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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第七十八話 杖の心

 今この場で戦うのは危険が大きすぎる。背筋を嫌な汗が流れていった。


 牛若は怯えた目で弁慶を見つめている。


 弁慶は腹を決めた。


「おのれ!」


 突如弁慶は牛若を突き飛ばした。三郎たちが喉の奥で悲鳴を上げるのが聞こえた。


「この強力(ごうりき)め!」


 牛若が頼りなくよろめき、その場にひざまずく。そのまま土の上に手をついた。


「我ら一人前の山伏の足元にも及ばぬ、ただの召使いのお前のせいで、このような要らぬ迷惑をかけおって!」


 牛若は何が起きているか分かっていないだろう。ただ怯えきっているのが弁慶には分かった。哀れでたまらない。


「べ、べんけ……」


 か細いつぶやきが震えている。弁慶が本当に怒ったと思っているのだ。


「ええい、お前など!」


 弁慶は金剛杖を振り上げた。そのまま牛若の背中を容赦なく打ちすえる。


 牛若は痛みに背中を震わせながら、目に涙を浮かべていた。


「べんけ……」


 その声を聞くと、弁慶は胸をかきむしりたくなる。


「お前など、こうしてくれるわ!」


 あちこちで悲鳴が上がった気がするが、周りの人間が自分をどう見ているかなど今の弁慶には関係なかった。ただそれが任務であるかのように、牛若の背中を打ち据え続ける。


 牛若はこれがはかりごとだと分かっていないだろう。牛若が自刃しかけた時でさえ、弁慶はこんな怒声を上げはしなかった。弁慶がここまで怖い声で牛若に怒鳴ったことはなかったはずだ。


 牛若の目から涙がぽろぽろ落ちるのが見える。肩が無様に揺れ、痛みに表情が歪んでいく。


「べんけ……!」


 そのか細い哀れな悲鳴に、弁慶の身体は歪な昂りを見せた。心臓がどくどくと脈打ち、息が上がってくる。杖を止めるわけにはいかない。


 弁慶はさらに打ち据え続けた。牛若を守るために打っている。それは本当だ。


 だが、怯えた目でこちらを見上げ、身をすくめて涙をこぼす天界の稚児を見下ろしながら、弁慶の息の乱れはひどくなっていった。罪悪感が胸を刺すのと同時に、それとは別の熱が沈んでいく場所が弁慶の体内にある。弁慶はその熱に気づき、さらに自らを恥じた。


「べんけ……っ!」


 牛若の哀れな悲鳴を受けても、杖を止めはしない。牛若を守るためだ。牛若の命を守るためだ。弁慶はそう自分に言い聞かせながら主君を打ち据え続けた。


 弁慶は必死に牛若を打ち据えながら、富樫を横目で見た。富樫の視線は弁慶にではなく、哀れな牛若に吸い寄せられていた。それでも弁慶は止めなかった。


 息苦しくてたまらない。見ると富樫はぞっとしたような目で弁慶を見ていた。目が合った瞬間、相手は妙に怯えた表情になった――まるで弁慶の顔が異常であるかのように。


「山伏殿、待たれよ! お頼み申し上げる!」


 慌てた様子の富樫が叫んでいる。


 弁慶は止まらない。止めるわけにはいかない。牛若の涙をじっと見つめながら打ち据え続ける。


 富樫がにじり寄ってきた。


「とにかく待たれよ! その杖をお止めなされよ!」


 富樫は涙声になっていた。弁慶はようやく杖を打つ手を止めた。


「――そなたの心はよう分かった。この富樫、ようそなたの深い心がけは理解したつもりである」


 富樫の声は涙で震え出していた。


「山伏殿、心からお願い申し上げる。何卒、その強力殿から離れて下され。その杖を収めて下され。この富樫に免じて、頼みますぞ……!」


 富樫は大粒の涙を浮かべていた。牛若のことを「強力殿」と敬うように呼んでいる。弁慶は牛若の背から杖を離し、富樫の目をじっと見据えた。


「――ご理解頂けたか」


 弁慶は低い声を響かせたつもりだった。だがその声は奇妙に掠れていた。


「ああ、しかと理解いたした。まことに申し訳なかった」


 富樫は牛若へ向き直った。


「強力殿――顔をお上げくださいませ。あなたさまのことをお疑い申し上げたことは、この富樫、一生の不覚にございます。どうか、この愚かな富樫をお許し下され。このまま無事、旅をお続けになるのがよろしいでしょう。強力殿の幸運を、それがしは心からお祈り申し上げておりまする」


 牛若は涙でいっぱいのまま、深々と頭を下げた。遠慮がちに口を開く。


「ありがたき、幸せに存じます……」


 富樫はその顔に釘付けになっているようだった。


 弁慶は、牛若のその痛ましい声を富樫にこれ以上聞かせまいと、すぐに声を挟んだ。


「ありがたき幸せにござる」


 喜三太も頭を下げる。


「ありがたき幸せにございます!」


 続いて郷御前も「ありがたき幸せですわ」と力強く言うと、三郎たちも一緒に頭を下げた。


 富樫は深々と頭を下げていた。


「――さあ、この富樫の守る安宅の関所、皆さまは堂々と通られるがよろしいでしょう」


 そう言ってそのまま兵たちの方へ向き直った。


「者ども、道を空けよ!」


 兵たちが道を空ける。


 皆が歩き出そうと一歩踏み出す。気づけば、皆の目にうっすらと涙が浮かんでいた。喜三太さえも目を潤ませている。それが嘘泣きでなさそうなのが癪にさわる。まるで弁慶が悪いかのようだ。


 弁慶は牛若をそっと助け起こした。牛若はなんとか立ち上がる。まだ涙が残っていて、足取りはぎこちなかったが、それでも歩き出した。


 全員が歩みを進める。


 富樫は、強力姿の牛若に何度も深々と頭を下げていた。


「強力殿、どうかご無事で……!」


 三郎が「強力って、『殿』なんて普通つけるのか?」、と怪訝そうな声を出している。


「九郎さまと、実は気づいているのでは」


 駿河が低い声で返すと、三郎は言葉を失った様子だ。


「どちらにしても通れてよかったな」


 鷲尾はうれしそうにつぶやく。


 弁慶は何も声に出せずにいた。胸の中がぐちゃぐちゃだった。


 見ると、郷御前が冷徹な目で弁慶を見据えている。


 一行は関所から十分に離れた。とうとう耐えきれなくなった弁慶は、牛若の前にどんと膝をついた。


「牛若さま……誠に申し訳ありませぬ……! 先ほどの無礼、何卒お許しください」


 牛若の顔にはまだ先ほどの怯えが残っていた。目が赤い。


「牛若さまをお守りするためとはいえ、家来として、あってはならぬことをいたしました……! 誠に、誠に申し訳ありませぬ……!」


 弁慶の目から涙が溢れた。まるでこれでは喜三太の嘘泣きみたいではないか。そう思う自分がいる。


「――弁慶、泣かないでくれ」


 牛若の声はひどく優しかった。


「私は弁慶が……そなたが本当に私に怒ったのかと……。哀しくてたまらなかったが――あれは、私を守るためだったのだな」


 やはり、天界の稚児は計略など理解していなかった。牛若の心はあまりにも清らかだった。


 牛若は弁慶の肩へそっと触れた。弁慶は胸がいっぱいになり、何も言えなくなった。牛若がそっと離れた後も、肩にはその感触が残り続けた。


 一行は再び歩き始めた。


 少し進むうちに、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。


「通れてよかったけどよ……弁慶、あの計略は俺、死にそうな思いだったぜ……」


 三郎はつらそうに息を吐いた。


「牛若さまと都にいた時は、あんな哀しい思いをするなんて夢にも思ってなかったぜ……」


 三郎はまた涙ぐんでいた。


「義経さま、本当に泣いてたもんな……」


 鷲尾も顔の強ばりが残っている。


「褒められたものではないが――」


 駿河が静かにつぶやく。


「こうして捕まらず生きて通れたのだから、弁慶の機転に感謝すべきではある。九郎さまはお気の毒だが……」


「はい」


 喜三太も神妙な顔をしている。


「義経さまはあまりにもおかわいそうでしたが……弁慶殿の機転、悪の王者のそれがしも感服いたしました」


(ふん)


 弁慶は心の中で吐き捨てた。まるでこの自分が悪の帝王であるかのような言い草だ。


 牛若の顔が、ようやく穏やかな微笑に戻っている。弁慶はそれを、ほっとしながら眺めていた。


 そのまましばらく歩き続けると、喜三太が「いったん一休みいたしましょうか」と申し出た。皆がうなずく。


 そばに岩場があった。皆がそこで腰を下ろす。


「――弁慶殿、ちょっとこちらへ」


 郷御前の鋭い声だった。


「みなさまはそのままお待ちくださいませ」


「何だ?」


 弁慶は不機嫌に返すが、郷御前に促され、共に草むらへ入っていく。牛若は首を傾げながらこちらを見送っていた。


 郷御前は、少し離れたところで足を止めた。


「――弁慶殿。あなたさまは義経さまを打ち据えながら、鼻息を荒くしておられましたわね」


「なんだと」


 またそうやって、他人の様子を捻じ曲げて解釈している。この女のいつもの癖でしかない。


「言いがかりにもほどがある」


「私にはお見通しですのよ。気持ちの悪い化け物ですこと」


「……なんでもしつこく捻じ曲げおって」


 弁慶はいまいましく吐き捨てると、さっと踵を返した。後ろから郷御前の言葉は返ってこなかった。


 牛若は微笑みながら迎えてくれる。


「弁慶、どうした」


「何でもございません」


 弁慶はすぐに頭を下げる。


 郷御前が横から笑顔で口を開いた。


「ええ。本当に、何でもございませんわ」


 そう口で言いながら、目だけは弁慶の方を睨み据えている。


 弁慶はさっと睨み返すと、すぐに牛若の優しい微笑へと視線を移すことにした。

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