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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第七十三話 吉野山

 雪がどんどん降り積もる中、一行は山伏の姿に化けていた。


 濡れた法衣の上にさらに衣を重ね、脚絆を締め、沓を履き、金剛杖を頼りに歩く。武器は法衣や荷の中へ隠した。牛若も皆と同じ山伏姿だった。


 道中にいた民たちの話によると、牛若の西国落ちの噂が広まり、海路と西国の警戒が厳しくなっただけでなく、陸路全体にも鎌倉の目が光っているようだ。とうとう法皇が追討の院宣を頼朝に出させられたのかもしれない。


 忠信が「山伏がいても自然な吉野山にいったん入り、そこから北へ抜けてから奥州を目指すのがよいでしょう」と言い、皆が従った。


 吉野へ入る道は思ったよりも険しかった。木々の枝には雪が重く乗り、細い道は白く埋もれている。足を置くたび、沓が雪を踏み、下の土を探るように沈んだ。


 白い息が、口元から細く出る。雪が法衣に積もり、肩で溶けてまた冷える。弁慶は牛若の斜め後ろから足元と周囲を見ていた。


 住吉の浜で秀衡の名が出てから、牛若の顔からは憂いが少しずつ薄れている。目に光が戻っていた。鞍馬で育っただけのことはあり、足場の悪いところでも、金剛杖で雪の下の土を探りながら進んでいく。


 だが、次第に牛若の足取りは重くなった。息も乱れている。気丈に振る舞っていても無理をしているにちがいない。


 弁慶は三郎たちに聞こえぬよう、牛若の耳元へ寄った。


「――牛若さま、私が背負いましょう」


 牛若は振り返り、優しく微笑んだ。


「いや、私は大丈夫だから」


 真っ直ぐ見つめられると、弁慶は何も言えなくなった。仕方ない。牛若が本当に歩けなくなったら必ず背負うだけのことだ。


 三郎や鷲尾、駿河や忠信は問題なく進んでいた。郷御前も田舎育ちと言っていた通り、驚くほど足元が乱れなかった。


 遅れ始めたのは静御前だった。


 法衣の裾を持ち上げ、沓を雪から引き抜くたびに、少しずつ息が上がっている。他の者がすんなり越える小さな段差で、静御前は足を取られた。


「あっ」


 身体が傾く前に、忠信が手を差し出した。


「静御前、お手を」


「ありがとうございます、忠信さま」


 静御前は微笑みながら頭を下げ、その手を借りた。


 三郎が振り向いた。


「静御前、大丈夫ですか! 怪我は……!」


「ええ。少し足を取られただけですわ」


 静御前は笑ってみせる。


 駿河は空を見上げていた。


「この先は、さらに雪が深くなりそうですね」


「きつそうだな」


 鷲尾も困ったようにつぶやいている。


 皆、静御前に遠慮して少しだけゆっくりと歩いているようだった。ささやかな難所のたびに郷御前が腕を引き、忠信が横で支えている。それでも静御前は少しずつ遅れ始めた。


 疲れを見せていた牛若だったが、彼女のことを心配して振り向いた。


「静……」


 そのまま静に歩み寄る。今は他人を気にする余裕が出てきたようだ。それも牛若の心が少し戻った証かもしれない。


「私が背負うぞ。さあ」


 そう言って、牛若は雪の上にしゃがみ込む。


「いいえ」


 静御前は気丈な声で拒んだ。


「この険しい山道。私などを背負って疲れてしまっては、敵が現れた際の体力が保てませんわ。どうかご心配なく」


「それなら俺が背負いますよ!」


 三郎がとっさに叫んだが、静御前は穏やかに微笑む。


「そのお気持ちだけで十分ですわ」


「俺もいけるぞ。山なら慣れてる」


 鷲尾が言った。


「静御前、小柄な鷲尾よりも私の背をお使いください」


 忠信が真っ直ぐな声で言うが、静御前は丁寧に頭を下げた。


「みなさまは判官さまのおそばに。私はまだ歩けますわ」


「交代で背負えば、負担は分けられる」


 駿河も声を挟んだが、静御前の落ち着きは変わらなかった。


「それでは皆さまの足が乱れますわ。お気遣いだけ、ありがたく頂戴いたします」


 郷御前が静御前の腕を取った。


「私がこうして腕を引きますわ。皆さまはご自身と義経さまをご心配なさるべきですの」


 牛若は、まだ何か言いたそうだったが、静御前は白い息の向こうで、舞台に立つ時のように、凛とした姿勢で笑っていた。


 一行は仕方なく進み続けた。道はさらに細くなる。雪は止む気配がない。足を置く場所を間違えると、沓がずぼりと雪に沈み、下の石で滑る。金剛杖で支えても、身体が横へ持っていかれそうになる。


 静御前の息が荒くなっていく。それでも、彼女は弱音を吐かなかった。


 やがて、道が少し急になったところで、静御前の足が深く雪に取られた。郷御前が腕を引こうとしたが間に合わない。身体が前へ一気に倒れた。


「静……!」


 牛若が慌てて駆け寄った。


 三郎も声を上げ、皆が一斉に静御前を囲む。だが彼女は自分で雪に手をつき、静かに立ち上がった。


 牛若は静御前の袖を握りしめていた。


「怪我はないか……?」


 静御前は牛若を優しい目で見つめた。


「判官さま。誠に申し訳ありませんわ。私はここでお別れさせて頂きます」


「なにっ……それはならぬ……!」


 牛若はひどく動揺している。


 静御前はその立ち姿を崩さなかった。


「判官さま。よくお聞きなさいませ。あなたさまは源氏の御曹司であり、都を守る検非違使でもある、立派な方であり、責任ある方ですわ」


 その顔は微笑したままだったが、声がいつになく厳しい。牛若が何か言おうと口ごもるのを制している。


「私のような女子一人の足手纏いのせいで、捕まって良い方ではありませぬ。判官さまはいつも、都の者に慕われておりましたわ。私もその一人にございます」


「何を言い出すのだ、静……!」


 牛若の目から、涙がこぼれ落ちた。


 静御前の目も潤んでいたが、泣き崩れはしなかった。雪を全身に受けながら、牛若を真っ直ぐ見つめている。


「私は所詮ただの白拍子。歌と舞に自信はあれど、これから奥州までの長い道のりを歩くだけの足腰はございませんでしたわ。その誤算をどうかお許しくださいませ」


 涙を流す牛若につられて、皆も目を潤ませ出しているが、彼女はそのまま言葉を続けた。


「白拍子は舞台でも退け際が肝心と申します。このままずるずると、みなさまの足手纏いのまま無様に何度もこけながら歩き続けては、判官さまの心の中の静が崩れてしまいますわ。静はそれが嫌なのでございます」


「静御前、お気持ちはわかりますわ。されど……」


 郷御前がそっと口を挟もうとしたが、静御前は首を横に振り、静かに続けた。


「私はこれにて失礼させて頂きますわ。幸いここまでの道はほとんど真っ直ぐでしたもの。雪の足跡もまだ残っておりますし、降りるのは登るよりも容易ですわ。もっと山が険しくなる前に、ここで私はお暇させて下さいませ。都に戻れば、母の磯禅師がどの辺りにいるかは大体分かりますゆえ、どうかご心配なく」


 静御前は深々と頭を下げた。


「静、私はそなたにいてほしいのだ……!」


 牛若はそれしか言えなかった。静御前の長々とした言葉は天界の稚児にはよく分からないのだろう。


 三郎も涙ぐんでいた。


「今さらそんな、だって……」


 続きの言葉が出ずにいる。


「山道を戻るのは大変だぞ……」


 鷲尾がつぶやくと、彼女は「ですが、この先の険しい道よりはましですわ」と取り合わない。


「それなら、私がお送りいたします」


「いや、俺が見送る」


 忠信と駿河も言ったが、静御前は微笑みながら首を横に振り、牛若へ向き直った。


「判官さま。これは判官さまのためですもの。判官さまは責任ある大人として、この私の言うことをご理解頂かねばなりませんわ」


 牛若は涙を流し続けたまま、静御前を見つめ続けていた。ただ別れるのが悲しいという清らかな悲しみだけで胸がいっぱいになっているのだ。彼女はそれを、慈しむような目で見つめた。


「言い方を変えますわね。私はもう疲れてしまいましたわ。どうか私を止めないでくださいませ。私の身体が苦しいですもの。どうか私を解放してくださいませ」


「静……っ」


 牛若は嗚咽が止まらないまま、それ以上何も言えなくなった。


(この女は、武士の心を持っているのか……)


 白拍子でありながら、鎌倉の汚物などよりずっと尊い。牛若の心を納得させるため、さも女の我儘であるかのような言い方をわざとしているのだ。


 弁慶は奥歯を噛み締めた。静御前がこのまま去れば、牛若の心の中には、美しい姿のまま残る。何度も転び、無様に疲れ果てる女ではない。雪の中で自ら退き際を選んだ女として残るのだ。


「……ご理解いただけましたわね、判官さま。静はいつでも、判官さまのご無事を祈っておりますわ」


「静……静……! こんな厳しい旅に巻き込んですまなかった……! 私も、そなたの無事を祈っている……!」


 泣きじゃくる牛若を静御前はそっと抱きしめた。


 それは母のような優しさだった。牛若は静御前の腕の中で、長い間涙を流し続けた。三郎たちもつられて泣いていた。


 郷御前は静御前のそばへ一歩寄った。静御前の法衣についた雪を払う。


「静御前。あなたのその心、見事ですわ」


 静御前は何も言わずに微笑み、また牛若を抱きしめる手に力を込めたようだった。ようやく牛若の涙が枯れ、嗚咽が収まったことを確かめると、静御前はそっと身体を放した。


「……もう振り返らないで下さいませ。みなさまは、このままお進みを。この静、今まで幸せでしたわ」


 そう言って深々と頭を下げると、ためらいなく踵を返した。


「静……!」


 牛若が泣きながら叫ぶと、三郎も「静御前……!」と無様な声を上げ、皆が口々にその名を呼ぶ。


 静御前は、一度もこちらを振り返らなかった。


 法衣をまとった背中が小さくなっていく。雪がその身体に降り続ける中、やがて姿は見えなくなった。


 牛若は呆然と立ち尽くしていた。弁慶はその背中をじっと見つめる。


「牛若さま、先を急ぎましょう……!」


 三郎の涙ぐんだ声と共に一行は歩き出した。


 弁慶は牛若の背をそっと押した。牛若は抵抗せずに歩き出す。雪を踏む音が、先ほどより乱れずに続く。


 牛若は一度だけ静御前が消えた方を見たが、弁慶はその肩をそっと前へ押し出した。牛若はそれにも抵抗はしなかった。


 一行は雪の吉野山をさらに進み続けた。

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