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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第八十一話 夜更けの夕餉

 黄金の輿は夜道を進んでいた。


(見えぬ……)


 夕方に関所の館を出てから、随分と時が過ぎている。山の空気は冷え、担ぎ手たちの足音と、衣擦れの音だけが途切れず続いていた。


 輿には簾のようなものが垂れている。内側から外がまったく見えないわけではないが、前を進む一際大きな輿の中の様子までは分からない。


(牛若さまは秀衡と、どうしておられる……?)


 簾の隙間から見えるのは、揺れる灯、担ぎ手の影、夜道の暗さばかりだ。ただ時折、前方から二人の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


 捕縛や誅殺の心配は薄れてきている。牛若は秀衡が抱き止めたのだ。胸の奥に痛みが走る。


 弁慶は前方の気配だけを追い続けていた。




 わずかに明るみ出す空の下で、見慣れた御所の影が見えてきた。


 あの時と何も変わらない。平泉を出て、鎌倉へ向かい、西へ向かった日々が、ずっと昔のことのように思える。


 牛若がかつて一番幸せだった場所が、再び牛若を迎え入れようとしている。


 弁慶は輿の中で、何度も息を整えた。


 門の中まで入ったところで、弁慶は思わず目を細める。大勢の家人たちが待っていた。この夜更けに、灯を持ち、整えた姿で並んでいる。


 まさか、夕餉もせずに待っていたのだろうか。弁慶の背筋が不気味な寒気を覚える。


「お館さま!」


 家人たちの声が重なった。


「お帰りなさいませ!」


 秀衡は大きくうなずいた。


「うむ。牛若を連れて帰ったぞ」


「おお!」


 家人たちがうれしそうに何かを口々に叫んでいる。


「父上!」


「義経殿!」


 秀衡の息子の国衡と忠衡も、歓喜の声で一行を出迎えていた。そこに毒気は一切ない。ただ再会を懐かしむ心だけが、露骨に現れていた。


 泰衡もそのそばに気品を保っていた。


「父上、お帰りなさいませ」


 その声は静かだった。


「義経殿、お待ちしておりました」


 この男の顔だけは冷静だ。秀衡よりも正気かもしれない。


 国を挙げて追われる牛若を匿うことのおそろしさを、家人たちも、国衡も、忠衡も、そして秀衡も分かっている様子が見られない。


「国衡殿、忠衡殿、泰衡殿、帰ってまいりました!」


 牛若は嬉しそうに叫んだ。この元気な声を、鎌倉の汚物は長らく奪い続けていたのだ。


 国衡と忠衡はすぐに牛若の方へ歩み寄ってくる。


「義経殿がいない平泉は毎日が退屈だった。よくぞ戻ってくれました」


 国衡が牛若の手を握った。続いて忠衡も感慨深そうに握りしめている。


「義経殿が戻ってくれば、この奥州も安泰です!」


 牛若は目を潤ませながら、二人の手を握り返しているようだった。


(何を言っているのだ。牛若が戻ってきたから、この奥州は安泰でなくなるのではないか……)


 牛若を傷つけるような思考ばかりがよぎる、自分のことが嫌になってくる。弁慶はそれ以上考えないことにした。


 秀衡は上機嫌のまま家人たちへ声をかける。


「皆の者、待たせたな。もう朝が近づいてはおるが、これからすぐに夕餉じゃ!」


「はっ!」


 家人たちは慌ただしく動き出した。


 牛若たちは広い母屋の奥へ通された。膳も、酒も、灯も、すべてが用意されている。やはり、この者たちは秀衡たちが戻るまで待っていたのだ。


「みな、我らを待たず席に着くのじゃ!」


 秀衡がそう言うと、その場にいる者たちが次々に席を埋めていく。


 弁慶たちの席も用意されているのが見えた。家人に促され、弁慶、三郎、鷲尾、駿河、喜三太、郷御前がそれぞれの位置に座る。


 客人への敬意とはいえ、一行は国衡や忠衡よりも上座に近い場所へ置かれていた。


(平泉を出る前より、とんでもない歓待だな……)


 弁慶はあまりの歓迎に気が引けたが、国衡と忠衡は屈託のない笑顔で笑っている。


「義経殿が戻って来てくれて、本当によかった」


「この日をどんなに待ち望んだことでしょう」


 二人は本気でそう言っているようだった。他意のない目だ。


 一方、牛若は微笑みながら、見慣れたこの場所を見つめている。


 柱、御簾、灯、膳を置く場所、秀衡の座るところ、全てを記憶と見比べているようだった。どれも懐かしいのだろう。


 談笑の声があちこちから聞こえ始める中、秀衡はいつもの場所へ座った。その隣には、泰衡の祖父の基成がすでに座っていた。都人であることを鼻にかけていた基成は、随分衰弱し老いている。以前と同じように秀衡の隣に座ってはいるが、目はうつろで、時折、意味もなく手を動かしている。物忘れのひどい老人になってしまったのかもしれない。


 泰衡が気品を守りながら、以前と同じようにその横の席につく。


 秀衡が牛若の様子に気づくのが見えた。


「牛若、どうしたのじゃ。そなたはこっちじゃ」


 うれしくてたまらないような声だった。その声は、少年に対する話し方でしかない。


 牛若は少し戸惑っている。


「秀衡さま……?」


 牛若は、以前と違う場所に呼ばれて戸惑っているようだったが、秀衡は笑顔のまま泰衡に顔を向けた。


「泰衡、その席は牛若の席じゃ」


「えっ」


 泰衡の声が情けなく漏れた。


(跡継ぎの実子をどかせるつもりか……)


 秀衡は全く当然のことのように、笑顔で実子の泰衡へおそろしい言葉を発している。


「そなたの席は国衡たちの方でよかろう」


「……承知いたしました」


 泰衡は震えた声と共に静かに立ち上がり、国衡や忠衡が座ろうとしている席の方へと向かっていた。


 国衡も忠衡も、泰衡が来ても何も言わず、ただ静かに席を空けていた。


 弁慶は、以前よりも近い席で見えてしまう秀衡の横顔を見つめる。


(この王者――正気を失っているのでは……? これでは泰衡が、いささか哀れではないか……?)


 弁慶の背筋は寒くなってくるが、秀衡は上機嫌のままだった。牛若は無邪気に進み出て、泰衡のいた席に座ってみせる。


「うむうむ、これからそれが牛若の席じゃ」


 その可愛くてたまらないという笑顔が、弁慶には不気味に思えてならなかった。


「では遅くなったが、夕餉を始めるとするぞ!」


 上座の牛若は無垢な笑顔で笑っている。


 食事が運び込まれ始めた。


 弁慶の横の三郎は実に嬉しそうだった。


「牛若さま、あんな上座になってよかったな! やっぱり判官さまになったんだしな」


(そんな役職はとっくに剥奪されている気がするが)


 弁慶は何も言わずに、軽くうなずいた。


 膳が料理で満たされていく。


 牛若が慣れ親しんだ姫飯(ひめいい)には、粟や(きび)も混ぜられていた。それとは別に餅も添えてある。鮭や、山鳥を炙ったもの、川魚の干物、それから海の方から運ばせた干魚も置かれた。山菜、茸、よく分からない木の実。漬物も汁物も一流のものだ。注がれる酒も一種類ではない。


 吉次が奥の方から現れた。この顔を見るのも久しぶりだ。牛若が「吉次……!」と喜びの声を上げている。


「牛若……義経さま! 秀衡さま! 間に合いました……! 山鳥も、鮭も、干魚も、茸も、全部間に合わせました!」


 息を切らしている吉次を見て秀衡は笑う。


「吉次、ようやった。牛若が食べるのじゃ。今後も最高のものを集めよ」


「はっ!」


 吉次は深く頭を下げた。


 さらに、小さな器に見たこともない珍しいものが載せられてきた。


 吉次が少し得意げに口を開く。


「海辺より回ってきた品にございます。勇魚(いさな)の塩漬けとのこと」


 鷲尾が首を傾げる。


「勇魚って何だ?」


「分からないが、美味しいぞ」


 三郎はすでに食らいついていた。


「ここは本当に豊かですわね。人々の表情もきれいですわ」


 食を進める郷御前も感慨深い様子だ。


「俺もこんな豪勢な食事は、鎌倉でも食べたことがない」


 駿河も圧倒されている。


「吉次殿、あなたもなかなか大変にございますな」


 喜三太も舌鼓を打ちながら吉次を労っている。


 牛若は、少しずつ食べ始めていた。秀衡はそれを笑顔でじっと見つめている。


「牛若、それもうまいぞ」


「はい」


「これも食べよ」


 秀衡は老いのせいか、あまり料理が口に入らない様子で、ただ牛若が食べる様子ばかり眺めては、あれこれと食べるものに温かい指示を下していた。


 食を進める牛若の表情は晴れやかだった。逃亡で弱っていた身体に、少しずつ命が戻るようだった。


 弁慶は向こうの泰衡の様子を見た。黙って食事に手はつけているが、表情は硬い。泰衡の膳の前だけ、夜気が一段冷えているように見えた。




 夕餉が終わっても、秀衡は上機嫌なままだった。


「牛若も、牛若の従者殿たちも、この御所に住むのがよかろう」


「はい!」


 牛若も三郎たちも目を輝かせていた。以前住んでいた吉次の屋敷も豪華ではあったが、こちらの御所の方が牛若もうれしいことだろう。


 夜はさらに更けていた。


 秀衡は当然のように、牛若の布団を自分の隣に敷かせていた。


 三郎が小声で言う。


「じいさん、牛若さまを放す気ないな」


「ああ」


 弁慶は静かに頷いた。


 牛若は少し恥ずかしそうだが、嬉しそうでもある。


「――よいのですか」


「うむ、そなたはわしの隣で眠るのじゃ」


 秀衡は酒も入ったからか、まるで極楽にいるような表情で牛若を見ている。


「わしはそなたが帰ってくる夢を、何度も見た。もう放すまい」


「――はい……」


 牛若は胸がいっぱいになったように、声を震わせてうなずいた。


「はい……」


 弁慶たちは、隣の間に控えることになった。三郎たちは疲れで寝入ってしまった。


 御簾の向こうから、秀衡の声と、牛若の小さな返事も聞こえてくる。何を話しているかまでは分からない。


 やがて静寂さが落ちてくる。


 弁慶は隣の気配に耳を澄ませ続けていた。


 胸の奥に妙な痛みが走るが、満たされた場所に自分も牛若もいるのだろう。牛若を生きた身体でここまで連れてきたのは正しかったのかもしれない。


 牛若の寝息らしい清らかな音が聞こえてくる。それは安心しきった寝息だった。


 牛若は弁慶の手が届かぬ場所で、穏やかに息をしている。その穏やかな寝息を壊したいとは思わなかった。

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