第七十四話 佐藤忠信
どれだけの時が経ったことだろう。随分長い間山道を登っているが、雪を踏みしめる音が乱れる様子はない。
三郎は何度も袖で目を拭いていた。鷲尾は後ろの足跡を何度も見ている。駿河は前方の木々と道を確かめ、郷御前は牛若の横顔を時折見ながら歩いていた。忠信はただ黙っていた。屋島で兄の継信を失った時に似ている。
その時、来た道の方から妙な音がした。
最初は風の音かと思った。雪が枝を揺らし、木々の奥で何かが鳴っているだけにも聞こえる。だが鷲尾がぴたりと足を止めた。
「下から敵が来てるみたいだ」
三郎も振り返る。喧騒が少しずつ近づいてきた。
「こんな山奥まで追っ手かよ」
駿河も雪の下の道を見下ろした。
「数が多そうだな」
忠信は何も言わず、後ろの山道をじっと見つめるだけだ。
白い斜面の下を、黒い影が点々と動いていた。木々の間を縫い、雪を蹴りながら上がってくる。随分大勢の声が重なっている。
やがて、怒鳴り声が風に乗って届いてきた。
「九郎判官は上だ!」
「逃がすな!」
「討ち取れば恩賞ぞ!」
声の主は、欲にまみれた僧兵たちだった。
(ふん、またここでも生臭坊主が現れおったか)
弁慶は心の中でいまいましく吐き捨てた。
雪の斜面は白く、足場が悪い。相手は雪道に慣れているらしく、妙に動きが早い。ここで戦うのは厳しそうだ。
僧兵の影はどんどん増えていく。木の間から槍や長刀の先が見える。こちらを見つけたのか、声が一気に大きくなった。
「おったぞ!」
「あそこだ!」
その瞬間、忠信が牛若の前へ真っ直ぐ進み出た。
「義経さま、あの敵の人数は尋常ではありません。この、雪が降り積もった斜面では素早く動くこともできませぬ。これまでのように少人数で敵を退けるのは難しいかと」
忠信の声はいつもより厳しい響きだった。そのまま一気に言葉を続ける。
「ここはお逃げなさることに注力すべきです。されど敵は道に慣れている様子、今のままではすぐ追いつかれてしまうでしょう。私がここでしんがりとなり敵を引きつけますゆえ、どうかすぐにお逃げください」
「な……ならぬ、忠信……!」
牛若は動揺をあらわにして叫んだ。
三郎も顔色を変える。
「あんた一人だけで防いだら死んでしまうじゃねえか!」
鷲尾も進み出る。
「俺も一緒にしんがりをやる! 猟師だったから山道は慣れてる!」
駿河も間髪入れず「お前がいないと奥州への道案内が大変だ」と言い、郷御前も雪を払いながら「ちゃんとした武士がこれ以上減ったらたいへんですわ」と案じている。
だが忠信はそれを微笑みながら受け流した。
「私も兄者のように、義経さまのお役に立ちたい。奥州など、ひたすら東へ北へ進めば済むゆえ、私の道案内などは要りませぬ。鷲尾までいなくなったら、山道がますます苦しくなります」
皆が言葉を失って息を呑む。
なるほど、この男は死んで牛若に抱きしめてもらえた兄継信のことを思い出し、自分も牛若の記憶に刻まれたいと願っているのだ。
忠信は牛若へ向かって深々と頭を下げた。
「さあ、時間がありませぬ。お急ぎください!」
僧兵たちの足音が一気に近づいてくる。
「ならぬ、忠信……! 継信だけでなくそなたまで……!」
牛若は涙声になりながら、それでも泣き崩れまいと努めているようだった。一緒にいてくれと懇願することしかできずにいる。
時間がない。弁慶はそっと進み出た。
「忠信、承知いたした」
その声はいつになく重々しく響いた。忠信の判断は正しい。牛若を生かすには、今ここで誰かが敵を止めるしかない。
牛若の目に涙が溢れた。
「行くな……そなたを失いたくない……!」
「義経さま、忠信は義経さまに長らくご奉公ができて幸せ者にございます。もし生きられたら後から参りますが、そうでなくても喜んであの世にてお待ちしております」
忠信はそう言うなり、今まで見せたことのない優しい笑顔を牛若に返した。牛若は何も言えないまま涙を流し続ける。
「牛若さま、敵が来てしまいますよ! ここは忠信の言う通りにしましょう!」
三郎が泣きそうな声で叫んだ。
「仕方ありませんわ」
郷御前も牛若の袖をそっと引いた。
「義経さま、この忠信、行ってまいります!」
忠信は牛若に深々と頭を下げると踵を返し、そのまま山を駆け降りていく。振り返ろうとしない。
「忠信……!」
忠信を追いかけようとする牛若を弁慶が引き留めた。
「さあ、走るぞ!」
弁慶が声を張り上げると、皆が忠信とは反対の方向へ駆け出す。牛若を一緒に押していくのを忘れない。弁慶は強引に牛若の華奢な身体を、どんどん道の先へと押し込んだ。
「――牛若さま」
弁慶は牛若を駆けさせ続けながら、その清らかな耳元にずっしりとした声を響かせた。
「――忠信は、大丈夫です」
自分でも口に出しておかしくなる。それは白々しい嘘でしかない。だが牛若はその言葉に少しでも元気付けられたのか、皆と共になんとか懸命に走り出した。
雪が沓の下で崩れる。法衣の裾が乱れる。枝に積もった雪が舞い落ち、肩へと降りかかる。
皆、涙ぐみながら走っているのが分かった。
喧騒がさらに近い場所まで来ていた。
「逃げたぞ、追え!」
それは欲にまみれた、心を忘れた男たちの濁った叫び声だった。
「――我こそは佐藤忠信!」
忠信のよく通る声がこちらまで響いてくる。
「恩賞に目が眩んだみなさま、どうぞ御相手されよ!」
雪の中、忠信の声は美しく耳に届いた。
「忠信……!」
涙を流して足を止めそうになる牛若に、弁慶は「――忠信は、大丈夫です」と再度耳元で繰り返し、強引にその背中を押していった。
後ろの僧兵の怒号に、誰かが倒れる声が混じった。忠信は善戦しているにちがいない。欲深な生臭坊主が、主君を守りたい忠信の崇高な志に勝てるわけがない。だが相手は桁違いの大軍だ。弁慶はその先を考えないことにした。
牛若は走りながら嗚咽を漏らし、涙を流し続けている。他の者たちも、駆ける足を止めないまま涙ぐんでいた。
雪と木々の向こうで、喧騒はだんだん遠ざかっていく。すべては真っ白な山奥へ少しずつ呑まれていった。




