第七十六話 亀の前
喜三太が加わった一行は、北陸の山道をさらに東へ進み続けていた。
喜三太だけは山の民の姿だ。粗末な小袖のままで、今は荷を背負っている。山道を行く山伏一行としては、下男が一人混じっている方が、かえって自然にも見えた。
(不潔な男ではあるが、それなりに役に立つ)
弁慶は喜三太の背中を見ながら、心の中で吐き捨てた。もっとも、鎌倉の巨悪に比べれば、この男の裏切り歴など、今さら気にするのが面倒ではある。
懐かしい者が加わったからか、牛若の表情は目に見えて明るくなった。時折、忠信や静御前、そして行家あたりのことを思い出しては寂しそうな表情をするだけだ。
最後に「兄上」といういまいましい言葉を口に出したのはいつだろう。そう思うと、胸の奥にわずかな甘さが生まれた。
細い道は木々の間を縫うように続いていた。雪はもうないが、湿った土が沓の裏にまとわりつく。
「――もし、そこの山伏さま方」
女の声がした。全員が足を止める。
道の脇に籠を背負った女が立っていた。籠には薬草のようなものを詰めている。山の女にしては立ち振る舞いに気品がある。
弁慶は前へ進み出る。
「こんな山道で、女一人とは珍しい」
警戒の意味も込めて、やや冷たい声で言った。
女は深く頭を下げた。
「私はただ薬を集めているだけにございますが――この先の安宅というところに、関所が設けられております。このまま進まれるのは危のうございます」
「我らはただの山伏ゆえ、何の問題もない」
弁慶は淡々と言う。そのような関所は確かに危険ではあるが、わざわざ言いに来るのは妙だ。
女は静かに顔を上げた。
「あなたさまも嘘がお下手でございますね。確かに皆さまは本物の山伏一行に見えぬこともございませぬ。しかしながら……」
言葉を続けながら、女は弁慶ではなく牛若の方へ視線を移した。
「そちらのお方はお顔に疲れが見え、山伏にしては品が漂いすぎておられます。さしずめ、近頃国を挙げて追われておられる、九郎判官義経さまではないでしょうか」
「なんだと……!」
三郎が先に声を出した。皆の呼吸に緊張が走る。
「ご安心を。民は義経さまの味方にございます」
女は構わず微笑んでいる。
(ふん、何を申す。見破っておるなら、斬り捨てるしかあるまい)
弁慶がそう思った次の瞬間、喜三太がさっと前へ進み出た。
「いえいえ、それは少々お見当違いにございます」
喜三太の声はにこやかで、妙に滑らかだった。弁慶の方を一瞬見てきたのも癪にさわる。
「こちらのお方は、先の平家の横暴にて焼け落ちた、東大寺の大仏を再建するため諸国を廻っておられる大勧進職、重源上人に弟子入りされた、さる貴族のご子息でいらっしゃいます。由緒あるお家柄ゆえ、山伏姿でも全身からの美しい気品を隠せぬのは当然のこと。まだ修行中の身でおられますゆえ」
(この男……よくもまあすらすらと大嘘が出てくるな)
皆が緊張した面持ちで様子を見守っている中、弁慶は喜三太の厚顔無恥な嘘つきぶりに感心していた。東大寺まわりのことに妙に詳しいのは西の武士だからだろう。
女は真剣な表情で話を聞いている。喜三太はさらに、すぐ横にいた郷御前を指し示した。
「そして、こちらのお方は東大寺別当の姪でいらっしゃり、勧進の使者として随行しておられます。女人の身でありながら、焼けた大仏の再建を願い、山伏一行に加わっておられる尊きお方。ゆえに、私のような粗末な者が、身を粉にしてお守り申し上げている次第にございます」
「この男の申す通りでございますわ」
突如大嘘に利用された郷御前は、一切顔色を変えずにそう言ってのけた。さも喜三太の言葉が当然の事実であるかのように、堂々と立っている。
なるほど、牛若から注意をそらすために郷御前を利用する、喜三太の巧みな策略はさすが悪の王者というだけはある。
女は郷御前の方を見ていた。確かにその佇まいは、東大寺別当の姪あたりにいそうな気位の高さと、いちいち他人のことを捻じ曲げて解釈する面倒極まりない迷惑な性格を持ち合わせているようにも見えることだろう。
「なるほど。これは失礼をいたしました」
随分納得した口調だった。喜三太の大嘘の嵐に圧倒されてしまったのかもしれない。
「さようであれば、関所を抜けるのも普段なら容易でございましょう。しかしながら、九郎判官義経さまご一行は山伏に化けていると全国に知らせが回っておりますゆえ、厳しく取り調べられる可能性が高うございます。何卒お気をつけなさいませ」
随分踏み込んだ忠告だ。確かに吉野山で、自分たちの山伏姿は生臭坊主たちに目撃されている。だが、今さら姿を変えようにも服の準備がないだろう。
喜三太が女へにじり寄る。
「やけにお詳しいですな」
にこやかに言いながらも、ほんの少しだけとげを滲ませているようだ。
「あちこちで薬草を集めていますと、いろいろな噂を耳にできますから」
女はそれだけ言った。
三郎がため息をついた。
「鎌倉もしつこいよな。こんな田舎まで関所を置くなんて」
そう言う口を駿河が押さえたが、女は妙に力強くうなずいた。
「――鎌倉殿は、大切なものを守れぬお方にございます」
口調に不思議な真剣さがある。やはりこの女、ただ薬を集める民ではあるまい。
「……あなたは鎌倉殿をご存じですの?」
郷御前が静かに問いかけた。
「――いいえ。ただの噂でございます」
噂だけではあるまい。弁慶はそう確信したが、さほど興味は持たなかった。
女は籠の紐を少し持ち直した。
「それから――山の道も長うございます。山火事にもお気をつけなさいませ。火は家を焼くだけではございませぬ」
「火事? あんたの家が?」
三郎が思わず聞き返すと、女は一瞬空を仰いだ。
「……今の私は、ただ薬草を集めて暮らす身にございます」
「そうか――身体を大事にしてくれ」
牛若が穏やかな声をかけると、女は恐縮したのか深々と頭を下げる。薬草の籠を背負い直し、来た道とは別の細い道へ入っていった。やがて、その姿は木々の向こうに消えた。
「……何だったんだ、あの人」
鷲尾が怪訝そうに首を傾げる。三郎も強くうなずいた。
「妙に事情を知っておりましたな。ただ薬草を集めている女ではありますまい」
喜三太が真面目な口調で言った。
「そう言えば」
駿河が思い出したように口を開く。
「以前、私が鎌倉殿にお仕えしていた時……亀の前という女人の噂を聞きました。鎌倉殿が寵愛した女で、正室の北条政子殿のお怒りを受け、屋敷を焼き払われたとか」
「それは、浮気したのが悪いだろ」
思わず口に出した三郎だったが、うっかり頼朝を批判したことに気づいたのか口をつぐんだ。
「頼朝さまって、美少年でもないくせに恋多き男なんだな」
三郎の配慮に気づかない鷲尾が妙なことを言うと、駿河と喜三太が乾いた笑い声を立て、三郎もつられて笑ってしまう。
「義経さまも恋多きお方でしたわね」
郷御前が自嘲するような笑顔で言う。ふと見ると、牛若は何も言わず微笑んでいた。あまり話の意味が分かっている様子ではないが、皆の笑う顔を見て明るくなったのかもしれない。
弁慶はその横顔を見つめていた。
(頼朝は牛若さまの中で、少しずつ遠くなっておるのかもしれぬ)
胸の奥が、かすかに甘く痺れた。
「――これから安宅か」
弁慶がさほどの意味もなくつぶやくと、喜三太が「さようで」と食いついてくる。
「いかがだったでしょうか、悪の王者であるそれがしの嘘は」
胸を張ってみせる喜三太がいまいましく、そのまま無視していると、鷲尾が「すごかったな」と単純に賞賛している。それに力を得たらしい喜三太は牛若と弁慶へ向かって頭を下げた。
「今回はなんとか騙せましたが、やはり義経さまの美しい気品を覆い隠すのは難しいかもしれませぬ。そこで――誠に申し上げにくいのですが……」
そこで喜三太は申し訳なさそうな、それでいて微妙に下卑た笑みを浮かべる。
(ろくな案ではあるまい)
苛立ちながら次の言葉を待つ。
「誠に畏れ入りますが、私が普通の山伏のふりをした方が良いかもしれませぬ。関守の武士の前で下男が遠慮なくべらべら喋るのは、あまりにも不自然に映りますゆえ」
「郷御前、山伏の法衣の余りはあったか?」
弁慶は喜三太を完全に無視して問いかけた。
「住吉の浜の時点ではもっとありましたが、食料など他の大事なものが入らないといけませんので、かさばる法衣は置いてきてしまいましたわ」
「とのことだが」
弁慶が面倒そうに喜三太へ言い捨てると、相手は「はい、したがいまして」と妙に胸を張っている。
「本当に、誠に畏れ入りますが、それがしの民の小袖と、義経さまの法衣を交換させていただければと。義経さまも、下男のふりをしておられれば疑われる可能性が減りましょう」
「なんと不潔なことを申す!」
「ひいっ!」
珍しく弁慶が大声を出したものだから、喜三太は無様にとび上がった。天界の稚児が今まで着ていた法衣をこの不潔な男が着て、この男の不潔な小袖を牛若が身につけるなど、万死に値する傲慢な申し出だ。
「お前、調子に乗るんじゃねえぞ。牛若さまの法衣をお前が着るなんて許さねえ!」
三郎まで顔を赤くして怒っている。
「いえいえっ、決して他意は……! お許しを! それがしはただ牛若さまを救いたいだけで」
「さっきのお前、にやりと笑ってたのを俺は見逃してねえからな!」
鷲尾まで参戦し、駿河も「なんと恥知らずな」と軽蔑の眼差しで睨んでいる。
突如の睨み合いに、牛若は困惑した表情を浮かべていた。
「皆さま、お静かになさいませ」
郷御前は冷徹な声を張り上げて一同を制した。
「たかが着るもののことで喧嘩を始める気ですの? 正気にお戻りなさいませ。皆さまの変なこだわりはよく分かりましたわ」
そう言うなり、郷御前はなぜか弁慶の方を鋭く睨む。いちいち不快な女だ。
「されど、喜三太殿の案は敵を欺くために大事なこと。ここはこの私が、義経さまの法衣と喜三太殿の小袖を水で濡らした手拭いにてお拭き申し上げ、匂い草で整えましたら、みなさんもご満足なさいますわね。さあ、今から草陰にいらっしゃいませ。水の用意もございますわ」
その厳しい声に、誰も何も言えずにいる。喜三太だけがにやにやと笑っていた。
安宅へ向かう前に、一行は草むらの前で休憩することにする。
草陰で合図する郷御前に、牛若はおとなしく付いていった。それをうれしそうに追う喜三太の背中を、弁慶はただ苛立たしく睨みつけていた。




