第八十話 黄金の輿
「牛若っ……!」
聞き覚えのある老人の、悲鳴のような叫び声がした。駆ける音が近づいてくる。
「秀衡さま……!」
牛若は叫びながら、弁慶たちを追い抜き走り寄ろうとした。だが、秀衡はすでに門の前にたどり着いていた。
あの頃より、かなり顔も身体つきも老いている。馬は関所側に置いてあるのか、家来たちもそばにいない。一人で走ってきたらしい。
(随分大胆なことをする)
一人で現れたら、牛若たちを捕まえる前に自分が人質になってしまうではないか。
「牛若っ!」
秀衡はそう繰り返し、涙を流しながら牛若の身体を強く抱きしめた。
「秀衡さま……っ」
牛若も泣きながら老人の身体にすがりついている。
「……よかったな……っ」
三郎たちは、郷御前も含め、みな涙を流す始末だ。鷲尾も「あれが秀衡さまか……」と目元を袖で拭っている。
この老人の様子に毒気は見られない。牛若を送り出した時と同じ――いや、それ以上に牛若への情愛を剥き出しにしているようにも見える。
だが、そんなはずはない。牛若を匿えば、牛若を平泉で受け入れれば、奥州藤原氏は滅びるのだ。
ようやく我に返ったらしい秀衡は、牛若を抱きしめたまま、その頬や肩を確かめるように見ていた。
「牛若、随分痩せてしまったな。長旅、さぞ大変だったであろう」
慈しむような表情だった。
(――いや、この老人の方がずっと痩せ衰えておる)
老いた王者の衰えを見ているのは痛々しかった。
「秀衡さまにお会いできるという望みだけを持って、これまで生きてまいりました……」
その言葉を聞くと、弁慶の胸の中に痛みが走る。
ここまで牛若は秀衡を信じきっている。もう牛若が心を預けられる男は、今は秀衡しかいないのだ。
だが、今こうやって再会を懐かしんでいるかのように見える秀衡も、正気に戻ればどうなるか。それは分かりきったことだと弁慶は思わざるを得なかった。
「――そなたが平家追討の戦でどれだけの手柄を立てたか、その後鎌倉の兄からどんなひどい仕打ちを受けたか、何もかも吉次から噂で聞いておる」
老人は涙を流しながら力強く言葉を続けた。
「――やはりわしがあの時、お前を止めるべきであった。鎌倉へなど、西へなど行かせるべきではなかった。わしの平泉にずっとおれば、そのような辛い目に遭わずに済んだはずじゃ。わしはそなたがいないせいで毎日泣き暮らしておった」
牛若は秀衡に抱きしめられたまま、おとなしく話を聞いている。
ここまで長々と奥州の王者の吐露めいた熱い言葉を聞かされるとは、弁慶は予想していなかった。
三郎たちは涙を流し続けながら、二人の様子をじっと見守っている。
「もう安心せよ。そなたはこれからわしと共に平泉へ帰り、皆と食事を共にし、一生平泉で幸せに暮らすのじゃ」
「あ、ありがとうございます……っ」
嗚咽を漏らしながら、牛若はうれしくてたまらない声を甲高く響かせている。
(これは――まさか、本当に牛若を守るつもりなのか……?)
ただの甘言にしては、言葉に熱と情念がこもりすぎている。
喜三太ではあるまいし、ここまで熱い口調で出まかせを言えるほどの大胆さは、この老人にはなかったはずだ。
弁慶は拳をぎゅっと握りしめる。
(この老人は、平泉が滅ぶことを――藤原氏が滅ぶことを、怖れておらぬのか……?)
実子の泰衡たちもいたはずだ。血の繋がらない牛若を守るために、一族が滅んでもよいというのか。
背筋が寒くなってくる。
この老人が何を考えているかが分からない。あまりにも不気味すぎる。
今はただ牛若への情愛を惜しみなく露わにしているだけで、皆目見当がつかない。
「――牛若の従者の皆」
秀衡は牛若を抱きしめたまま、顔を弁慶たちへ向けた。
三郎たちが深く頭を下げ、弁慶もそれに続く。郷御前もその中に溶け込んでいた。従者ではなく妻だと言う気はないようだ。
「遠いところから、よくぞ牛若をここまで無事連れ帰ってくれた。わしのたった一人の光を守ってくれたことに、心から礼を言わせてもらうぞ。――そういえば、佐藤継信と忠信は……?」
当然の問いに、三郎が無様に動揺する。
「あ、あの二人は……」
「秀衡さま……申し訳ありませぬ」
牛若は三郎のつぶやきをさえぎるなり、そっと秀衡の腕から逃れ、深々と頭を下げた。その表情は甘えたままではなく、秀衡に対する礼節もわきまえた気品があった。
「継信は屋島で私を守ろうとして討ち死にしました。忠信は吉野山で私を守るためしんがりとなり、そのまま行方は知れず……」
牛若は、秀衡の前だと、ここまで気丈に話すことができるのだ。
「誠に、申し訳ありませぬ」
その声は悲しみの涙に沈んでいたが、秀衡は再び牛若を強く抱きしめる。
「すまぬ。牛若が謝ることではない。二人はわしの、そして奥州の自慢の武士。牛若を守るために役立ったのであれば、二人も本望のはずじゃ。わしはそなたが生きて帰ってくれたらそれでよい」
「もったいなきお言葉……!」
三郎たちはみな袖で目元を拭うばかりだ。
弁慶の胸の奥はざわついている。
牛若は秀衡の前では、幼い子供にも、気品のある若君にもなれるのだ。
秀衡はようやく牛若の身体を解放した。
「さて――清らかな山伏姿もそなたにはよく似合っておるが……このまま平泉に帰ったら夕餉が待っておるゆえ、今すぐ着替えねばならぬ」
そう言うなり、秀衡は弁慶たちにも微笑みを向けてきた。
「皆も本物の山伏ではあるまい。関守から人数は聞いていたゆえ、全員の装束を用意させてある。いったん館へ戻られよ。――奥方殿の分もある」
「ありがたきしあわせですわ」
郷御前もうやうやしく頭を下げる。
秀衡は次に弁慶を見た。
「弁慶、であったな」
「はい」
この老人、一応弁慶のことは覚えていたらしい。
「そなたはいつも僧兵姿であったな。高僧しか着られぬ豪華な装いを用意しておるゆえ安心されよ」
「ありがたき幸せにございます」
弁慶は深々と頭を下げた。
捕縛したり殺したりする前に、豪華な装束を着せる男はいない気がする。この王者は本当に牛若を守る気なのだろうか。
「者ども、着替えを手伝うのじゃ!」
秀衡が遠くへ老いた声を張り上げると、大勢の従者が館へ走ってくる。
捕縛か誅殺かと身構えかけたが、本当に着替えの手伝いが目的らしい。
全員の着替えが終わった頃には、館は驚きの声で溢れかえっていた。
「うわあ、こんなすごいの、着たことねえ!」
三郎が叫び声を上げる。
三郎には、鮮やかな藍色の水干と、よく整えられた袴が用意されていた。旅の汚れた山伏姿とはまるで違う。烏帽子まで添えられていて、本人は何度も袖や紐を確かめている。
鷲尾には、少し落ち着いた緑がかった水干が与えられた。山育ちの猟師には似合わないほど整った装いだが、肩や袖に無理がなく、動きやすそうでもある。鷲尾は「これ、走っても大丈夫なのか」と何度も確かめていた。
駿河には、渋い色の直垂が用意されていた。飾りすぎず、それでいて布地が優れている。駿河は襟元を正し、静かに頭を下げた。
喜三太は、用意された上質な水干を前にして、妙に困った顔をしていた。
「それがしはただの下男にございますが……」
すると秀衡は即座に笑う。
「牛若を守ってくれた者はみな、大事な従者の一人じゃ」
「ははっ……ありがたき幸せにございます!」
喜三太は大げさに頭を下げ、嬉しそうな表情になった。
「私もこれではまるで、宮中の宮仕えでもできそうですわ」
郷御前も豪華な女房装束をまとっていた。
何枚も重ねられた袿は、裾を少し扱いやすくしてあるが、色の重なりが見事だった。淡い紅、薄紫、白、萌黄がちらりとのぞき、上には小ぶりながらも品のよい唐衣が添えられている。長い髪を整えられた郷御前は、もはや武士の正室どころのさわぎではなかった。
「奥方殿には、本来ならもっと正式な装いを用意したかったのじゃが、女人のものはいろいろと時間がかかるゆえ、平泉に着いてからさらに整えさせよう」
秀衡がそう言うと、郷御前は深く頭を下げた。
「これ以上頂いてしまっては、あまりにも分不相応でございますわ」
弁慶には、紫を帯びた豪奢な僧衣が用意されていた。
都の高僧が儀式に用いるような襞のある教衣に、きらびやかな袈裟まで添えられている。どこかの生臭坊主あたりが見れば、歓喜してその場で卒倒しそうな装いだ。
(ここまですごいものを用意するとは……)
弁慶は袖を通しながら居心地の悪い気分になる。
三郎がそれを見て、面白そうに口を開けた。
「弁慶、お前急にすごい坊主になったな」
「黙れ」
短く吐き捨てても三郎は笑っている。
牛若には、ひときわ豪華な装いが用意されていた。
白練の小袖の上に、淡い萌黄の水干。袴は深い紫で、細かな文様が光の加減で浮かび上がる。立烏帽子を添えられると、高貴な若君そのものだった。いや、この高貴さこそ、本来の牛若なのだ。
秀衡は満足そうに牛若を見つめた。
「うむ、よく似合う。やはり、わしの牛若はそうでなくてはならぬ」
牛若は照れたようにうつむいていた。
「ありがとうございます、秀衡さま」
「うむうむ、かわいらしいのう」
秀衡はまた涙ぐんでいる。
弁慶はその横顔をじっと見ていた。
この老人は、牛若を精一杯着飾らせてから殺すつもりなのか。それにしては溢れさせている情念が過剰すぎる。本当に、ただ帰還を祝っているだけなのだろうか。
着替えを終えた牛若一行は秀衡に促されて館を出る。弁慶も後に続いた。
秀衡は晴れやかな顔で言った。
「さあ、人数分の輿を用意させておるぞ」
「えっ俺なんかも輿に? ――げっ、あれは!」
三郎が叫び声を上げた方を見ると、館の向こうには黄金で光り輝く輿がいくつも用意されていた。その中に一つ、極めて大きい輿も含まれている。
「皆がそれぞれ一人ずつ乗るのじゃ。わしと牛若は二人で乗れる輿となっておる。さあ、牛若。参るのじゃ」
「はいっ」
満面の笑みを浮かべる秀衡を、牛若は幸せそうに見つめている。
三郎が「黄金の輿、いつも使っていたんですか……?」と下品な質問をすると、秀衡は「いやいや」と屈託なく笑う。
「どの輿も普通のものじゃ。わし用のものが少し大きいぐらい。そなたたちの帰還を祝えるよう、出発前に砂金をばらまかせたに過ぎぬ。さあ、参ろうぞ」
そう言い終えるなり、秀衡は牛若の腕を引き、一目散に目的の輿を目指す。
三郎は呆気に取られていた。
「砂金って、そんな気軽にばらまけるものなのか……?」
「聞いたこともございませんわ」
郷御前も圧倒されている。
鷲尾は素直に目を輝かせていた。
「黄金の都って、本当に黄金なんだな」
「そのようだな」
駿河は心から感心した顔で深くうなずいている。
喜三太は輿の前で手を合わせていた。
「この喜三太、悪の王者などと申しておりましたが、黄金の前ではただの塵にございます」
「意味が分からねえよ」
三郎が呆れた声を出すと、皆が笑い出す。
(――大丈夫か、秀衡……)
弁慶は薄ら寒くなってきた。
この歓迎の仕方は異常だ。あまりにも過剰だ。
だが、ここまでされると――牛若が捕縛されたり誅殺されたりする心配はなさそうだ。
(これは喜ぶべきなのか――いや、喜ばねばならんな。不気味ではあるが……)
弁慶は苦笑しながら、なんとか巨躯が収まる豪華な輿にそっと乗り込むのだった。




