第八十二話 砂金の華
あれから数日が経つ。平泉の朝はひどく穏やかだった。
(……静かすぎる)
弁慶は、御所の外から差し込む光を見つめながら、妙な落ち着かなさを覚えていた。
もう山伏姿に戻る必要もない。夜になれば、牛若は秀衡の隣で眠るだけだった。弁慶たちは御簾の向こうに控えるだけだ。そう思うたびに胸の奥に小さな痛みが走ったが、牛若の寝息が穏やかならそれでよい。
平泉での暮らしは、何もかもが満ちていた。
朝餉さえも豪勢な膳が並ぶ。以前平泉にいた時も豊かな食事だったが、今の秀衡は牛若のために吉次を走り回らせ、最高の食材ばかりを集めさせているようだった。逃避行中どころか、鎌倉や都でも口にできなかったものばかりが毎日出てくる。
三郎はすっかり気に入ったらしく、今も膳の前で顔を輝かせていた。
「もう鎌倉には戻れねえな。飯が違いすぎる」
「山のものは分かるけどよ、ここは何もかも上品だな」
鷲尾は感心した表情で山鳥を眺める。
「鎌倉がただの田舎であったことを思い知らされるな。京の都も及ぶまい」
駿河も上機嫌に食を進めている。
「奥州の心そのものが豊かであると感じますわ」
郷御前は少しずつ箸を進めながら微笑む。この女も随分穏やかになったものだ。
喜三太は膳の前で、どこか居心地の悪そうな顔をしていた。
「それがし、働かずにこのようなものを食べ続けていると、かえって不安になってまいりまする」
三郎と鷲尾が顔を見合わせて笑っている。
秀衡は、自分の膳にはあまり手をつけなかった。老いのせいかもしれない。箸を置いたまま牛若の方ばかりを見ている。
牛若は遠慮がちに食を進めるばかりだが、秀衡の笑顔を見るたびにうれしそうな顔をする。
泰衡は食事の時にしか現れない。気品を崩さず、黙って膳に手をつけている。秀衡の隣は、もう牛若の席だ。国衡や忠衡の会話にも加わらず、泰衡の膳の前だけ冷え込んでいる。
牛若は何も気付いていないだろう。
(毎日豪勢な食事ばかり――まるで貴族になったかのようだ……)
いや、近頃は都の貴族でさえ、こんな生活はしていないにちがいない。
平泉に牛若を送り届けてから、弁慶たちには何もやることがなかった。
牛若の短刀は弁慶が肌身離さず持っているが、ここでは誰も牛若が丸腰であることに気づかない。
「――義経殿、久しぶりに馬に乗りませぬか。流鏑馬の支度をさせてあります」
「馬も弓も喜ぶはずです!」
食事を終えて、国衡と忠衡が牛若を誘いにきた。
「はい、ぜひ」
牛若ははにかむように微笑んだ。
御所近くの広い馬場へ出ると、牛若は二人と共に弓を取り、馬に跨る。弁慶や三郎たちは後から眺めるだけだ。
馬が走ると、牛若の袖が風をはらみ、矢が放たれる。
矢は、初めからそこへ向かうことが決まっていたかのように、的を静かに貫いた。
「さすが牛若さまだな」
三郎が得意げに笑う。鷲尾は目を丸くしたまま、「牛若さま、弓もすごかったんだな」と感心したようにつぶやいていた。
「義経さまの神々しさは群を抜いておられますな」
喜三太は牛若をますます敬うばかりのようではある。駿河は「九郎さまのすごさは、今さら気づくことでもあるまい」と冷静なままだ。
郷御前は、少し離れたところからそれを眺めていた。楽しそうに流鏑馬に興じる牛若を、柄にもなく微笑みながら見ている。
「私は暇ですわね。歌の詠み方でも学ぶのもいいかもしれませんわ」
郷御前が弁慶に向けて、ふと笑った。
「歌かよ、帳面ねえさん」
三郎が面白そうに口を挟む。
「確か、もう一人の息子の泰衡さんは歌が上手いぞ」
「――あの方には、あまり近づかない方がよさそうですわ」
「そうか?」
(さすが郷御前、よく分かっておる)
弁慶は思わずうなずきかけた。この夢のような平泉で、あの男だけは牛若の帰還を喜んではいまい。
郷御前はそれ以上泰衡の話を続ける気はないらしい。牛若がまた馬を走らせると、その目は自然とそちらへ戻っていた。
泰衡は現れなかった。
御所へ戻っても、夕餉までにはまだ時があった。
牛若は流鏑馬の余韻が残っているのか、頬がいくらか紅潮したままだった。中へ戻ると、秀衡は少し疲れた様子で座っていたが、牛若を見るなり顔を明るくする。
「牛若、楽しめたようじゃな」
「はい。国衡殿も忠衡殿も、変わらずお元気でした」
「そうか、そうか」
その言い方はやはり少年に対するような慈しみに溢れている。秀衡は満足そうにうなずいていた。
「ただ今戻ってまいりました」
吉次が現れた。食材の手配から帰ってきたようだが、その顔は妙に重い。
「吉次、どうした」
秀衡が問うと、吉次は一度、牛若を見た。
「義経さま……お耳に入れるべきか迷いましたが、西へ残してきた方々の噂――いずれ届く話にございますゆえ……」
三郎が眉を寄せる。
「おい、牛若さまに変な噂は聞かせない方がいいんじゃねえか?」
「妙な話は聞かせずともよい」
秀衡もそっと制しようとした。
「いや、私は聞きたい」
牛若は真剣な顔でつぶやいた。
(聞きたい、か)
よい噂のはずがない。以前の牛若なら自分から聞こうとはしなかっただろう。今の牛若は、少しずつ大人のような顔になっている気がする。
吉次は深く頭を下げた。
「義経さまに近しい方々の噂でございますが――まず、こちらは奥州ゆかりの方でもありますが、佐藤忠信殿は吉野で奮闘し敵をなんとか殲滅させたものの、行き場を失って都へ戻り、その後討たれたそうです」
「――忠信……っ」
牛若の目から涙がこぼれた。
三郎は口を開きかけたが、何も言えない様子だ。鷲尾も駿河も、息を詰めるように黙っている。喜三太でさえ、うつむいたまま膝の上で手を握っていた。
それでも牛若は、涙を流しながら吉次を真っ直ぐ見た。
「続けてくれ」
「はい……」
吉次の顔はつらそうに歪んでいた。
「源行家殿は船の難破後、潜伏していたところを捕らえられ、斬首されたとかで……」
「叔父上まで……っ」
牛若の声が震える。弁慶も、あの俗物も呆気ない最期を迎えたというのは信じがたい。
「義経さま、噂ですから真偽のほどは分かりませんの。そんな簡単に死ぬお方には見えませんでしたわ」
郷御前が冷静な口調で言葉を挟む。
「確かにあの御仁は……」
駿河が静かにつぶやいた。
「斬首しても生き返りそうではある」
「そうだよな」
三郎が軽く同調して笑いかけたが、牛若の涙を見てそれは抑え込んだようだ。
「おっしゃる通り、噂の真偽はそれがしには分かりかねますが……」
吉次は遠慮がちにつぶやいたが、牛若は「続けてくれ」、としっかりした声で促した。
「承知いたしました。――その、平時実殿や一条能成殿は捕えられ、処罰を受けたそうですが、命までは取られなかったそうにございます」
「うむ、そうか……」
こちらの話に対する牛若の反応は鈍かった。
吉次はさらに言いにくそうに続ける。
「また、静御前は吉野山を降りたところを捕らえられ、都にいた磯禅師殿も居場所を突き止められ、共に鎌倉へ送られたそうにございます」
「静がっ……」
忠信の件と共に、牛若の哀しみを拡げたようだった。
「頼朝殿の前で、なお義経さまを慕う歌を歌ったとか。その後、腹の子のことが知れ、生まれた男の子は殺されたという噂もございます」
「なんと……」
またその目から涙がこぼれる。
「静だけでなく……子もいたのか……」
「えっ、牛若さまのお子かよっ……」
三郎まで無様に動揺している。弁慶もにわかには信じがたい。
郷御前が静かに進み出た。
「義経さま、子供は静殿お一人で突然生まれることはありませんわ」
「どういうことだ」
天界の稚児にはよく分からない話のようだ。
「義経さまに同情するあまり、噂に尾鰭がついた可能性がございますの」
そういう郷御前の表情は穏やかだ。牛若は涙をこぼしたまま、その目を見つめている。
「とにかく静御前がご無事ということを、喜ぶべきですわ」
「――そうか……」
牛若はただ静かにうなずいてみせた。
「あの……それから――」
吉次はさらに口を開く。
「申し上げにくいのですが……義経さまが正室の郷御前との間に、逃避行の山中で女の子をもうけたという噂も流れております」
「女の子って、産まれたっけ?」
三郎がぽかんと口を開けた。沈黙が落ちる中、そのまま鷲尾の方を見る。
「それ、鷲尾のことじゃねえのか? お前、小柄だしさ」
「俺が? いや、第一俺、女の子じゃねえぞ」
「ええ」
郷御前は冷静な声で言葉を挟んだ。
「私はどなたもお産み申し上げた覚えはございませんわ」
「さよう」
喜三太も真顔でうなずく。
「この喜三太も、そのような場面は見ておりませぬ」
「俺も見ていない」
駿河も同調する。
郷御前もうなずいてみせた。
「これも、義経さまの逃避行の哀れさに同情した者が多い証ですわ。義経さまは山中で妻子ともども、あまりにも哀れな状況で落ち延びている。鎌倉のお方がひどい仕打ちをしたせいでそうなっている。そう言いたい者が噂に手心を加えたと考えられますの」
「なるほど」
吉次が納得したようにうなずく。
「確かに。民の話を聞けば、鎌倉の悪口しか出てまいりませぬ」
皆は納得したようにため息をついたが、牛若は忠信と静御前、そしておそらく行家のことも想ってか、涙が止まらない様子だ。
頼朝の話への反応は見られなかった。兄上という言葉を聞かなくなって久しい。
秀衡が涙を流したままの牛若を抱き寄せた。
「ここにはそなたの味方しかおらぬ。大いに泣くがよい」
牛若は嗚咽を漏らして泣きじゃくり続けた。その痛ましい光景を皆が見つめている。
秀衡はしばらくその背中を優しく撫でていた。老いた手が、幼い子を宥めるように、何度も牛若の背に触れる。
やがて秀衡は顔を上げると、そっと牛若を解放するなり、手を叩いた。
「誰かおるか」
すぐに現れた家人に秀衡は微笑みを向ける。
「今すぐ、牛若に似合う装束をすべて持て。用意させたものがたくさんあろう」
「はい!」
家人は恭しく頭を下げ、その場から走り去る。
国衡と忠衡は事情を知っているのか微笑んでいた。
(装束とは――何を企んでおるのだろう……)
老いた王者の目は、妙な熱を帯びていた。
布箱が次々と運ばれてきた。
「さあ、牛若、あちらの屏風の方へ行くがよい」
そう言うなり、秀衡は国衡と忠衡に目配せをした。二人はすでに察しているようだ。
「それがしが義経殿の着替えを手伝います」
「父上もこの日を楽しみにしておいででした」
「はい……?」
何のことか分からないまま、牛若は屏風の向こうへ連れて行かれる。
弁慶も三郎たちも、この不思議な光景をただ見守らざるを得ない。
「――義経殿には、こちらが似合いましょう」
「――いや、こちらもよい。父上が喜ばれます」
国衡と忠衡の妙な会話が聞こえてくる。着替えの際、二人は牛若の露わな肌を見ることを許されているのだ。一方秀衡は幸せそうに微笑みながら待っている。
牛若は紫がかった絹の小袖に、鮮やかな光沢色の水干を伴って現れた。
「おお……」
秀衡は息を呑んでいる。三郎たちも感嘆のため息をついていた。
「……よい。実によい」
牛若ははにかみながら立っている。
「秀衡さま、このような装いは初めてにございます……」
秀衡は牛若を笑顔で見つめ続ける。牛若は自分がどんな豪華なものを着せられているかより、秀衡の笑顔自体がうれしいようだった。
「わしの前で回ってみせよ」
「はいっ」
牛若は困ったように笑いながら、袖を揺らして小さく回る。
三郎が笑った。
「牛若さま、まるで姫君みたいだな」
「黙れ」
弁慶がたしなめたが、秀衡はうっとりと恍惚の表情だ。
「本当によい。美しく、凛々しく、そしてかわいらしい。天から現れたかのようじゃ」
秀衡は満足そうに息をつくと、「よし、では次のものじゃ!」と老いた声を張り上げた。
そこからは、次々に衣が運ばれた。赤根染の狩衣。深い紺の大目結。蘇芳の重ね。細く美しい組紐。金糸を使った帯。毛皮を縁にあしらった、奥州らしい華やかなものまである。
牛若は、武士の若君にも、都の貴公子にも、奥州の宝玉にも見えた。牛若が着せ替えられるたびに、秀衡はいちいち感動している様子だ。
「実によい」、「これも似合う」と声を弾ませ、牛若が困ったように微笑むとうれしそうな笑い声を立て、しまいには声を震わせ涙まで浮かべ出す。
「牛若は何を着ても美しいのう」
(この王者、かなり頭が狂い出しているのではないか……?)
牛若の幸せそうな笑顔を見るとこちらも温かい気分になってくるのは確かだが、ここまで来ると不気味さも感じてしまう。
「義経殿、よくお似合いです」
「奥州中の者に見せたいですね」
国衡と忠衡も笑顔でうなずくばかりだった。
(――天界の稚児に絡め取られているのは、秀衡だけではないのかもしれぬ……)
「本物の貴さとはこのようなものにございますな」
喜三太まで感動する始末だ。
「それがしのような悪人には到達できぬ気品にございます」
(ふん、自分のおそろしく低い基準と比べるな)
弁慶は心の中で吐き捨てながらも、牛若の笑顔だけを見ていることにした。
その時、弁慶はふと、御簾の向こうに人影が立ったことに気づいた。
それは泰衡だった。
部屋の中へ入ってくるわけではない。ただ一瞬、牛若の着せ替えの様子を覗きに来たようだった。
灯の陰になって、顔ははっきりとは見えないが、泰衡が笑っていないのだけは分かる。だがその姿はすぐに消えた。
ひときわ豪華な貴族の装いが運ばれてきた。
白く柔らかな絹の上に、薄紫と萌黄が重ねられ、袖の端には金糸の細工が光る。袴は深い紫で、細かな文様が灯を受けて浮かび上がる。細い組紐が胸元を締め、牛若の華奢な身体を神聖なものに見せていた。
牛若は圧倒されてしまっている。
「秀衡さま……これは、あまりにも……」
秀衡は何も答えず、袋を手に取った。
弁慶があっと声を出す間もなかった。
秀衡は牛若へ向けて、突如砂金をばらまいたのだ。
「うわ……」
牛若は戸惑いながらも、ただ微笑むばかりだった。その笑顔は輝きに満ちていた。
「わっ……」
三郎たちが一斉に感嘆の声を上げる。郷御前は目を丸くしていたが、弁慶同様牛若の笑顔だけを見続けることにしたようだ。
砂金は灯を受けて、牛若の肩、袖、髪の近く、足元の布へと降り注いでいく。花びらのようにまばゆい光を散らす。牛若のまわりだけ黄金の霞がかかったようだった。
三郎は、口を開けたまま固まっている。
鷲尾も言葉を失っていた。駿河すら、目を見開いている。
「ここまでの義経さまへのおもてなし――」
郷御前が小声で続ける。
「妻の端くれとしてうれしゅうございますわ。少し心配ではありますけれど……」
(よく分かっておる)
だが、この狂ったとしか言えない不気味さが牛若を幸せにしているのかもしれない。
郷御前は穏やかに牛若を見つめている。
「義経さまがお幸せなら、私は何も申しませんわ」
弁慶は郷御前の視線がこちらにないのを知りつつ、無言でうなずいた。
秀衡は満ち足りた顔で笑っている。牛若も無防備に微笑んでいた。
弁慶はそんな二人の顔を何度も見比べていた。




