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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第八十三話 衣川の抱擁

 平泉の日々は過剰な幸せに満ちていた。


 連日秀衡は吉次に豪華な食材を取り寄せさせ、牛若が食べきれないほどの膳を並べさせた。同じものを弁慶たちも、御所の者たちも食べさせられているが、牛若の前に置かれるものが一番豪華であることは確かだった。ほんの少しでも牛若の食が進めば、家人たちはすぐに気づいて次の皿を運ぶ。


 みな一様に牛若を笑顔で見ている。御所の誰も疑問に思う様子はなかった――ただ一人、泰衡を除いて。


 食事が終わると、秀衡は奥の部屋へ牛若たちや、国衡と忠衡を呼んだ。次から次へと真新しい美麗な装束を着せ替えては、牛若へ向かって砂金をばらまいて輝かせ、恍惚の表情となる。それを弁慶たちは鑑賞させられていた。


 三郎や鷲尾が単純に牛若の幸せを喜んでいる一方、駿河は秀衡の財力に舌を巻き、喜三太は異邦の豪奢さに敬服するばかりだ。郷御前はさすがに正気が残っているようで、ここまでの財力を牛若に惜しみなく注ぎ、うれしそうに笑いながらしまいには涙を流す秀衡を、いささか気味悪がっている様子ではあった。だが、都にいた時とは比べものにならないほど幸せに微笑む牛若を見ていると、それでもどうでもよくなるようだった。


(……これは、どういう暮らしなのだ)


 弁慶たちの装束でさえ尋常ではない。毎日美しいものを食べ、美しいものを着せられ、美しい場所で笑う。牛若の周囲だけ、まるでこの世ではないかのようだった。


 秀衡の財力が底なしならそれでよい。だがそれが牛若の周りだけに使われていることが、弁慶は不気味でならなかった。国衡も忠衡もそれを疑問に思っている様子がないのだ。


 だが、秀衡の身体は日に日に衰えているのが、弁慶にも分かった。


 何かの病というより、老いそのものの重さだろう。食事の時は牛若の食べる様子を眺めるばかりで、自分の膳にはほとんど箸を付けない。今まで足腰はしっかりしていたが、最近は家人の助けを借りて立ち上がるようになった。その度に、牛若も心配そうに秀衡を見ている。


 いつものように、牛若を中心とした豪勢な食事が終わると、秀衡は真面目な顔つきで牛若を見つめた。


「今日はそなたたちを衣川(ころもがわ)の館へ案内する」


「衣川――ここのすぐ近くですね」


「そうじゃ」


 秀衡は家人の力を借りて立ち上がると、牛若たちを連れて門を出る。弁慶も付いて行った。


「さあ、家人の者たちも」


 見るとすでに、あの黄金の輿がまた用意されている。すでに砂金がばらまかれているのだ。


「とりあえず付いてくるがよい」


 秀衡はうれしそうな笑顔だ。


 弁慶は怪訝に思いながら、皆と共に自分の輿に巨躯を潜り込ませる。広く作られてはいるが、それでもやはり少し窮屈だった。向こうからは牛若の小さな笑い声と、秀衡の老いた、満ち足りた声が聞こえてくる。


 すぐに輿は衣川の館へ到着した。


 門の前で黄金の輿を降りてみると、すでに秀衡は牛若の肩に後ろから手を置いていた。


(こんな美麗な場所がもう一つあったとは……)


 この館は秀衡の御所よりもいっそう豪奢な造りになっている。妙にきらめいているのは、これも砂金なのだろうか。庭に面した広がりはただの住まいとは思えなかった。


「――牛若」


「ここに来るのは初めてですが――」


「うむ」


 秀衡の返事はいつになく力強い。


「――わしも長生きして、牛若といつまでも一緒にいたいものだが、永遠というわけにもいかぬのでな」


「――お身体が、悪いのですか?」


 動揺した様子の牛若が秀衡を振り返るが、秀衡の慈しむ笑顔は変わらない。


「病の兆しは特にないがな」


「私は、秀衡さまにいつまでも生きて頂きとうございます」


 三郎たちは静かに二人のやりとりを見つめていた。二人が真っ直ぐ見つめ合う微笑ましさは、弁慶も認めるしかない。


「おうおう、その言葉はうれしくてたまらぬ。……されど、わしも天命が近づいているのを近頃は感じておる。だがな、わしが死んでもそなたは幸せなままゆえ、安心してほしいのじゃ」


 そこまで言った秀衡は、まるでいたずらっ子のような笑いを浮かべている。


「この館は、わしから牛若への贈り物じゃ」


「私への……?」


 牛若は無邪気に首を傾げているが、弁慶には理解できた。秀衡は、この館が牛若への形見だと言いたいのだ。


「わしの次の代は泰衡じゃ。泰衡がわしと同じことを牛若にしてやる暇はないであろうからの」


 秀衡は遠くを見つめるようにして言葉を続ける。


「牛若は泰衡の代になったら、この館にそなたの従者たちと共に移り住むのじゃ」


 決して「わしが死んだら」という言い方をしないのが、牛若を悲しませまいとする、この老人の優しさに思える。


「もとは基成殿が住んでいたが、最近はあの有様ゆえ今は使っておらぬ。わしが牛若のために、最高の改築を施させたのじゃ」


(一体なんということをするのだ。そこまで狂ったか……)


 跡継ぎであるのにすっかり端に追いやられている泰衡の祖父の家を、持ち主の衰えをよいことに勝手に改築し、牛若のための館にしてしまったのだ。――泰衡が同意しているわけがない。


「さあ、付いてくるがよい」


 背筋が寒くなってきたが、牛若の肩に手を置いたまま中へ進む秀衡を、弁慶たちはそっと追っていく。


 その瞬間弁慶は、あっと声を出しそうになった。


 外から見るだけでも豪奢な兆しはあったが、中は全体にうっすらと金箔(きんぱく)が施されている。以前弁慶たちが少しだけ覗いた中尊寺の金色堂(こんじきどう)のような美麗さがある。庭には由緒正しい寺のような石が風情よく置かれ、大きな池には立派な鯉も泳いでいる。


 この辺りは、以前牛若が平泉を出る前にも通りかかった覚えがある。だが、明らかにその時よりも建物が広大になっていた。


「とてもきれいで、美しい館にございます――ありがとうございます」


 牛若は笑顔で秀衡に甘えながらも、礼節を保った大人の受け答えができている。秀衡は満足そうに微笑むばかりだ。


「うむうむ、その笑顔を待っておった。この館はこの世の極楽浄土よ。上がるが良い。案内してやるぞ」


「はい」


 秀衡は牛若の肩に手を置いたまま、正面の寝殿(しんでん)へ上がった。弁慶たちも静かに付いていく。


 広い母屋の柱は淡く輝き、金を散らした屏風の向こうに池の木立が風情よく見える。座所ごとに置かれた(たたみ)も、敷かれた布も、すべてが真新しい。砂金をほんのりと使ったのか、淡い輝きが全体に見られるが、気品に溢れている。


「……すげえな」


 三郎が、思わず声を漏らした。


「牛若さまのために、ここまで……」


「ああ……」


 そうつぶやく鷲尾も、駿河も、喜三太も、ただ感嘆のため息をつくばかりだ。


 圧倒されつつも、ただ秀衡の笑顔だけを見て微笑んでいる牛若を、郷御前が穏やかな目で見つめているのが見えた。


 この館はすべてが牛若のために整えられている。弁慶の胸の奥に言いようのない重さが沈む。


 秀衡はさらに奥へ進んだ。


 寝殿の華やぎから少し離れた向こうに持仏堂(じぶつどう)があった。


 奥に仏が安置され、金色の灯が輝く。光が深く沈み、仏像が呼吸しているようにも見えた。


 牛若も、無垢な目でじっと仏を見つめていた。秀衡はその横顔を、嬉しそうに眺めていた。




 全ての部屋の案内が終わると、秀衡は牛若と共に縁側に腰掛けた。


「――牛若」


 言うなり秀衡は、縁側で牛若と向き合う形になる。三郎たちは館の豪奢さに目を見張りながらも二人を見守っていた。郷御前も温かい目で様子を眺めている。


「秀衡さま……」


「――そなたも元服した大人であるゆえ、今日は大人の大事な話をせねばならぬ」


「はい」


 牛若は真剣な顔でうなずく。


「わしは……いつまでも牛若を守ってやりたかったが、老いには逆らえぬ。わしはいずれ、この世を去るであろう」


「そんな……っ」


 牛若の声が泣きそうになるのを、秀衡は笑って制そうとする。


「ははは、この乱れた世で、わしは化け物並みの長生きぞ。これ以上生に執着するのはわがままであろう。わしはそなたに、いつまでも笑っていてほしい」


 秀衡は牛若を見つめながら微笑み続けている。この老人は、自らが死んでも牛若を悲しませまいと決意しているようだ。


「――この世が仮の宿であることなど知れたこと。わしはお前よりも少し早めに、あの世でもう一つの幸せな暮らしを始めるに過ぎぬ」


「――あの世も、幸せなのでございますね」


 牛若は秀衡の言葉を噛み締めるように、うなずきながら言葉を返している。


「そうじゃ。わしの肉体が朽ちようとも、わしは極楽浄土から牛若のことを見守っておる。……だが、牛若はまだまだこの世を楽しめるはずじゃ」


 自分の死んだ時の話ばかりしているのに、秀衡の言葉にはまるで悲壮感がない。だから牛若も落ち着いて聞いていられるのだろう。


「わしの死後の牛若への対応は、国衡と忠衡にしかと引き継いであるゆえ、安心するが良い。そなたはこの館を、この世の極楽浄土とするのじゃ。食事も着るものも、全てここに運ばせる」


「――ありがとうございます」


 牛若は秀衡を見つめて礼を言っているが、それはただ秀衡の笑顔をうれしがっているだけで、秀衡の言っている内容はよく分かっていないにちがいない。


 秀衡は、自らの死後の牛若の幸せさえ願っている。その様子は狂っているし、不気味でもある。それでも、弁慶の胸のつかえがとれるような、奇妙なさわやかさがあった。


 この狂人のおかげで、牛若は笑っていられるのだ。


 死後のことを泰衡ではなく、国衡と忠衡に頼んでいる。そのことの異常さが、牛若のことしか頭にないこの老人には分からないにちがいない。


「牛若。元気なうちにもう一度言わせてくれ。わしはそなたが帰ってきてくれたことを、本当に嬉しく思っておる。――頼朝や朝廷からは牛若を討てだの、あるいは処罰するゆえ捕らえて差し出せだのと、狂った命令ばかりが来ておるが、そんなものは全て無視すればよいのじゃ」


 ははは、と秀衡は面白そうに笑っている。


(狂っているのは頼朝や朝廷ではあるまい……)


 だが、牛若の今の幸せな笑顔を引き出せたのは、この狂った老人なのだ。


 今の牛若は、兄や朝廷の話を聞いてもほとんど無反応だった。


「そなたはいつまでも、ここで幸せに暮らせる。何もかも、安心するが良い」


 そう言い終える秀衡の目は潤んでいた。そのまま牛若の手を強く握りしめている。


「ありがとうございます……!」


 秀衡の狂った尊い心を感じ取ったのか、牛若も涙ぐんでいる。


「牛若……!」


 言うなり秀衡は、牛若を再度両手で包み込み、力強く抱きしめようとした。


 だがその手は、するっと空をつかんだ。


 牛若の身体を抱きしめる前に、秀衡の腕から力が抜けていくのが見えた。指先が虚しく宙を掻き、座ったままの老いた身体が縁側の上でぐらりと傾いた。


「秀衡さま……っ!」


 牛若の泣き叫ぶような悲鳴が、金色の館に響き渡った。

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