この奥州には、心の清らかな方しかおられないのかもしれませんわ」
郷御前の声にも今は温かみがある。
弁慶は無言のまま、幸せそうに微笑む牛若を見つめていた。
秀衡が亡くなって心の拠り所を失ったかと思われた牛若だが、狂った愛を注いでくれる人間は二人に増えていたのだ。妙な笑いが込み上げてきそうになる。
弁慶は、門の向こうの闇を見つめてみたが、すぐに視線を牛若の横顔へと戻した。
牛若の無垢な微笑を眺めながら、弁慶はそっと穏やかなため息をついていた。




