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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第七十二話 舟弁慶

 船頭たちは、すでに舟べりに立っていた。


 大物浦(だいもつうら)の海は静かだった。西へ沈みかける日が雲に隠されていく。


 船頭たちが舟の縁を押し、何人かが荷を確かめる。波打ち際では、行家が集めた寄せ集めの兵と偽山伏仲間が、落ち着かない様子でうろうろしていた。


「判官さま、お足元にお気をつけ下さいませ」


 静御前が、法衣の袖を濡らしたまま牛若のそばに寄った。郷御前も同じような法衣姿で、荷の口を結び直している。女性はこの格好の方が動きやすそうだ。男たちも皆、身軽な服に着替えていた。弁慶はいつもの僧兵姿なので変わらない。


「こちらの荷は私が管理いたしますわ。義経さまは、先にお乗り下さいませ」


「うむ」


 牛若は穏やかに答えた。


 そこに用意されていた船の中で、牛若のためにあてがわれたものは一番ましだった。板もまだ新しい。牛若、弁慶、忠信、静御前、郷御前、時実、能成、行家がその船へ案内された。


「え、俺たちは別の船かよ」


 三郎が露骨に不満そうな声を上げた。


「九郎さまの船は身分の高い方や、気品のある人向けだ」


 駿河は静かに言った。


「弁慶は護衛のためだし、忠信は奥州武士だが上品だ」


「兄者がいれば、もっと気品があったが」


 真面目に言う忠信に三郎が笑い出す。継信が死んでだいぶ経ち、湿っぽさはだいぶ薄れてきたようだ。駿河は言葉を続ける。


「時実殿も、よくは分からないが下賤の出ではないだろう。屋島の時とは違って、戦に不慣れな者も今回は多いからな」


「俺、猟師だし、何も言えねえや……」


 鷲尾は頭をかきながら残念そうにしている。


 駿河、三郎、鷲尾は別の船へ回された。そちらにも船頭はいるが、牛若の乗る船よりは小さく、荷も多い。さらに別の船には、寄せ集めの兵や、行家の偽山伏仲間、集められた馬が分かれて乗っている。


「九郎、なかなかよい船ではないか」


 行家は胸を張っていた。


「西国なら、鎌倉の源氏の手が届かぬ平家の生き残りもいるであろう。そういったやつらを味方につけ、敵対するやつは滅ぼせばよいのじゃ」


「はい」


 牛若は素直に頷いたが、その目は海だけを見ていた。弁慶は牛若の斜め後ろで、懐に入れた短刀の位置を指先で確かめた。太刀は背中に忍ばせてある。長刀も、今は荷の中に収めていた。


 船頭たちが声を掛け合っている。


「押せ!」


「櫓を入れろ!」


 船頭たちが身体を傾け、櫓を押す。船はゆっくりと岸を離れ、大物浦の暗い水の上を進み出した。


 櫓の音だけが規則正しく響いていた。


 ぎい、と木が音を立て続ける。船頭たちの腕の動きは巧みで、力強く頼もしい。他の船からも話し声が聞こえてくる。


 しばらく進むうちに、急に風が変わった。


 船頭の一人が空を見た。別の船頭が舌打ちする。櫓を握る腕に力が入ったのが、弁慶にも分かった。


「……妙ですわね」


 郷御前がつぶやく。


「海が、先ほどより黒く見えますわ」


 波が少しずつ高くなっていた。船頭たちは櫓を押し直し、互いに声を掛け合う。牛若の船も次第に揺れが大きくなってきている気がする。


 時実が、そっと弁慶の近くへ寄った。


「弁慶殿」


 能成も隣で耳を傾ける。


「天候が怪しい。海が荒れれば、気心の知れぬ者がそばにいると、九郎さまのお心を乱します。今のうちに、九郎さまが本当にお心を許しておられる方々をこちらへ集めた方がよろしいかと」


「――なるほど」


 弁慶は否定せず、静かに時実を見た。三郎たちがこちらの船にいようがいまいが、弁慶にとってはどうでもよいことだが、牛若は微かに喜ぶことだろう。


「それは妙案である」


 弁慶は淡々とした声で告げた。「いえ、そなたにも牛若さまは心を許しておられるのでご安心なされよ」、などと言うつもりはなかった。


「それでしたら――」


 言葉を挟んできた能成の声は寂しげだった。


「……私も、移った方がよさそうですね」


 その声は健気だった。この男が弟として牛若を慕う気持ちは本物のようだが、牛若が本当に会いたいのは母の常盤の方だ。特に引き止める気はしなかった。


「――仕方ありませぬな」


 短く返した後、弁慶は船頭へ声をかけた。向こうの船にも合図が飛ぶ。


「おい、どうしたんだ?」


 三郎が、向こうの船から身を乗り出していた。


「船を替わる。三郎、鷲尾、駿河、こちらへ来い」


「えっ、牛若さまと一緒に乗れるのかよ!」


「早くせぬか」


 三郎はうれしそうな表情で身軽に船をとび移った。鷲尾も続き、駿河は荷の紐を確かめてから静かにこちらへやって来た。


「それがし時実と、能成殿、行家殿が向こうへ移ります」


「ん? なぜわしが向こうへ行くのじゃ」


 行家が不満げに声を上げる。


「別にこちらの船には要りませんわ」


 ぴしゃりと郷御前が言い、静御前も「確かに」と同調する。


「何じゃと」


「申し訳ありませぬ」


 時実は苛立った様子の行家に謝りながらも、口調は軽やかだった。


「九郎さまの従者は同じ船にいた方がよろしいかと思いまして。入れ替わるだけでございます」


「なるほど、九郎のためか。まあよい、わしは九郎の家来ではないからの」


 納得した様子の行家は、船頭に支えられて向こうへ移った。足元が危なっかしく、三郎がそれを見て笑う。


「あんた、落ちるなよ」


「誰が落ちるか」


 時実は牛若の前で深く頭を下げた。


「九郎さま。それがしは行家殿と共に向こうに参ります」


「ん、なぜだ」


 牛若は不思議そうに時実を見ていた。


「気心の知れている方との旅が落ち着くでしょう。無事陸路へ行けたら、引き続きお守りさせて頂きますゆえ、ご安心ください」


「――そうか」


「兄上、私も向こうの船へ参ります。西国へ着いたら、兄上を全力でお守りいたします」


「それがし、弟君もお守りいたします」


 時実も穏やかに付け加えた。


「――そうか」


 牛若は少しだけ目を伏せた。


「うむ、時実、能成。その言葉はありがたい」


「はい」


 二人は口をそろえて深々と頭を下げ、そっと向こうの船へ移動した。


 船がまた離れていく。時実と能成は向こうの船で頭を下げ続けていた。行家も何か言っているらしいが、風が強まり、声の細かなところまでは届かなくなっていた。


 牛若の船には、弁慶、三郎、鷲尾、忠信、駿河、静御前、郷御前が残った。


「結局、いつもの感じになったな」


 三郎はうれしそうに笑っていた。




 しばらくして、一気に視界が暗くなり、風が強くなり出した。船頭の怒鳴り声が響く。


「櫓を合わせろ!」


「右だ、右へ押せ!」


 波が高くなっていた。船の揺れが激しい。空の奥で雷が低く鳴った。鷲尾が「ぎゃっ!」と叫び声を上げたが、静御前や郷御前は無言で気丈に振る舞っていた。


 牛若は船の縁に近いところで、じっと海を見ていた。


「牛若さま、危ないですよ!」


 三郎が声をかけるが、牛若は答えなかった。


 弁慶は、牛若の視線を追った。海は黒ずんでいる。波の先には、雨を含んだ雲が垂れ込めているだけだ。何もいない。何も見えない。


「……兄上……」


 牛若がか細い声でつぶやいた。


 弁慶の胸の奥に痛みが走る。荒波にかき消されたようで、三郎たちには聞こえなかったようだ。


「牛若さま」


 弁慶はそっと近づき、耳元に語りかけた。


「――今、何とおっしゃいましたか」


 聞こえていたが、あえて聞き返した。


「いや……その、あそこに兄上が……!」


 牛若の声が、風に引き裂かれた。


 雷がまた鳴った。今度はもっと近い。船は大きく上下した。


「判官さま……!」


 静御前が立ち上がろうとする。郷御前がその手を握るのが見えた。


「危のうございますわ」


「ですが、判官さまが」


「下手に動いて、女子(おなご)を助けるために義経さまを危険に晒してはいけませんわ。弁慶さまが守っておられますの」


 そういう郷御前の声は鋭く、弁慶に対するとげのようだった。彼女は静御前の手を握り、もう片方の手で船縁にしがみついている。雨が滝のように降り注ぎ出した。


「弁慶、牛若さまを!」


 三郎が叫んだのを、弁慶は「ああ」と軽く受け流し、それでいて牛若の身体にさらに近づき、何が起きても抱き止める準備をした。


 船頭たちが櫓を押し、怒鳴り合う。波に押し戻され、櫓がうまく動かない。風が強すぎて、言葉が聞こえない。


 屋島の時よりも危ない。


 牛若は吸い寄せられるように、ふらりと船縁へ身体を寄せようとした。とっさに弁慶の身体が先に動いた。背後から腕を回し、牛若の身体を固く抱き止める。強く、しかし潰さないように力を入れた。


「――牛若さま」


 弁慶はその清らかな耳にさらに口を近づけた。


「――あれらはただの雨と雲にございます。何もおりませぬ」


 幼児に言い聞かせるように、あやすような声で言ってみた。激しい風が牛若の髪を乱し、潮の匂いに混じって清らかな香りがした。


「違うのだ、あそこに兄上が……!」


 牛若の身体が震えている。雨に濡れたからではないようだ。あの夜、短刀を振り上げようとした牛若の姿が、弁慶の頭の中で蘇った。


 弁慶は牛若を抱き込んだまま、海を見た。当然のことだが、何もいない。


「――牛若さま、何もおりませぬゆえ、お気を確かに」

 そう言い聞かせながら、しっかりと牛若の身体を抱き込む。比叡山で一応は仏に仕えていた自分は、生き霊や亡霊を全く信じない身ではない。だが、あの人間の心を持たない頼朝などという汚物が、生き霊などという、さしずめ六条御息所ろくじょうのみやすんどころか何かのような高尚な魔物に化けて、清らかな天界の稚児を怯えさせることなど、あってたまるかというのが本音だ。


「――何も、おりませぬ」


 弁慶は耳元でもう一度重厚な声を響かせた。


「――弁慶が、ここにおります」


 答えない牛若の息は乱れている。髪が雨に濡れ、頬に貼りついている。弁慶はその身体を決して離さなかった。


 船が大きく傾いた。


「牛若さま!」


 三郎の叫び声が飛ぶ。


「義経さま!」


 忠信が踏ん張りながら手を伸ばしていた。


「荷を押さえろ!」


 駿河の声が響いた。


「うわっ、船がひっくり返るぞ!」


 鷲尾が船縁にしがみつく。


「判官さま!」


 静御前の声が、雨に混じっていた。


「義経さま!」


 郷御前まで、柄にもなく叫び声を上げている。


 向こう側の船から、行家の無様な叫び声が聞こえた。


「わしは由緒正しき源氏じゃぞ! 沈めるでない!」


「九郎さま、大丈夫でございますか!」


 時実の声が波に引き裂かれていた。


「兄上!」


 能成の声は哀れに割れていて、もっと悲痛だった。彼らの声は、すぐに風と波に呑まれていった。


「うわっ!」


 三郎の叫び声が響く。船がほとんど横倒しになりかけた。弁慶は牛若を抱えたまま、渾身の力を込める。弁慶の背中から、忍ばせてあった牛若の太刀が滑り落ちた。鞘ごと、黒い水の方へ吸い込まれていく。


「……っ!」


 弁慶は片手を伸ばした。あと少しで届く距離だった。だが、まずは牛若の身体を守らざるを得なかった。


 太刀は波の中へ落ちた。黒い水が一度だけ白く跳ね、それっきり見えなくなった。


 波の向こうを見つめている牛若は何も気づいていないようだった。


「――牛若さま、申し訳ございませぬ。牛若さまの太刀が、波へ……!」


 声がかすれた。胸が苦しい。それでも別の場所は昂っていた。牛若が太刀を失っても、この自分が牛若の太刀になれば済むことだ。


「……弁慶? そうか、別によい」


 鎌倉のくだらない生き霊から解放されたのか、牛若は弁慶を真っ直ぐに見つめてきた。そのことが、弁慶をひどく動揺させた。とっさに懐に入れた短刀を上から押さえた。そこにはまだ重みがある。


「――その、短刀は……」


 弁慶はその清らかな耳元に向かって力を込めた。


「――牛若さまの短刀は、それがしの懐にありますゆえ、どうかご安心を」


「よい。短刀を守ってくれて、ありがとう」


 太刀を失った罪を、牛若は責めなかった。だが牛若が礼を言ったのは、牛若の身体ではなく、短刀を守ったことだった。胸の奥が、妙にもやついた。


 牛若は荒れ狂う海を見たまま、何も言わなかった。雨が頬を伝っている。その中に涙が混じっているのか、弁慶には分からなかった。




 嵐はさらに強まった。


 船頭たちの声も、もうはっきりとは聞こえない。櫓の音が乱れ、船腹を打つ波が何度も船内に水を溢れさせる。


「……ひええ! わしは死なぬぞ! 九郎、お前も死ぬでない!」


 行家の声が遠くから飛んできた。無様で滑稽だが、一応牛若のことも心配しているらしい。


「九郎さま、どうか御無事で……!」


 時実の声も聞こえた。平家の捕虜でありながら、牛若は父の時忠にしか興味がなさそうであるのに、いつの間にか源氏である牛若に付き従っていたわけだ。ここまで本気で心配していることが、弁慶には実に不思議に思えた。


「兄上、どうか生きて下さい……!」


 能成の裏返ってしまった叫び声も聞こえてきた。貴族のままでいたら平穏であっただろうに、こんな荒波の中に今はいるのだ。


 牛若は何かを、掠れた声で微かに叫んだようだった。だがその声は嵐でかき消されてしまう。海も空も船も、すべてが黒い雨の中に溶けていく。


「牛若さま、こっちを見てください!」


 三郎の声がする。


「俺たちは静御前や帳面ねえさんと固まっています! 弁慶、絶対牛若さまをお守りしろよ!」


 早口で叫んでいるが、視界が暗すぎて、もはや三郎の位置さえよく分からない。


 牛若を抱いたまま、手の平が板を擦り、爪が割れそうになる。だが、牛若の身体だけは離さなかった。弁慶の視界には、ただ牛若の濡れた髪と、黒い海と、白く砕ける波しかなかった。




 どれほどの時が過ぎたのか、弁慶には分からなかった。


 気づいた時には、頬に砂がついていた。


 波の音が遠い。雨はまだ静かに降っている。身体のあちこちが痛んだ。腕の中には、牛若がいた。


「――牛若さま」


 弁慶は上体を起こし、牛若の身体を解放した。


 牛若は目を開けていた。すぐに起き上がったが、何かを失った子供のようにじっと遠くを見ていた。


「牛若さま!」


 三郎の声が走り寄って来た。鷲尾も駿河もいた。忠信は静御前と郷御前を助け起こしている。船頭の姿は見当たらない。


「判官さま……!」


 静御前がふらつきながら駆け寄ろうとする。郷御前がその背中を後ろから支えた。


「ご無事でしたのね……!」


 静御前の声は震えていた。


「うむ」


「ほんとご無事で何よりですわ」


 郷御前も穏やかな表情ではある。


「同じ船におりましたのに何も見えなくなりましたもの。弁慶殿が義経さまに何をしているか心配でしたわ」


「一体何を申す」


 弁慶は苛立たしく吐き捨てた。この女は何かにつけ、こちらのやることを捻じ曲げて解釈する癖がある。


「皆、無事でよかった」


 牛若はうっすらと微笑んでいる。


「ですが」


 忠信が遠慮がちに声を挟む。


「我々は無事でしたが、船頭はいませんし、行家殿たちも……」


「叔父上が……?」


 牛若は急に動揺を見せた。


 叔父への愛着はあったはずだ。それでも今忠信が話に出すまで、すっかり忘れていたことに弁慶は密かに悦びを感じた。


「あいつなら大丈夫でしょう!」


「確かに、絶対死なない気がする!」


 牛若を元気付けたいらしい三郎と鷲尾がいい加減なことを言ったが、忠信が「そうですね」と同調する。


「悪人は殺しても死なないといいますから」


「確かに、あの御仁は殺してもすぐ生き返るでしょう」


 駿河が真顔で言うと皆がくすくす笑い出す。


「叔父上は生きているのだな――」


「あのお人は、海で美しく死に花を咲かせる類の方ではありませんわ」


 郷御前が冷徹な声で言うと、静御前も「確かに、そういう絵巻物は頭に浮かびませんわ」と同調する。


「ですから、能成殿や時実殿もきっとご無事ですわ。人間はそう簡単には死にませんの」


 郷御前がそう言い切ると、牛若は安心したように微笑んだ。能成や時実のことは今まで忘れていたのかも知れない。


 弁慶は、懐に手を当てた。牛若の短刀はある。ずっしりとした重みが、濡れた衣の下で確かに残っていた。


「でさ、ここ、どこなんだ……?」


 鷲尾が浜を見回している。濡れた砂と、低い草と、遠くに見える人家の影。西国の荒れた土地とは違う気もする。


「俺が聞いてきます!」


 三郎が力強く申し出た。


「無茶をするな」


 駿河が言う。


「ただ聞くだけだ。盗みに行くわけじゃない」


 三郎は軽口を言うなり、浜の向こうに見える人影の方へ走っていった。


 小雨が降り続けていた。牛若は砂の上に立ち尽くしたまま、穏やかに海を見つめている。


「船の荷、他の方々のものはかなり流されましたわね」


 郷御前が言った。


「されど、荷は私が管理していたものが多少残っておりますわ。私たち女子(おなご)はこの通り法衣を着たままですけれど、他の方が脱ぎ捨てた法衣も、本物よりちょっと軽い金剛杖も、その他、偽山伏に化ける道具は大体ございますわ。変装の必要があればの話ですけれど」


「さすが帳面ねえさんだな」


 鷲尾がいつもの三郎の呼び方を真似ながら感心してみせた。


「ええ、私は帳面ねえさんですもの」


 珍しく同調した郷御前を皆が笑った。


 郷御前は濡れた髪を払い、残された荷物を手際よく確かめている。


 そこへ三郎が戻ってきた。


「ここ、住吉(すみよし)って場所らしいです」


「西国ではない。むしろ、都に少し近づいてしまったようだ」


 駿河が肩を落とすと、皆が一様にため息をついていた。


「しかも、なんか『九郎判官』がひそんでいないか、この辺りまで鎌倉武士が嗅ぎ回ったりもしたらしいです」


「それは一大事だな」


 忠信の表情が曇る。なるほど、もしかしたらあの散々涙を見せた法皇がとうとう、牛若追討の院宣を出してしまったのかもしれない。だがそんな話を言っても仕方ないと、弁慶は口をつぐんだ。


 今回の海で、屋島の時のような奇跡は起きなかった。最初はあの時とは比べものにならないぐらい穏やかな海だった。むしろ、逆の奇跡が起きた。


 だが、弁慶はさほど落ち込む気にはならなかった。


 今の牛若に、西国は要らないのかもしれないではないか。もともと西国は牛若にとって何の興味もない土地だったし、勢力を立て直したところで、その後に頼朝と戦をする光景など想像もつかない。行家の口車に乗せられていたに過ぎないだろう。


 あの、天界の心を踏みにじる穢れきった化け物が、牛若の心を二度と捕らえなければよい。嵐の中現れたくだらない生き霊のことを、今の牛若は忘れているようだった。表情はずっと穏やかだ。


「もう一度、舟を探すのは難しそうですね」


 忠信が浜の方を見ながら言った。


「船頭たちも見当たりませんし、こんな田舎まで追手が来ていたとなると、岸は監視も厳しくなっていそうですね」


「そうだな」


 駿河も頷く。


「もう、海は諦めた方がよいかもしれない」


 その場に沈黙が落ちる。雨は弱まっているが冷たい。牛若はまだ海を見ている。弁慶は、短刀の重みを感じながら、その横顔を見ていた。


 三郎が、ふと思いついたように顔を上げた。


「――牛若さま、奥州のじいさんのところへ行きませんか? いつでも戻って来いと言ってましたし」


 忠信が「それは名案ですね!」とうれしそうに反応した。


 弁慶の胸に、平泉での秀衡の涙が蘇った。牛若が最後に振り返った、あの黄金の国。


「おうしゅうってどこだ?」


 鷲尾が首を傾げる。


「鎌倉よりずっと東の、北の方だ。豊かな場所ではあるが、果たしてたどり着けるだろうか」


 駿河が静かにつぶやく。


「いやいや、結構近かったぞ。あっという間に行けるはずだ。俺たち、そこから黄瀬川まで行ったんだから」


 三郎が胸を張った。


「いえ、あれは馬があったからです。今は馬もありませんし、徒歩だとどれだけかかるか」


 忠信の言葉に、三郎が「そうか……」とうなだれる。


「言われてみりゃ、都から奥州へ歩くのはものすごく日にちがかかった気がする」


 三郎は牛若の方を見た。


「牛若さま、どうしましょう……?」


 いつの間にか、牛若は空を見上げていた。


「秀衡さま……」


 その名が、雨の中に落ちていく。見ると、牛若の目には急に光が戻っていた。


「私は会いたい、秀衡さまに……!」


「ですよね! そうですよね!」


 三郎は牛若のうれしそうな顔を見て喜んでいる様子だ。


「秀衡さまなら、義経さまを必ず快く守って下さいます」


 忠信は安心したように胸を張る。


「配下だった忠信が言うなら大丈夫だろう」


 駿河も納得した様子だった。


 弁慶は奥歯を噛み締めていた。頼朝に捨てられ、追われる身となった牛若が、牛若の全てを受け入れ、情愛しか注がなかった老人の元へ帰ろうとしている。


(――だが、もう時勢は変わった)


 忠信でさえ、牛若を愛するあまり気づいていない。法皇を思い出すがよい。どんなに牛若を心から愛していようとも、たった一人の人間のために朝廷を滅ぼす勇気は出せなかったではないか。秀衡も同じにちがいない。どんなに目に入れても痛くない牛若であっても、牛若一人のためにあの黄金の平泉を滅ぼす勇気は、さすがのあの老人にも持てないはずだ。


 秀衡は心苦しさは持ってくれるかもしれないが、牛若を平泉に匿ったりはしないだろう。追放されるだけならまだしも、囚われの身になるだけでなく、下手したらその場で誅殺されるかもしれない。


 弁慶は深く息を吸い込むと、ぎゅっと拳を握りしめた。追われる身で馬を持たない今、奥州は遠い。牛若をこれから長い時間をかけて、平泉まで送り届ければよい。そこで秀衡に拒絶されたら、ついに牛若を受け入れる者はいなくなる――弁慶以外に。


「奥州の平泉、よい目的地かもしれませんわ。ですが」


 郷御前が冷徹な声で言った。


女子(おなご)の静御前に、徒歩での長旅は難しいのでは」


「そうか……それに、帳面ねえさんも女子だしな」


 三郎はしまったという表情になっていた。


「いいえ、私は関東の田舎娘ですので、足腰は強いですの。山道だろうとなんだろうと大丈夫ですわ。問題は静御前ですわ」


「帳面ねえさん、頼もしいな。だけど静御前は……」


 三郎が言葉を濁す。鷲尾も忠信も駿河も、そして牛若も、静御前の方を見つめていた。


 静御前は濡れた法衣の袖を握りしめていた。目は牛若の方を真っ直ぐに向いていた。


「ご安心を。私は自分の意思でついてきているのですわ。ご心配なく」


 気丈な声は凛と響いた。


 郷御前はしばらく静御前を見つめた後、小さな息を吐いた。


「分かりましたわ。私が静御前のお手伝いをいたしますわね。これから私たちは偽の山伏に化け、奥州へ目指すことになりますわ」


「そうと決まったら準備だな! 静御前、俺もお助けしますよ!」


 三郎が元気な声を張り上げる。皆が郷御前の整理した荷物に注目していた。準備が始まる。


 荷の中には、偽山伏の法衣や金剛杖など、充実した道具がそろっていた。


 法衣や荷物の中に武器を隠し持つことにする。短刀や短剣は衣の内側へ。残った太刀は荷の底へ。弁慶の長刀も、杖と包み荷に分けて隠すことになった。


 牛若は、濡れた法衣の袖を握ったまま、遠くを見ていた。


「秀衡さま……」


 その声は、頼朝を呼んだ時とは異なり、安心に満ちた柔らかい声だった。


 冷たい雨に、白いものが少しずつ混じり出す。


「……雪か?」


 三郎が空を見上げた。


「そうだな。山へ入れば、もっと冷える。いろいろ中に着込むことにしよう」


 駿河が答える。


 牛若は、白くちらつく空を見つめていた。その目はもう、海の向こうを見てはいなかった。弁慶はその背中を静かに眺めていた。

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