第七十九話 奥州の関所
安宅の関を越えてから、かなりの日数が過ぎていた。
山道を進み、里を避け、時には小さな集落の外れで夜を明かしながら、一行は東へ東へと歩き続けていた。
安宅の関所で、弁慶は家来でありながら主君の牛若を杖で打ち据えた。その後牛若はそれを笑って許してくれた。弁慶が思ったよりも、牛若の心の傷は不思議と浅かったようで、あれからも微笑が絶えることはない。
奥州が近づいてきたので、牛若と喜三太はまた服を交換した。弁慶が郷御前に服を念入りに清めさせた。喜三太の惜しそうな顔が癪にさわる。
はるか前のことだが、あの頼朝に加勢するために牛若たちが奥州を出て黄瀬川まで向かった時は、奥州の中でも南の方を進んでいた。今は北陸からの道を通っているので、あの時とは異なる場所から奥州へ入ることになりそうだ。それでも周りの景色の様子から、なんとなく奥州平泉が近づいてきているような気配はあった。
鎌倉の乾いた理が行き届いていない、ゆりかごのような黄金の国。それは、牛若が一番幸せだった場所でもある。
「あのじいさんの国、そろそろ見えてくるんじゃないですかね」
三郎が笑顔で言うと、牛若はほころんだ顔で空を見た。
「秀衡さまは、元気だろうか――」
「あれだけ豪華なところですし、絶対元気に決まっていますよ!」
三郎は力強く答えた。それから鷲尾たちへ向き直る。
「平泉って、ほんとすごいんだぞ。あっちの方が本当の都って感じがする。黄金の建物だってあったし、食べ物もおいしい。都の方が相当落ちぶれているしな。それでも鎌倉のまずい飯よりはましだったが」
「黄金の都、楽しみだな!」
鷲尾は目を輝かせている。
「平泉が豊かというのは聞き及んでおりますわ」
郷御前は少し考え込むような仕草をする。
「しかしながら、中にいるのは獣のような者たち、という怪しい噂ぐらいしか覚えがございませんの。されど、少年の義経さまを愛情深く育ててくださった方の国ですものね」
「そうだな」
駿河も口を開く。
「正直なところ、俺が鎌倉で務めていた時も、悪口しか聞いたことがないが。九郎さまをお育て申し上げた方の国なら、おそらく大丈夫だろう」
「はい」
喜三太はにこやかに笑って口を挟んだ。
「都よりも西の武士であったそれがしの界隈では、奥州は確かに蔑む者が多くはございました。しかしながら、都付近の者からすると、鎌倉も奥州も下品な田舎者という点ではさほど変わりませぬ。ははは」
「まあ、河越の私を馬鹿になさいますのね」
郷御前が冷徹な表情で喜三太を見ると、喜三太は恐縮している。
「されど、仕方ありませんわ。実際、下品なことばかり繰り返しておられるのは鎌倉側ですものね」
「いえいえ、郷御前さまをそのように悪しく申したわけではございませぬ」
「まあ、飯がうまいならいいな」
鷲尾は待ち遠しそうな顔をしている。
「そろそろちゃんとしたものを食べたい」
「平泉なら食べられるぞ」
三郎は得意げだった。
「牛若さまも、あそこにいた頃はずっと元気だったんだ」
それが聞こえた様子の牛若は、少し照れたように微笑んでいた。
「早く会いたいな」
その声には影一つない。
(――すっかり信じきっている……)
弁慶は無言で歩き続けた。
この者たちは、郷御前でさえも、藤原秀衡が昔の牛若を何年も庇護したという事実だけで、秀衡のことをすっかり信じきってしまっている。
だが、もう流れは変わった。
法皇も頼朝に迫られて、義経追討の院宣を出しているはずだ。国を挙げて追われている牛若を匿えば、朝敵として、朝廷と日の本すべての武士を敵に回すことになる。
いかに大軍を持つ藤原氏であっても、あらゆる相手が敵として襲いかかってくれば必ず負ける。
黄金の平泉は焼け落ちて灰になり、藤原氏は滅びる。それは避けられないことだ。
したがって、秀衡が牛若を受け入れるはずがない。
(――法皇のことを思い出せばよい)
法皇を思い出せばよい。あれだけ牛若のことを愛し、しつこく抱きついて涙まで流していようとも、あの老人は牛若一人を守るためだけに、朝廷を賭けて朝廷を滅ぼす勇気は持てなかったのだ。それは当たり前のことだった。
秀衡も同じこと。
国境らしき場所までたどり着いても、秀衡は現れもしないのではないか。警備する兵たちにいきなり取り囲まれ、捕らえられて追放されるならまだ理想の範疇だ。おそらく、そのまま捕縛されて罪人のように鎌倉へ送られるか、その場で誅殺をはかられるにちがいない。
奥州藤原氏は源氏と深い関係を過去に持っていたが、平家が滅んだ今となっては、頼朝にとって大きな脅威でもあるだろう。頼朝に牙を剥かれないよう、牛若を差し出して機嫌を取ろうとするかもしれない。もし牛若の首、つまり命自体に恩賞がかけられているなら、その場で殺そうとするだろう。
三郎たちは――郷御前でさえも、誰一人そのことに思いが至らないのだ。
牛若も秀衡を完全に信じきっている。
確かに秀衡は頼朝とは違う。秀衡は牛若に惜しみない愛情と笑顔しか見せなかった老人なのだから。
だからこそ、それに裏切られた時、牛若はもう立ち上がれないにちがいない。
もうこの世に牛若を抱き止められる者は残っていないのだ――弁慶以外に。
明け方、ようやく国境らしき関所が見えてきた。
安宅の関よりもきれいな関所だ。兵たちが警備している。弁慶の身体は奇妙に昂った。さっと前に進み出る。
「それがしがかけ合います」
弁慶はそのまま早足になり先頭を進んだ。
「お頼み申す!」
弁慶は力強く声を張り上げた。警備の中に、富樫や景時のような帳面の似合う男は見当たらない。責任者らしい中年の穏やかな顔つきの男がこちらへやってくる。おそらく彼が関守だ。
「うむ、山伏のご一行――もしかして、義経さまご一行ではございませぬか!」
いきなり正体が露見し、弁慶は吹き出しそうになった。
「――はい、帰ってまいりました」
突如弁慶の前へ進み出た牛若が、透き通った声を響かせた。
牛若がこのように自分から進み出て何かを言うことは長らくなかった。よほど平泉が楽しみなのだろう。
弁慶はこれから起きるであろうことを思うと、胸の奥に熱い痛みを感じた。
「あなたさまが義経さまにございますね!」
関守は山伏姿の牛若の正体がすぐに分かったらしい。
「お待ち申し上げておりました! もしかして、義経さまたちが奥州にお帰りになるのではないかと、お話を聞いておりました次第でして!」
元気な声で叫ぶ関守は、初対面であろう牛若に対して、やけにうれしそうな声を弾ませる。
「すぐに報せの者を向かわせますゆえ、この場でお待ちください!」
牛若は首を傾げた。
「ここで、待てと……?」
「えっ」
三郎が声を上げる。
「このまま通してくれないのかよ」
関守は明るく答えた。
「はい。秀衡さまより、義経さまご一行がもし参ったら心から歓迎するゆえ、そのまま通さずにお待たせするようにと仰せつかっております」
「へえ、なんでだろうな」
三郎は首を傾げている。
「警備が厳しくなったのかもしれませんわ」
郷御前が静かに言った。
駿河は眉を寄せている。
「……大丈夫だろうか」
「まあ疲れてきていたし、いったん休めばいいや」
鷲尾の声は一番能天気だった。
(信じきっておる……)
秀衡が、この関所をこのまま通させるわけがない。
そんなことをすれば、鎌倉と朝廷への明確な宣戦布告になるからだ。牛若一行を捕らえるのも殺すのも、この関所内で完了させる心づもりにちがいない。
だが、今すぐ襲いかかってくる様子はなかった。
「あの……義経さまは、たいへんお疲れでございます」
喜三太が無遠慮に進み出て、にこやかな声を響かせた。うまく交渉して、このまま関所を通ろうと気を利かせたつもりなのかもしれない。
(下男姿に戻ったくせに、また出しゃばりおって)
「もちろん存じております!」
関守は強くうなずいた。
「すぐ後ろに小さな館がございますゆえ、そちらでお待ちを!」
(なるほど……館に閉じ込めるか、そこで殺す気か)
予想よりも妙に遠回りの対応で、弁慶の喉の奥がむず痒くなる。
意を決して口を開いた。
「我々はその館で待たされ、どうなるのであろう?」
言い方が露骨すぎたかもしれない。内々に処置を言い含められているのであれば顔色を変えるはずだ。だが、関守はにこやかな表情のままだった。
「ご安心ください! おそらく秀衡さまが直々にお迎えに参るものかと思われます! そのままごゆっくりとお待ちください」
「承知いたした」
(秀衡が、直々に来るだと……?)
嘘かもしれない。自分を信頼しきっていた相手が捕らえられたり殺されたりする様子をわざわざ眺めに来るほどの度胸が、あの老人にあるとは思えない。
だが、この関守や周りの者たちからはまだ策謀の匂いがしない。秀衡は関守にはまだ何も言い含めていないのかもしれない。
(まあよい。襲われたらこちらが牛若さまを守るまでのこと)
その時、牛若の心はすべてを失い絶望の底へ落ちる。それを受け止める人間はもういない――弁慶を除いて。
「歓迎されてるじゃねえか」
三郎は単純に喜んでいる。牛若もずっと笑顔のままだ。
一行はそのまま館に通された。
関守たちの寝泊まりのためだけに設けられたような小さな館で、今は牛若一行だけがそこにいる。縁側に座って時を過ごすことにした。
牛若は目を輝かせたまま空を仰いでいる。それを郷御前は静かに見つめていた。
三郎は鷲尾、駿河、喜三太に、平泉の自慢話をまるで自分の国であるかのように聞かせている。
しばらくすると、関守がまた現れた。
「今は明け方ですが、到着までかなりかかりますゆえ、奥の湯殿もお使いください! 粗末な食事しかございませぬが、すぐにご用意いたします!」
(湯殿で殺す気か? 食事で毒殺する気か?)
疑えばきりがないが、そんなことをしなくても今すぐ殺せば済むことではある。弁慶は引き続き相手に乗ってやることにした。
湯殿は皆が交代で見張ればよい。さすがに湯殿で襲われて死ぬのはおそろしい。牛若がそんなところで襲われる姿は――想像したくもない。
「それはありがたい!」
元気よく答える三郎は単純に喜んでいる。
あいにく着替えの用意はないとのことで、弁慶たちは順に湯殿に入って身体だけを清めた。
すぐに食事も出てきた。「粗末」などと言っていたが、鎌倉などよりはずっとよい食事だった。
鎌倉よりずっと味の繊細な強飯、山鳥を炙ったもの、川魚の干物、青菜の汁、塩気のある漬物、山の木の実を少し。秀衡の館ではないので、贅を尽くした食事ではない。だが、鎌倉の固すぎて歯が壊れそうな味気のない強飯などとは全く違う。噛むほどに米の香りがあり、汁には山の風味もあった。
三郎は強飯を口に入れた瞬間、目を輝かせた。
「強飯でも、これはおいしいんだよ。奥州の飯は、噛めばちゃんと味がするんだ」
鷲尾も川魚を見てうなずいた。
「これ、うまいな。干してあるのに全然臭くない」
駿河は椀を静かに見ている。
「荒れた都の食事よりも良いかもしれぬ」
喜三太は山鳥を噛みながら笑った。
「これで粗末というなら、この喜三太、毎日粗末で構いませぬ」
郷御前は少しだけ口元を緩めていた。
「皆さま、食事で機嫌が直りすぎですわ」
三郎が笑い出す。
「だって飯がうまいんだぞ。これだけで、あのじいさんは信用できる」
「あなたさまの信頼は腹から始まりますのね」
「郷御前だってうまそうに食べているじゃねえか」
「黙ってお食べなさいませ」
牛若は皆のやり取りを見て、穏やかに笑っている。
「早く秀衡さまに会いたい」
その清らかなつぶやきを、三郎たちはうれしそうに微笑みながら見つめる。
弁慶は食事に手をつけながらも、周囲の物音を聞いていた。
いまのところ、外に殺気はない。それがかえって不気味だった。
食事を終えた三郎たちがくつろいでいるうちに、夕方になった。
三郎は何度も外を見ている。
「まだかな」
「秀衡殿の館からは遠いのだろう」
駿河が静かに答える。待ちくたびれて、鷲尾と喜三太は寝てしまっている。
鷲尾は柱にもたれ、喜三太は荷を枕にしていた。喜三太の寝顔が妙に満ち足りているのが癪にさわる。
郷御前は冷徹な目で起きたまま、縁側に腰掛けて遠くを見つめる牛若をじっと見守っている。牛若の横顔は、今までの怯えたり不安そうだったりしていた時とはまるで違う。心から安心した表情だった。
秀衡という名が、牛若の中に灯をともしている。
弁慶は胸の奥が苦しくなる。その灯が踏みにじられた時、牛若はどうなるのか。
その時は自分が抱き止めるしかない。
弁慶は何度も、心の中でそう繰り返した。
その時、遠くから大勢の馬の音が聞こえてきた。
三郎が最初に反応した。
「馬の音だ!」
鷲尾と喜三太が飛び起きた。
「おお!」
「ついにか!」
「じいさんたちが来てくれたんだ!」
三郎のあまりにもうれしそうな声を聞いていると痛々しい。
郷御前は「そうですわね」と静かに言ったが、彼女でさえ微笑を隠せずにいるようだった。
「秀衡さま……!」
大声を出した男たちに混じって、牛若の歓喜の声は風の中へ吸い込まれそうだった。感慨深すぎて、大きな声が出せずにいるらしい。
次の瞬間、牛若は縁側から飛び出そうとした。弁慶はとっさにそれを止める。
「牛若さま、はやるお気持ちは分かりますが、久々の再会ですから、皆と一緒に参りましょう」
牛若は素直にうなずいた。
「分かった」
三郎たちはすぐに支度をし、郷御前は皆の服装の乱れを確認する。
皆はいよいよ館を出ようとしていた。
(本当に来たのか? 捕縛か? 誅殺か?)
門をくぐろうとする弁慶の心臓は、破裂しそうなぐらい、どきどきと高鳴っていた。




