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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第八十四話 父の手

「父上!」


「お館さま!」


 息子たちや家人の叫び声が御所中を飛び交う。


 秀衡は衣川から御所へ運び込まれた。何かをぶつぶつつぶやいているものの、その言葉は誰にも聞き取れない。そのまま布団に寝かされ、医師(くすし)が呼ばれたが、やはり何か病というよりも老いによる天命であるらしかった。


 泰衡を筆頭に、国衡と忠衡も秀衡の床を囲む。牛若は礼節をわきまえたつもりなのか、その末席に控えていた。藤原家の家人や弁慶たちは廊に控えて事態を見守る。弁慶も秀衡の様子がなんとか見える位置にいた。基成は事態を認識する力もないのか、この場には現れなかった。


「秀衡さま……!」


 息子たちと共に牛若も末席から叫ぶ。秀衡は目を閉じたまま何かをつぶやき続けているが、ほとんど意識はなさそうだった。


 平泉を出ていく前の時、牛若が秀衡を父上と呼ばないことを秀衡がなじったことがあったが、再会後の秀衡は気にしている様子はなかった。牛若は秀衡の愛情に喜びを感じつつも、実子でないことから遠慮があるにちがいない。相手が継信のような従者なら、無様に泣き縋ったことだろう。かしこまって座っているのを見るのは痛ましかった。


「――牛若……?」


 突如秀衡が目を見開き、その場の者たちは歓喜の声を上げた。


 「父上……っ」


 泰衡が目の前にいることに気づいたらしい秀衡は、「おお、泰衡……」と微笑んだ。


「牛若はおるか?」


「はい、義経殿もそこに……」


 泰衡の声は震えている。「そうか」、と秀衡は嬉しそうにつぶやく。


「秀衡さま……っ」


 牛若はか細い声を出したが、泣きたいのをぐっとこらえているようだった。


「……じいさん、危なそうだな……」


 三郎も目が潤んでいた。この王者に妙な親近感があったのかもしれない。


 鷲尾も、喜三太も、駿河も、そして郷御前さえも、秀衡との付き合いはさほど長くないはずだが、一様に目を潤ませていた。牛若を守ってくれる王者が、今にも息を引き取ろうとしているのだ。


「よい。牛若に伝えたいことは、先ほど全て言い終えたでな」


 ははは、と消え入りそうな笑いを漏らし、そのまま目を閉じようとした。


「父上、しっかりなされよ!」


 国衡が精一杯の声を張り上げる。


「義経殿がせっかく帰ってきたのです。父上の幸せはこれからではありませんか!」


 忠衡も泣きそうな声で叫ぶ。


(牛若さまの帰還を父の幸せに結びつけることに疑問を感じないとは――息子もだいぶ狂っているのでは……)


 弁慶は空恐ろしくなってきた。


「ふふふ、心配させてすまぬのう」


 秀衡は再度目を見開いた。笑顔も絶やすまいと努めているらしかった。


「泰衡」


「はい……っ」


「わしはもう少し長く生きたかったのじゃが、これも天命であろう」


「それがしはまだ父上に生きて頂きたく……っ」


 そう涙の混じった声でつぶやく泰衡の心は、人物の差はあれど、牛若とさほど異なりはしないかもしれない。


「自分の死が近いことは、自分でも分かる」


 秀衡は泰衡に対しては死という言葉をそのまま口にする。実子だからだろうか、それとも――。


「わしが今から言うことをよく聞くのじゃ」


 秀衡の声は重厚さを帯びる。これからの(まつりごと)を伝えるのだろう。牛若は涙をこらえながら、それでも耐えきることができずにいたが、ぐっと泣くのをこらえて秀衡の実子への言葉を見守っていた。


「そなたはわしの大切な跡継ぎじゃ。そなたは藤原氏を守り、奥州の平穏を守らねばならぬ。国衡や忠衡も助けてくれるであろう。この陸奥(みちのく)だけでなく、出羽国(でわのくに)の警戒も怠らぬようにせよ」


「はい……」


(老人も死を前にして、やっと正気に戻ったか……)


 弁慶の背中から少しだけ力が抜けた。秀衡は泰衡をちゃんと「大切な跡継ぎ」と呼び、現実の指示を下している。そこに牛若の名は出てこないが、これこそがあるべき姿ではあるだろう。


「それから――」


 秀衡は頼りなく息を吸い込んだ。


「そなたが政務に専念できるよう、わしの死後、牛若は衣川の館に移り住んでもらう。もう準備は済んでおる」


「……あの、改築しておられた祖父上(そふうえ)の館ですね……」


「そうじゃ」


 秀衡はにこやかに答える。泰衡の表情はよく読み取れない。声は動揺で震えている。


「牛若の食事や着るものの世話は国衡と忠衡にさせる。のう、国衡、忠衡」


「はい……!」


「しかと承っております……!」


 国衡と忠衡は力強く答えたが、泰衡の声は聞こえなかった。


「泰衡――」


 秀衡の声は真剣なものとなった。


「……はい」


「これは、わしの遺言じゃ。よく聞くのじゃ」


 声がくぐもってひどく聞き取りづらいが、それでも秀衡は懸命に言葉を紡ぎ出そうとしていた。


「……承知いたしました」


「鎌倉の頼朝や、朝廷が、牛若を討てとか捕らえよとか言っても、決して屈してはならぬ。そのようなことをすれば天罰が降り、奥州はあっという間に滅びるであろう」


(一体何を言い出すのだ……。確かに天界の稚児を討てば天罰が降るであろうが、そもそも天罰などの前に現実として滅びるのではないか……)


 牛若を守ろうとする心は尊い。だが言っていることが支離滅裂で、狂いすぎている。


 泰衡はただ嗚咽を漏らすだけだった。秀衡の死が迫っていることをただ嘆き悲しんでいるのだろうか――いや、それだけではあるまい。


「泰衡……そなたには政のことをいろいろ教えたつもりである。そなたは雅の道に秀でておるが、武芸は国衡が助けてくれるじゃろう。忠衡もだいぶ成長した。そして――」


 秀衡はぎこちなく息を吸い込んでいる。


「牛若は武芸も、雅な気品も、全て兼ね揃えた奥州の光じゃ。鎌倉が攻めてきても、牛若を大将軍に仰げば、穢れた鎌倉武士どもなど、ものの数ではない」


 泰衡の嗚咽が止まっている。ただ荒い息遣いだけが聞こえてくる。


(牛若さまが丸腰であることに誰も気づかぬこの奥州で、何を言い出すのだ)


 そもそも、秀衡は牛若が戦をするところを一度も見たことがないのだ。牛若の戦術、指揮力、いずれを信頼しているのかも分からない。ただ牛若を大将軍にすればよいというのは――もはや、ただの信仰でしかない。


「よいか、泰衡――わしに約束するのじゃ」


「――はい……っ」


 泰衡は蚊の鳴くような声を震わせて答えた。弁慶の背にまた悪寒が走った。


「うむ。よい。これでもう、わしが思い残すことは何もない」


 秀衡は、泰衡には極楽浄土から見守っていると言わないようだ。思いつきもしないのだろうか。衣川の館で牛若に言ったことを一言でも泰衡にも言ってやれば、泰衡の心も少しは穏やかになるかもしれない。


 だが、秀衡の息遣いは急速に荒くなっていった。目をつぶり苦しそうにしている。


「父上……っ? 父上っ……!」


「父上、しっかりされよ……!」


「父上……!」


「秀衡さま……!」


 末席の牛若も大粒の涙を流していた。


「――牛若……っ」


 秀衡が牛若の名を呼ぶ。牛若は「秀衡さま……っ」と末席でただ泣きじゃくることしかできずにいた。


「――牛若、こっちへ来るのじゃ……っ」


「――はい……っ?」


 牛若はいつになく遠慮している。このような、一族の主を何人もの人間が囲んで死を看取るかしこまった状況など、初めてであるにちがいない。


「義経殿、ご遠慮なく……!」


「父上が呼んでおられるのです……!」


 国衡と忠衡の優しい言葉に、牛若は「――はい……っ」と答えて膝を進めた。


「――牛若、牛若っ……わしの手をとってくれ」


 牛若はその望みに応えられずにうろたえている。秀衡の手をとれる位置にいるのは泰衡だからだ。


「――どうぞ」


 涙を流したままの泰衡は、そっと自らのいた場所を牛若へ譲った。泰衡は牛若の後ろへ下がる。


「――牛若、ただ今参りました……っ」


 嗚咽が止まらないまま震える声で言い、牛若は手を差し出した。自分から握ることに遠慮があるようだったが、朦朧(もうろう)としているはずの秀衡はすかさず牛若の手を、干からびた両手で強く握りしめた。


「牛若……そなたの手は温かいのう……」


 秀衡の息遣いは穏やかになり、目を閉じたまま、うっとりとした声音になっている。


「う……うう……っ」


 もう牛若は言葉を発することができずにいる。自分をあそこまで愛してくれた男が、今この世を去ろうとしていることを、天界の稚児も理解しているのだ。


「牛若……そなたが帰ってきてくれて……わしは幸せ者じゃ……」


 牛若はただ嗚咽を漏らしながら、秀衡のかすかなつぶやきに耳を澄ませている。国衡も忠衡も、秀衡の言葉を待っているようだった。――泰衡の表情は、見えなかった。


「義経殿、何か言ってくだされ……!」


「父上は義経殿の声が聞きたいのです……!」


 国衡も忠衡も、牛若に真っ直ぐな言葉をかける。牛若は「はい……っ」とか細くつぶやくが、何度口を開こうとしても嗚咽で息が震え、言葉にならないらしい。


「牛若……国衡や忠衡が言ったのが聞こえたであろう……。そなたの、その清らかな声を聞かせてくれ……頼む……」


「う……っ」


 牛若は何か言ってあげねばと思えば思うほど、唇を震わせることしかできなくなるようだった。


 秀衡は頼りない息をなんとか吸い込んでみせる。


「牛若……泣くでない……。そなたが泣けばわしは悲しくなる……。これは、天命じゃ……。もうわしは全てのことをやり終えた……。牛若はもうどこへも行かず……ここで末永く、幸せに暮らすのじゃ……。安心するがよい……。最後に……声を……声を……っ」


 これほど秀衡が声を求めているのに、牛若は泣きじゃくりながら唇を震わせたままだった。


「頼む……牛若……」


 牛若は震える息をなんとか吸い込んでいた。


「――ちちうえ……っ」


 初めて、牛若の口から「父上」という言葉が発せられた。その瞬間、秀衡は「おっ……」とうれしそうに、閉じていた目をゆっくりと見開いた。


「やっと……わしのことを……父と呼んでくれたか……っ」


 それはひどく満足そうな声だった。その目は牛若を真っ直ぐに見つめていた。牛若は嗚咽と共に涙を流し続けたままもう何も言えずにいたが、秀衡とその清らかな目で見つめ合っていた。


「これで……安心してあの世へ行ける……ゆっくりわしは……極楽浄土で待っているゆえ……牛若は……いつまでも……この世の極楽を……」


 そこまで言葉を紡ぎ終えると、秀衡は眠るようにそっと目を閉じ、そのまま動かなくなった。


「父上……!」


 国衡と忠衡が叫び声を上げて王者の身体を懸命に揺すったが、秀衡はもう目を開けようとしなかった。秀衡の手を握り返したままの牛若は、何も言えないまま泣き崩れることしかできない。後ろの泰衡も泣きじゃくりながらうつむいていた。


 奥州の王者、藤原秀衡は、牛若の手を握りしめながら、眠るようにこの世を去った。


 弁慶は天界の稚児の清らかな涙を、いつまでも見つめ続けていた。

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