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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第七十七話 安宅の関

 木々の向こうに、安宅の関が見えてきた。


 牛若は喜三太の小袖を身につけている。法衣は喜三太が着ていた。郷御前が手拭いで念入りに拭き、匂い草で整えたとはいえ、弁慶にはどうにも耐えがたい。


 牛若は下男姿のまま、静かに歩き続けている。山伏になれない半人前、召使いの強力(ごうりき)として扱うことになっている。郷御前に持たされた一番軽い荷を背負い、目を伏せるよう心がけている。


 郷御前は牛若のすぐ前を進んでいた。三郎と鷲尾、駿河はそれを囲むようにし、喜三太は胸を張っている。


 三郎が声をひそめた。


「ずっと見られてるな……」


 関所の前には、大勢の兵がいた。通る者を見定める目が、こちらへ向いている。


「顔に出すな。山伏に見えるよう自然に歩け」


 弁慶も抑えた声で答えた。


「それがしも活躍させていただく所存にございます」


 喜三太が自信ありげに言ってきたので、弁慶は「余計なことはするな」と吐き捨てた。


「三郎たちも、余計なことは喋るな」


 弁慶がそう言って釘を刺すと、三郎たちは「分かった」と力強くうなずいた。




 一行は静かに関所の前にたどり着いた。


 正面に立つ男がこちらを鋭い目で見る。規則と手続きを重んじる武士の目だ。


「怪しき山伏の一行であるな」


 男が口を開いた。弁慶は前に進み出る。


「関守の方にお頼み申し上げる」


「わしが関守の富樫(とがし)じゃ」


 富樫は一行の一人一人をじろじろと見比べていく。


「いかにも怪しげな者たちであるな」


「……あいつ、帳面じじいに似てねえか」


 三郎が鷲尾の耳元で言うのが微かに聞こえた。鷲尾も「ほんとだ」とうなずき、駿河も「ああ」と同調している。弁慶は咳払いをした。


(景時のような男は理屈でしか動くまい)


「怪しい者ではござらぬ」


 弁慶は白々しい言葉を返しながら富樫を見据えた。


「ふふ、怪しい者が『はい、我らは怪しい者でございます』などと申すわけがなかろう」


 富樫の声には余裕がある。弁慶は深く息を吸い込むと、喜三太の作り話を頭の中で噛み締めた。


「我ら山伏一行は、先の平家の横暴にて焼け落ちた東大寺の大仏の再建を求め、諸国を巡り寄進を集めているところである」


 落ち着いた口調を心がけた。また喜三太がべらべら喋るのは癪にさわる。ここは自分の機転だけで突破したいものだ。


 郷御前も進み出た。


「私は東大寺別当の姪でありまして、勧進の使者として随行しております」


 後ろの喜三太が満足そうに微笑むのが見えた。


 富樫は鼻で笑ってみせた。


「白々しいことを申すでない。九郎判官義経殿が山伏の姿に化け、東を目指しているとの知らせは、とっくに届いておる」


「これは心外な。我らは紛れもなく本物の山伏である」


「私も本物の使者にございますわ」


 郷御前も凛とした声で援護してくる。


「ははは」、と富樫は無遠慮に笑い出した。


「どこの人間が『はい、私は偽物でございます』などと申すか。何の証にもならぬ」


 弁慶は富樫に向き直った。


「本物が本物であることを証明するのは、我らが本物であるというただ一点のみで十分である」


「黙らっしゃい!」


 弁慶が強引に言ってのけると、富樫は一喝してきた。なるほど、これはかなり手強そうだ。


「まことに大仏再建の寄進集めを行う山伏一行なのであれば、勧進帳を持っているはずであろう」


 勧進帳――言われてみれば、そのような寄進集めの証を持っていないとおかしい。どうするか弁慶が考えを巡らせていると、「はい」と喜三太が無遠慮に口を挟んでくる。


「吉凶の占い判断を示す、勘状(かんじょう)でございましょうか? はて、我ら山伏にそのような占いの風習はございませぬが」


(ふん、わざと聞き違えおったな。大胆不敵な奴め)


 弁慶は横目で喜三太を見てほくそ笑んだ。


「勘状じゃと? 占い判断の文の話などしておらぬ。わしが申しておるのは、勧進帳じゃ」


「なるほど、灌頂(かんじょう)、密教の儀式でございますね」


 喜三太、神仏に関する知識がやけにあるようだった。神仏をもおそれぬ回数の裏切りを繰り返した男のはずだが、随分奇妙なものだ。


「確かに我ら山伏は密教からさほど遠くはございませぬが、今ここで行える儀式などが果たしてありますかな」


「訳の分からぬことを申すな。何度言えば分かる。勧進帳である!」


 声を荒げる富樫をよそに、三郎と鷲尾は笑いをこらえている。駿河まで口元がほころびそうになっている。弁慶は再度咳払いをして制した。


(ただの時間稼ぎだ。こんな姑息な悪党に手伝われてたまるか)


 弁慶は喜三太の方を見ないようにして、次の手段を考えてみる。


「どうされた。勧進帳を出されるがよい」


 厳しい声が響くと、弁慶は腹を決めた。


 ここからは、自らの手で牛若を守ってみせる。


「勧進帳であるな。もちろん持っている。しばし待たれよ」


 弁慶は後ろに下がり、郷御前の荷へ手を伸ばした。


 郷御前は弁慶の目をじっと見つめる。何かを察したようだった。


「はい、こちらでございますわ」


 郷御前が渡してきたのは、数枚の包み紙だった。勧進帳でも何でもない。


 弁慶はそれを無造作に受け取り、富樫の前へ戻った。


「これが、勧進帳である」


「早速こちらに読ませて頂こう」


「控えられよ、富樫殿!」


「なぬ」


 弁慶が突如大声を出すと、三郎たちも目を丸くしていた。


「この勧進帳は神聖なる文。我らのように確かな修行を積んだ者しか近寄ってはならぬ」


 富樫は一瞬、言葉に詰まった。


「む……そうか――神聖なる文であるならば、近寄ってはならぬの」


 そのまま頭を下げてみせる。だが、富樫はすぐ顔を上げた。


「しかしながら、まことの勧進帳であるならば、今この場で読み聞かせて頂こう。読み聞かせることさえ叶わぬとあれば、勧進帳の意味がなかろう。したがって、やはり偽物ということになろう」


 弁慶は包み紙を握りしめた。数枚ある。当然ながら白紙だが、何かを包んでいた折り目が残っているものもある。弁慶はまず一番綺麗な紙を選び、さも尊いものを扱うような手つきで開いた。


「まず――」


 弁慶は包み紙に目を落とし、深く息を吸い込んだ。


「――かつて聖武天皇は、最愛の妃を失った悲しみを仏道へお向けになり、すべての人々の菩提を願って廬舎那仏(るしゃなぶつ)を建立なさった」


 富樫がこちらを見据えながらじっと聞いているのを確認すると、弁慶はさらに声を張り上げる。


「しかしながら平家の兵火(へいか)により、東大寺は焼け落ちてしまった。これを嘆いた重源(ちょうげん)は勅命を受け、貴き者にも卑しき者にも、僧にも俗人にも呼びかけ、東大寺とその大仏を再建するため、諸国で寄進を願っている次第である」


 比叡山で修めた学問が少しは役に立つ。ここまで一度に嘘を口に出し続けるのは初めてのことだ。弁慶は次の紙へ持ち替える。


「たとえ一紙半銭(いっしはんせん)ほどの施しであっても、その志には現世にも来世にも大きな功徳があることだろう。仏に帰依(きえ)し、慎んで申し上げる」


「ううう……」


 妙な声が聞こえた。見ると、喜三太の目から涙がぼろぼろとこぼれ落ちていた。一体何事であろう。


「この勧進の志……まこと尊きものにございます……! あの焼け落ちた大仏の痛ましいお姿を……この目で拝見したからこそ……!」


 おそろしい大泣きだ。あの土佐坊もここまでひどい泣き方はしなかった。悪の王者の涙、おそるべし。


 富樫の周囲の兵たちがざわめく。


(この男の嘘泣きは、一体どこで習得したのであろう。これは比叡山の生臭坊主も負けるであろうな)


 弁慶は包み紙を閉じた。喜三太の嗚咽の音がうるさい。


「以上にございます」


 富樫へ向き直った。


「我ら、一刻も早く寄進集めを貫徹せねばなりませぬ」


 弁慶が低い声を響かせると、郷御前もすかさず頭を下げた。


「この安宅の関所を、何卒お通し願いますわ」


 見ると富樫は、喜三太の涙に圧倒され息を呑んでいるようだった。


「……なるほど。確かにその尊き内容は、まことの勧進帳であるようだな。疑う道理はあるまい」


 富樫は一行を見渡した。


「――どうぞ、この関所を通られよ」


「ありがたき幸せ」


「ありがたき幸せにございます」


 弁慶と郷御前が頭を下げると、牛若も含めた全員が頭を下げる。


 後ろで三郎が小さく息を吐いた。鷲尾と駿河も肩の力を抜いている。喜三太は嗚咽を少しずつ終わらせようとしているようだった。


 自然に見えるよう努めながら一行は歩みを進める。


 下男姿の牛若も、弁慶と共に関所を通り過ぎようとした。喜三太に言われた通りに目を伏せている。草鞋の音は静かだった。


「――待たれよ!」


 その場に鋭い緊張が走った。


「なんと」


 弁慶は振り返った。心臓の鼓動が速くなる。


「なにゆえにござるか」


 郷御前も牛若を隠すように進み出た。


「お許しを頂けましたのに、このまま通ってはいけませんの?」


 だが富樫は二人をよそに、牛若だけを見つめていた。


「そちらの御仁、明らかに普通の下男ではない。この富樫の目は誤魔化せぬぞ」


「なんと異なことを」


 弁慶は堂々とした声を出した。


「こちらは我らに付き従う、召使の強力にすぎませぬ」


「はい!」


 同調する喜三太も一歩進み出る。


「こちらの者は山伏を名乗るなどまだまだ先のこと。普通でないとはまさにその通り。さすが富樫さまのお目は高いですな。誠に畏れ入りまする」


 露骨な追従まで入れているが、富樫は構わず一気に牛若へ歩み寄った。


「いやいや。こちらのお方は、我ら下々の者とはまるで違う美しき気品が漂っておられる。寄進集めに従う強力などという身分には全く見えぬではないか。――もしやそれこそ、九郎判官義経殿では」


(大変なことになった……)


 うつむいている牛若は、明らかに動揺しているのが弁慶にも分かる。これは今すぐ長刀を取り出して戦うべきか。だが相手は大勢、全員が武器をとるのが間に合うか分からない。それに牛若は丸腰だ。


「さあ、お声をお聞かせ下され。我が家来の中に、義経殿のお声を鎌倉で聞いたことがある者がおりますゆえ」


 牛若は立ち尽くしたまま弁慶を見つめた。どうしたらよいか分からず怯えているにちがいない。


 富樫は牛若をじっと見据えている。


「さあ、白状なさるがよい。あなたさまは義経殿でいらっしゃるな」


 郷御前が前へ出ようとした。


「おやめ下さいませ」


 声が揺れていたが、それでも努めて冷静に見せている。喜三太もまさか下男姿の牛若を富樫が直接疑うとは思っていなかったのか、口をもごもごさせている。どんな嘘を言えば切り抜けられるか思いつけずにいるようだ。


「富樫殿、無礼でござろう」


 弁慶はただ厳しく言い放つことしかできなかった。


「それ以上話されるのは慎まれよ」


「この富樫の目を侮りなさるな」


 富樫は一歩も引かず、怯える牛若へにじり寄る。


「さあ、お声をお聞かせください」


(どうすればよい……)


 弁慶は心臓が破裂しそうになりながら、必死に知恵を絞っていた。

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