第七十五話 喜三太
静御前も忠信もいなくなり、吉野の山道を抜けた一行は、北へ、そしてさらに東へと進み始めた。
鎌倉の目を逃れて奥州へ向かうなら、北陸を通るほかない。山を越え、里を避け、人の目の少ない道を選ぶうちに、何日が過ぎたのかも曖昧になっていた。
あれから雪は消えた。木々の根元にはまだ白い名残が残っているところもあるが、道の土は少しずつ見えてきている。風も、吉野の雪山よりはいくらか柔らかい。それでも一行の足取りは重かった。
「寂しくなっちまったな」
三郎は何かにつけてそうこぼした。
静御前も忠信も、時実も、能成も、そして行家もいない。継信も死んだのは随分前のことだ。誰かが声を出せば、前よりもずっと少ない声しか返ってこない。
食べるものにも困り始めていた。
最初に三郎が「裕福そうな山の民の家から盗もうか」と言い出した時、郷御前は厳しい目だけで三郎を黙らせた。結局、鷲尾が獣の通り道を見つけ、三郎と駿河が狩りを手伝うことになった。
郷御前は道端の草や山菜を見分け、食べられそうなものを包みに入れていった。弁慶は牛若の座る場所を整え、火を起こし、郷御前の調理を手伝う。
牛若は、静御前や忠信の名を時折つぶやいては目を潤ませていたが、時が経つとだんだん無表情になっていった。疲れの色が目立つ。
しばらく無言で道を進んでいると、向こうから妙な足音がした。三郎たちが武器に手を伸ばす。
草むらから現れたのは、見すぼらしい男だった。武士や僧兵ではない。
乱れた髪が頬にかかり、汚れた小袖はあちこち擦り切れている。腰には縄のようなものを締め、草鞋は今にもほどけそうだった。
男は一行を見るなり頭を下げようとしたが、牛若の姿を見つけると顔色を変えた。そのまま地面に両手をついてひれ伏す。
「なんと、義経さま……!」
「えっ、その声は」
三郎が間の抜けた声を出した。
牛若は男の前へ歩み寄り、そっと微笑んだ。
「行綱か」
鷲尾も進み出る。
「なんでこんな山奥に?」
「また九郎さまを襲おうとしているのか?」
駿河は目を細めている。
「それにしては貧弱な格好だが」
「牛若さまをまた襲うなら許さねえぞ!」
三郎が短剣の柄を握ると、行綱は地面に額をつけたまま、ぶるぶると首を横に振った。
「義経さま、たいそうお疲れのご様子で心配でなりませぬが……。それがしはただの山の民に身を落としましてござる」
「顔を上げてくれ」
牛若は相変わらずこの男の言葉に興味はなさそうだが、穏やかにそう言った。
「はい……それがしは、もう武士が嫌になり申した。数々の人たちを裏切り、義経さまを裏切り、しかし河尻にてはあのようなことに……。義経さまを斬ろうとした時のあの清らかな目が忘れられず……。軍勢も崩壊しましたゆえ、所領もないそれがしはあのまま山中へ入り、あてもなくさまよっておりました」
(ふん、いつもいつも不潔な話がしつこい)
弁慶は心の中で吐き捨てた。
牛若の優しい表情は何も変わらなかった。
「無事でよかったな」
「ああ、そのお言葉……! この行綱、心洗われる思いでございます!」
行綱は顔を上げた。目に涙を滲ませている。頬には土がつき、髪には枯れ草が絡んでいた。
「あの、向こうにはそれがしの家がございますゆえ、ぜひささやかなお食事でも……!」
「いや、それは無理なのだ」
牛若は穏やかに言った。
「先を急ぐゆえ。ではまたな」
「そんな……どこへ行かれるのですか?」
行綱が慌てて膝を進める。
弁慶は冷たく言ってやることにした。
「お前には関係あるまい」
「お供、お供をさせていただきたい……!」
「なに……?」
(しつこい男だ)
山の民になって家もあるだろうに、この男は今さら何を言い出すのか。
「あんた、武士をやめたんだろ」
「山の民になられたなら、そのまま暮らしておられるのがよろしいですわ」
三郎と郷御前が面倒そうに言う。
「猟師だった俺みたいな暮らしだろうな……」
鷲尾が行綱の服装を見ながらつぶやいた。
「わざわざ武士に戻ることもあるまい」
駿河の冷たい言葉を最後に、一行は歩き出した。牛若も歩みを進める。
「お待ちを!」
行綱が声を張り上げた。
弁慶は立ち止まりたくなかった。だが、牛若がそっと足を止めたので、仕方なく振り返る。
「そのような少人数でどこへ行かれるのか存じませぬが、鎌倉の追っ手から逃げておられるのは確か。そういう時こそ、それがしの出番にございます。見たところ、みなさまは義経さまに真心でお仕えする、心の美しい方々ばかり」
(ふん、何を申す。自分の不潔な心を基準に申すな)
弁慶は鼻で笑ってやりたくなった。いつもこの不潔な男は、自分のことしか考えていない。
行綱は胸を張った。
「しかしながら、追っ手から逃れるには、汚れた知恵も必要にございます。それがしのように、鹿ヶ谷で法皇を裏切り、その後平家を裏切り、木曾義仲を裏切り、さらには義経さまを裏切り、そして義経さまを討てと言った鎌倉殿までを裏切った、悪の王者であるそれがしにお任せあれ!」
三郎があきれた顔で口を開く。
「あんた、なに自分の悪どさを自慢してるんだよ」
駿河も眉を寄せている。
「どちらにしても、もう武士ではないのだから無理では?」
「いえいえ、今さら武士として加わろうなどとは申しませぬ」
行綱はまた牛若を見上げた。妙に熱のこもった目だった。
「義経さま。お願いでございます。山の民としての経験も得た、それがしを下男としてお扱いくださいませ」
「ふむ、下男?」
牛若が首を傾げる。
「ええ、名前も改めまする」
行綱は何かを思いついたように、ぱっと顔を上げた。
「さしずめ――そうですな、久々に帰参しましたがため、これからは喜んでご奉公という意味も込めまして、喜ぶの一字も用い、『帰参』した、『喜三太』と名乗らせていただきまする! これからはそれがしを下男として、遠慮なくこき使ってくださいませ!」
「なるほど……」
牛若は不思議そうな顔をして微かにうなずいたが、三郎たちは「はあ……?」と首を傾げていた。牛若だけは優しく微笑んでいる。
「よく分からぬが、そなたをこれからは喜三太と呼べば良いのだな。付いてきてくれるのは私もうれしい」
「ありがたき幸せにございます!」
行綱は、いや喜三太は、地面に額を擦りつけんばかりに頭を下げていた。三郎たちはやや不満げだが、牛若が認めてしまったのだから仕方ない。
その後、喜三太は山中の粗末な小屋から、ありったけの食料を持ってきた。
干した肉、木の実、雑穀、根菜、山菜など、どれも上等ではないが、今の一行にはありがたいものばかりだ。三郎は袋の中をのぞき込み、顔を明るくした。
「飯の心配が減ったのは助かるな」
「それがし、狩りの技も修めましてございます」
喜三太はうれしそうにまた胸を張った。
(また妙な男が加わりおった)
弁慶は喜三太を見下ろした。忠信もいない今、少しは役に立つのかもしれない。
一行は旅を再開した。
喜三太はいちいち牛若のそばへ寄ろうとする。武士をやめて遠慮がなくなったらしい。弁慶はその間に巨躯を挟んだ。
喜三太が右へ行くと弁慶も右へ動く。牛若は不思議そうに二人を見ている。
三郎が「弁慶、壁みたいになってるぞ」と笑い出したが、弁慶は答えなかった。
歩き出してしばらくすると、喜三太は誰も聞いていないのに語り始めた。
「――それがしが河尻で義経さまたちを襲ったのは、鎌倉から東国以外の武士へも、義経さま追討の下知が行ったからにございます」
(不潔な話の続きか)
牛若は自分に向かって話されていると判断したのか、聞いているそぶりを見せているが、興味は全くあるまい。喜三太は構わず話し続ける。
「鎌倉から直接呼び出しを受けた梶原家、畠山重忠殿、佐々木高綱殿、那須与一殿、土肥実平殿、熊谷直実殿は誰一人、義経さま追討軍への参陣に従わなかったそうにございます」
「おお、あいつら断ってくれたんだな」
三郎は懐かしそうに笑った。牛若も馴染みのある名前が出たからか、笑顔で話を聞いている。
「重忠殿は『義経さまの美しき風をなぜ終わらせねばならぬのか、その道理をご説明頂かねば動けませぬ』と言い、実平殿は『じじいには荷が重すぎまする』と涙を流したとか」
牛若の口元が緩んでいる。あの知性の足りない連中の中で、牛若にとって一番ましだったのは実平だったかもしれない。
「与一殿は『弓の鍛錬が忙しい』と静かにお断りになったそうで、直実殿に至っては『そんなおそろしい所業に加担するなら出家するまで』と叫ぶ始末」
牛若は直実の名を聞くなり空を仰いでいた。壇ノ浦の海で、あの男に抱き止められたことを思い出したのかもしれない。そう思うと、弁慶の胸の奥はざらついてしまう。
「また、景季殿は『父上のおかしな陰謀に鎌倉殿がだまされている!』と激怒し、景高殿は『父上の浅ましい所業が恥ずかしい』と蔑んだそうです。景時殿は必死に否定したそうですが」
三郎たちは笑いながら話に耳を傾けていた。牛若の味方をする者がそれなりにいることがうれしいのだろう。
「一方、景時殿も『源氏がご兄弟で武力を用いて争われるのは、源氏の今後の円滑な政にとって適切ではありませぬ』などと反対する始末だったとか」
「へえ、あの帳面じじいでさえ反対したのかよ」
三郎が驚いた口調でつぶやく。
「帳面じじいって、いつもの嫌がらせしてくるじいさんだっけ?」
鷲尾は記憶をたどっている様子だ。三郎が「そう、あいつ」とうなずいた。
「帳面の御仁も、たまにはまともなことを言うようですね」
駿河も冷静な声で言う。
「味方のいない鎌倉殿もお気の毒ですわね」
郷御前も皮肉たっぷりにつぶやいた。
「あとは……高綱殿も、『義経さまの光とまつ毛が懐かしい』と言いながら涙をこぼしていたそうで」
「……なるほど」
弁慶も一言だけ返しておいた。興味のない連中の話ではあるが、人間の心を持たない鎌倉の汚物の命令に従えない者は大勢いるのだろう。
「――義経さまを表立って討とうとする武士は、今となってはほとんどいますまい。今後はおそらく、関所などでの捕縛を狙うだけかと思いまする」
喜三太は力強く言い終えると牛若をじっと見つめた。「だからご安心を」ということを喜三太は言いたかったようだが、牛若はただ優しい笑顔で見つめ返しただけだった。




