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影の弁慶〜義経ものがたり〜  作者: 甲田太郎
下巻 第四部 影の完成

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第七十話 都落ち

 夜討ちの後に残った慌ただしさは、いつの間にか消えていた。


 縁側の弁慶の手元には、牛若の太刀と短刀がある。腰を下して庭を眺めている牛若はそれを見ようともしない。


「――九郎」


 奥から行家の声が飛んできた。いつも酒ばかり飲んでいたのをぴたっとやめたらしく、この男らしくない凛々しい表情でさえある。


「行くぞ。法皇さまに頼朝追討の院宣(いんぜん)を頂くのじゃ」


「……はい」


 牛若の返事は少し遅かったが、声はしっかりしていた。


 弁慶はその横顔を見ていた。牛若の口から兄上という言葉は出ない。もう聞くことがないかもしれないと思うと、不思議とこちらの気も落ち着いてくる。




 法皇の御所へ向かう道は、いつもより遠く感じられた。


 牛若は太刀を帯びていない。弁慶は牛若の刃物を背中に隠しながら、いつも通り長刀で護衛をした。三郎たちは屋敷に置いてきた。


 御所に着くと、取り次ぎの者は牛若が行家を連れてきたことに驚いた様子だった。弁慶たち従者は庭の向こうに控えて様子を伺う。


 法皇の前へ出ると、牛若より先に行家が勢いよく頭を下げた。


「法皇さま、お久しゅうございまする」


「うむ、久しぶりであるの」


 法皇の声は穏やかではあったが、牛若に対するような温かさはなかった。


「九郎……?」


 その声は動揺していた。牛若の様子に気づいたのだろう。


 牛若は頭を下げたままだった。肩に力が入っていない。


「法皇さま」


 行家は、落ち着いた声を響かせた。


「鎌倉の頼朝は武威を笠に着て朝廷を軽んじるばかりか、この九郎を殺すために刺客を都へ入れる始末にございます」


「夜討ち……」


 法皇の目が細くなった。


「あの騒ぎ、ただ事ではないと朕も思っておった。相手は頼朝の手の者であったか」


「九郎は朝廷に仕える検非違使の身。これは朝廷の御秩序を踏みにじる振る舞いにございます」


 行家の声はよく通った。酒さえ飲まなければ、案外頼朝などよりはずっとましな男なのかもしれない。言葉も朝廷と武士の理をよく理解しているように見える。


「頼朝をこのままにしておけば、次は法皇さまの御所にも武士が入りましょう。九郎を殺し、行家を殺し、次は朝廷を黙らせるつもりにございましょう」


 行家はそのまま間髪入れずに言葉を続けた。


「したがいまして、頼朝追討の院宣を賜りたく存じます」


「い、院宣か」


 驚いた声を出すなり、法皇はぎこちなく息を吸い込んだ様子だった。


「すなわち、鎌倉の頼朝を、討つのか……?」


 その声にはさすがに迷いがあった。


「九郎……?」


 法皇の言葉に、牛若はゆっくり顔を上げた。


「あの……その……」


 牛若の声は少しだけ震えていた。行家は仮病の時のように牛若に言うべき言葉を授けたわけではなかった。牛若は自分の意思で、隣の叔父に付いてきたはずだ。


「何卒……お願いいたします……」


「そんな怯えた顔をしないでおくれ」


 法皇の声に焦りが浮かんだ。法皇が牛若の元へ歩み寄ったのが見えた。牛若の手をとり、握りしめているようだ。


「法皇さま……?」


 牛若の声はあどけない。弁慶は両手の拳を握りしめた。


「よいよい。鎌倉の頼朝など、討ってしまうのがよいのじゃ」


 法皇の声は震えている。感情のままに言葉を発しているのが弁慶には分かった。


「九郎を殺そうとするような不届者を、許す道理などない。そんな穢れた者は討てばよい。九郎が生きていて、朕は本当にうれしいぞ」


 段々と言葉が早口に代わり、雅さを失っていくのが見える。法皇は目の前の怯えた牛若に焦っているのだ。


「院宣など、すぐに出す。さっさと朝敵を討ち、また笑顔を見せておくれ」


「ありがとうございます……」


「法皇さま、ありがたき幸せにございます」


 横から行家が口を挟んでいた。そのまま院宣の手続きについて話を進め始める。


 行家が際どい嘘を並べ立てる必要があるかと思いきや、牛若の怯えた表情に老いた王者は勝てなかったようだ。牛若に対する情愛は一応本物なのかもしれない。鎌倉の頼朝を朝廷が敵に回すのは正気の沙汰ではなさそうだが、法皇はすでに正気を失っているのだろう。




 院宣を得た行家は意気揚々としていた。屋敷へ戻るなり、あちこちへ人を走らせる。法皇の名があれば、都中の武士が集まる。そう信じているようだった。


 だが、いくら待っても人は来なかった。翌日も、その翌日も、屋敷の門は静かだった。使いの者が来ても、用件は曖昧だった。返事を濁し、頭を下げ、すぐに帰っていく。


「なぜ集まらぬ」


 行家は苛立っていた。


「法皇さまの院宣じゃぞ」


 三郎は縁に腰を下ろし、庭を見つめていた。


「御家人さんたちは、もうみんな帰っちまったんじゃねえか?」


「九郎さまの戦でのご活躍を見た者は、ほとんど都に残っておりませぬ」


 駿河が残念そうな口調で言うと、忠信も肩を落として頷く。


「この屋敷に長らくいた多田行綱殿も、鎌倉から追放処分を受けたまま。今は行方が知れませぬ」


「仕方ありませんわ」


 郷御前の声も口惜しそうだった。


「生身の義経さまを知る武士が、今の都には少なすぎますの」


「なるほど九郎さまの魅力は、院宣という紙切れだけでは伝わりますまい」


 駿河も納得した様子だった。


「九郎、わしがこの屋敷で酒ばかり飲んでいるうちに、随分な活躍をしたのにの。不思議なものじゃ」


 行家の口調が以前よりも芯が通っているのが癪に触るが、今はこちらの味方のつもりのようだ。


 皆が一様にため息をつく。


 牛若は静の横で庭を見つめていた。頼朝との同居を夢見て整えた石が随分あったが、土佐坊に踏み荒らされたままになっている。庭としては整え直されたが、あの時のような思い入れはもうなさそうだ。


「――こうなったら、西国(さいごく)じゃな」


 行家が思い立ったように言った。


「あちらはもともと平家の根城ゆえ、鎌倉の源氏の手の届かぬところがまだまだ多いはず。西国に渡って勢力を立て直すのじゃ」


「あんた、たまには面白いことを言うじゃねえか」


 三郎も少し乗り気のようだ。


「平家の都落ちと同じよ。郷殿も静殿も連れて行けばよい」


「光栄ですわ」


 冷徹な声で郷御前が返す。


「しかしながら、西国への港に行くまで、ずっと行列で移動するのは人目につきますもの。先に私たち女子(おなご)を含む分隊が大物浦(だいもつうら)へ向かうのがよろしいですわ。義経さまがおいでになる前に、船と宿を整えますの」


「妙案ですわね」


 静御前も同調し、牛若を見つめた。


「判官さまが大物浦へおいでになるまで、静もそこでお待ちしておりますわ」


「静……?」


 牛若の声は不安げだった。


「離れてしまうのか……?」


「いいえ、先にお待ちするだけですわ」


 静御前の声は穏やかで、幼子に言い聞かせるように温かかった。


 郷御前は構わず続けた。


「船、宿、荷、食べ物、身の置き所。誰かが整えねばなりませんもの」


「護衛にはわしの手の者をつけよう」


 行家が即座に言う。


「あんたに家来なんかいたのかよ? 心配すぎるぜ」


 三郎が言うと行家は「馬鹿にするでない」と胸を張った。


「山伏のふりをしていた頃の偽山伏仲間なら、都の空っぽの古寺に潜んでおるわ」


「あんたらしい胡散臭い連中だな」


「失礼なことを申すな」


「大丈夫な気がいたしますわ」


 郷御前は珍しく行家の肩を持つようだ。


「それだけ胡散臭ければ、かえって怪しまれにくいですの。武具よりも、僧衣の方が今は何かと役に立ちますわ」


「さすが帳面ねえさん!」


 三郎が元気よく言うと、郷御前は眉間にしわを寄せた。行家も苦々しい顔をしている。


「弁慶殿」


 郷御前は弁慶へ突如鋭い目を向けた。


「私たち女子(おなご)は義経さまをお待ちすることしかできませんわ。丸腰の義経さまのことは、あなたさまがちゃんとお守りなさいませ」


「言われずともそのつもりだ」


 弁慶は吐き捨てるように言った。この女に妙な管理をされるいわれはない。


「また肝心な時に寝過ごしたりしたら大変ですわ。丸腰の義経さまは戦えませんのよ」


「なに……!」


 意に反して胸をえぐられるような記憶が蘇る。牛若が一人で戦っていたこの庭。赤く腫れた目。畳に転がった短刀。……いちいち癪に触る女だ。


「ふん、うるさい」


「同意の言葉と捉えますわ」


 郷御前は冷徹な声で言うと、そのまま静御前の方へ向き直った。


「磯禅師殿はどうされますの?」


「――それは……」


 静御前が口ごもっていると、台所の方から当の本人が姿を表した。


「私めは、都に残らせて頂きます」


 静御前のそばに座って温かい目を向けると、郷御前や三郎たちを見回した。


「静を、どうかお願いいたします」


 磯禅師は牛若へ頭を下げた。


「聞いておりました。西国で立て直すとはいえ、この老婆めは道中の足手まといになります。皆さまをお見送りした後は、都で鎌倉の目の届かぬところに身を隠します」


「お母さま……」


「また娘と会える日、皆さまと会える日を楽しみに待っております」


 再度深々と皆に向かって頭を下げる磯禅師を、三郎たちは口々に慰めた。




 それから屋敷の内外は忙しくなった。行家はまだあきらめずに都中を駆け回って加勢を募り続ける。


 屋敷の中に、都の頼りない武士たちや、行家の連れて来た僧兵なのか何なのかよく分からない胡散臭い連中が集まり出していた。行家が一人一人に今後の指示を伝えているところだ。


「――兄上」


「能成……?」


 突如縁側の牛若の前に現れた、一条能成(いちじょうよしなり)の格好に弁慶は驚いた。貴族のはずが、ぎこちない武者姿になっていたのだ。


「兄上。私も加わらせてください。弟として、兄上のために働きとうございます」


 牛若は穏やかな目で能成を見ていた。


「その気持ちは、うれしい」


「兄上、私は……」


「だが、危ないところへは連れて行けない」


 牛若の声音は優しかったが、いつになくさらっと言い切ってしまっていて、鋭ささえあった。武士でないから、などということを考えているわけではなさそうだった。


「兄上……」


「すまない」


 能成はそこで口ごもってしまった。強く拒まれたわけではなくても、牛若の心が自分の側にないことを悟ったにちがいない。


 牛若は弟に優しくしてやっているつもりかもしれない。だが母の常盤に会えないつらさが無意識に壁を作っているのだろう。


「ですが、兄上――」


 能成はごくりと唾をのみ込むと、先ほどよりも強い声音となった。腹から声が出ている。


「この能成、決して足手まといにはなりませぬ。また、弟として扱って頂かなくても結構にございます。ただ従者の一人としてお使い下さいませ」


(弟の、甘えた感じがなくなった)


 弁慶は珍しくこの世間知らずそうな貴族に感心した。覚悟を決めたのだろう。


「そうか……私のそばに人が多いのは、うれしい」


 牛若はわずかに微笑んだだけだった。「ありがとうございます、兄上……!」と能成は無邪気に喜んでいるようだったが、牛若は能成の目を見てはいなかった。牛若の微笑を見つめているうちに、弁慶の胸の中は少しずつ落ち着き始めていた。




 牛若は弁慶の護衛のもと、わらび姫の邸にたどり着いた。弁慶は主の斜め後ろに控える。


「――九郎さま、お待ち申し上げておりました……!」


 わらび姫は頬を染めながら、牛若をうれしそうに歓迎した。後ろには平時忠の息子の時実がいる。時実の表情からは警戒が見てとれた。妹を西国に連れ去ってしまうのではと怖れているにちがいない。


(あの腹黒な貴人はどこへ行った)


 時忠の姿が見当たらない。牛若もきょろきょろと見渡している。


「このわらびを、西国へお連れ下さるのですね。準備はできております」


 その美しい顔からは牛若への愛しさが滲み出ていた。なるほど、この女は牛若のことを本気で慕っているらしい。牛若はずっと会いに来ていなかったのに、奇妙なものだ。


 牛若は遅れてわらび姫が返事を待っていると気づいたようで、そっと向き直る。


「すまない。そなたを連れては行けぬ」


 わらび姫は、その言葉の意味をすぐには受け取れなかったようだ。


「――なんと……」


 わらび姫の目に涙がたまっていく。


「私は、あなたさまの妻にございますのに。……六条堀川の奥方さまは西国へお連れになるとお聞きしました。なぜ私だけ、置いていかれるのですか……」


 牛若は言葉に詰まったようだった。


「いや、それは……」


 全く予想外だったようで、すぐには言葉が出てこない。


「そなたは……都にいた方が合っている」


 優しい口調だったが、わらび姫は耐えられなくなったのか、声を殺して泣き出した。だが牛若は時実に視線を移している。


「時実殿――」


 呼ばれた方は、さっきまでよりも穏やかな表情をしていた。牛若が妹を連れ去らないことが分かったからだろう。


「九郎さま、ご無事を祈っております」


 その言葉に抑揚はほとんどない。これで牛若と別れられる、妹も安泰だと安堵した表情だった。だが牛若は構わず「時実殿……」と繰り返した。


「そなたの父の時忠殿は、今どこにおられるのでしょう」


 牛若の声には力が込められている。牛若が一番会いたかったのはわらび姫ではなく時忠であることを、この息子は知らないにちがいない。


「父上は、もう都にはおりませぬ」


「えっ……」


 牛若はひどく驚いた声を出した。なるほど、これは弁慶も予想外だった。


「ここからお逃げになったのか?」


 そういう声はひどく動揺している。捕虜を預かっていた元総大将にしては不思議な言葉ではあった。牛若は、あの時忠の心地よい労いの言葉がほしかったのだ。牛若の全てを肯定してくれる、白々しく甘い言葉を。


 涙が乾きかかっているわらび姫は、呆然と牛若を見つめている。


「いえ、九郎さまはご存じないのでしょうか? 鎌倉から早く配流を行えという沙汰があり、父上は能登国(のとのくに)へ流された次第にございます。流されたとは申しましても、自身の意志で向かわれましたが。私はまだかろうじてここにおります。……そう言えば」


 時実は思い出したように言葉を続ける。


「父上は、『九郎殿に会えぬのが残念だ』と常々申しておりました。九郎殿のおつらい気持ちを代わってあげたい、とも」


(さすが、白々しい腹黒さであるな。息子の処遇がよくなるよう、知恵のある言葉を吹き込んだのであろう)


 牛若の心を翻弄するあの貴人を観察することができないのが、弁慶には少し残念に思えた。


 だが次の瞬間、時実がぎょっとした目になったものだから、弁慶は何事かと目を見開いた。


「九郎さま……?」


 そのつぶやきにつられて見ると、牛若が泣いていた。弁慶が何度も見てきた、天界の稚児の清らかな涙だった。


「一体どうなされました……?」


 時実の声が無様に動揺する。わらび姫も呆気に取られている。


「申し訳ありませぬ……!」


「ん、何が……?」


 牛若は泣きじゃくり続けた。時実はわけが分からないらしく、おろおろしてしまう。


「時忠殿を、お守りしたかったのに……私が自分のことで頭がいっぱいになっている間に、そんな遠くへ行ってしまわれるとは……!」


 奇妙な悲しみではある。一方、鎌倉が牛若に告げずに勝手に時忠を引き剥がしていたこともこれで判明した。頼朝はもっと前から牛若を消す策謀を続けていたのだ。


「もう私は……このまま西国へ行かねばならぬのです……。時実殿も、わらび姫も、お守りすることが、できませぬ……!」


 嗚咽が止まらなくなっている。牛若は時実を真っ直ぐ見つめていた。なるほど、その顔は父の時忠にそっくりだ。時実を見ていると時忠のことを思い出すのだろう。


「九郎さま……?」


 後ろからわらび姫が遠慮がちにつぶやく。いつの間にか彼女は蚊帳の外だった。


(守りたいのは、わらび姫ではなく、能登の腹黒い貴人だった。目の前にはその代わりの息子しかいないのだ――)


「わ、分かりました……」


 時実は焦りを隠せなくなっている。目の前で突如牛若が泣き出し、しかも自分を真っ直ぐ見つめているのだ。


「九郎さま、何卒泣き止まれますよう……」


 時実はわらび姫の代わりに牛若の身体を抱き寄せた。後ろに取り残される形になったわらび姫は、事態が飲み込めず目に涙を溢れさせたまま呆然としている。


「九郎さまの、真心はよく分かりました……」


 そう言う目が微かに潤んでいるのを、弁慶は見逃さなかった。


(何をもらい泣きしているのだ)


「顔を上げられませ。この時実、恥じ入るばかりにございます……」


 それは密かな吐露であったろう。時実も父の策謀は理解していたにちがいない。


「西国に行く我が身、能登などへはとても行けず……時実殿のお父上をお救いすることができず、誠に申し訳ありませぬ……う……」


 牛若は泣きじゃくったまま、時実の肩に寄りかかっていた。時実はその背中を懸命にさすっていた。


(――実に奇妙なものよ)


 つられたように、涙が乾きかけていたわらび姫も声を上げて泣きじゃくり出した。気づけば時実までもが、押し殺すような嗚咽を漏らしている。


(天界の稚児の清らかさを、甘く見ていたのであろう)


 時実が、突然涙を流してしまっている。牛若の清らかさに触れ、正気を失ってしまったにちがいない。突如牛若を抱き止めているのは癪に触るが、弁慶は握りしめていた拳の力を緩め、静かに息を吐き出していた。


「九郎さま、この時実を……!」


 時実は思い詰めたような不思議な声音で続ける。


「この、時実を、西国までお連れ下さい」


(何を言う。完全に正気を失いおったか)


「時実殿……?」


「私は、九郎さまの元で働きたいのです。父上はもう能登でただ生きるだけの身。わらび姫は都にいた方が安全ですが、私は武士の端くれとして、九郎さまをお守りしたい」


 支離滅裂な言葉だった。正気を失ったまま、感情のままに言葉が飛び出ている様子だが、その目は妙な真剣さを帯びていた。


「――その言葉、うれしゅうございます……」


 牛若のその言葉は、承諾の言葉でしかなかった。


 他の者と同じく、時実もまた牛若に吸い寄せられたのだ。


 いつの間にか兄に置き去りにされることになった、いささか哀れなわらび姫は、二人のやりとりを呆然と見つめていた――何も言えないまま、泣き腫らした目で。




 いよいよ屋敷から出発する日となった。郷御前や静御前は、行家の連れてきた胡散臭い偽山伏集団に、似たような法衣で紛れ込むことになった。彼女たちは先に出発する。


「義経さま、これからの道中はお気をつけ下さいませ」


「判官さまのご無事をお祈りしていますわ」


 牛若は名残惜しそうに「後で必ず会おう」、と寂しい声をつぶやく。


 別働隊を見送ると、牛若は最後の法皇のもとへ挨拶へ行くことにした。弁慶も後ろから護衛する。すでに目的を達した行家は同行しないようだ。


「――法皇さま、我らはこれから西国へ参ります」


 牛若のその声は、いつもと同じように透き通っていた。


「九郎……!」


 法皇の声はひどく動揺していた。


「話は聞いておる。都では味方が集まらなかったようじゃな。力になれずすまぬの……」


 牛若は答えず、深々と頭を下げていた。これまでの思い出が頭をよぎっているのかもしれない。


 法皇は黙り込んでいるように見えて、震える息の音だけが目立っていた。牛若をじっと見つめているのが分かる。


「――九郎、そなたに伝えておかねばならぬことがある……」


 法皇の声の震えはひどく頼りなかった。


「――はい」


 今日の牛若は、ほんの少しだけ堂々としていた。透明な声がよく響く。


「これは大人の世界の話じゃ」


 牛若は法皇を上目遣いに、遠慮がちに見上げていた。


「朕は、そなたのことを心から愛しく思っておる」


 法皇は震えながらも力強い声で言った。それを聞いている弁慶の胸の奥は苛立ちが混じる。


「だが……噂によると、鎌倉では頼朝が北条時政に命じて兵を集め、京へ向かう構えを見せておるとのことであった……。やつが、この朝廷に攻めてきた場合……朕にはそれを跳ね返す武力がないのじゃ……」


 牛若は微動だにせず、ただ法皇の言葉に耳を澄ませているようだった。


「その……」


 法皇は、ひどく言いにくそうに口ごもっている。


「もし――頼朝の差し向けた大軍から……その、考えたくもないが……もし、九郎追討の院宣を迫られれば……朕は……この朝廷を滅ぼす勇気までは、出せぬのじゃ……すまぬ……」


 震える声で言い終えた法皇の目から、涙がこぼれ落ちたのが弁慶にも分かった。牛若は何も答えない。法皇は咄嗟に牛若の元へ駆け寄り、その身体をためらいなく抱きしめる。


 弁慶は冷ややかにその光景を見つめていた。


「のう、九郎……この卑怯な老人を、どうか許しておくれ……」


 痛ましい沈黙が落ちる。


 なるほど院宣を出した日、法皇は牛若の怯えた顔に負けていた。あの時の牛若を守りたいという情は、本物だったにちがいない。


 それでも今、その同じ法皇が、牛若一人を守るために朝廷を滅ぼすことはできないと泣いているのだ。


 法皇の情愛は本物でも、牛若を救うには足りない。この老人は、牛若を守りきれないと言っている。


「法皇さま……」


 牛若の声が、ようやく震えた。


「そのお言葉――誠にありがたく存じます……」


(――清らかな心を持つ天界の稚児は、この老人を責めはしないのだ)


 牛若は法皇の心を真っ直ぐに受け取っているようだった。法皇は顔を覆うようにして泣き崩れた。


「すまぬ……すまぬ……朕に、もう少し力があれば……」


 それは王者の声などではなく、たださめざめと泣く老人の愚痴だった。


「朕は……卑怯者じゃ。朝廷を滅ぼす勇気……そなたを守るために、この朝廷を賭ける勇気も出せないのじゃ……」


「法皇さま。そのお言葉、うれしゅうございます」


 (牛若さまは、法皇が説明する理ではなく、情愛だけを受け取っている――)


 法皇は必死に謝罪しているつもりなのだろう。だが牛若にそのような複雑な言い訳など聞こえはしない。ただ法皇は、牛若の心を今だけ満たしているようだった。


 弁慶は拳をそっと握りしめた。


「朕は……卑怯者じゃ……そんな、優しい言葉ばかりそなたから受け取ると、朕はますます悲しくなる……」


「法皇さま、私は大丈夫にございます」


 牛若の声にも涙が混じり出していたが、それでも普段よりは力強かった。


「九郎……九郎……どうか、どうか生きておくれ……」


 法皇は消え入りそうな声で、泣きじゃくりながら懇願するように、その言葉を必死に繰り返した。


「――法皇さま、大丈夫にございます……」


 牛若も涙に濡れた声で法皇を慰めようとしていた。


「私は空を飛んだと言われたような存在ですゆえ、そう簡単には死にませぬ」


「ふむ、そうであったな……」


 法皇は昔語りを思い出して笑おうとしているらしいが、胸がいっぱいになっているのか、ただ乱れた呼吸が嗚咽と共に聞こえるだけだった。


 牛若はまた深々と頭を下げた。


 法皇も牛若も涙を流し続けていた。法皇は牛若を長い間、無言で抱きしめていた。ただ震える老いた吐息だけが漏れていた。


「――法皇さま」


 牛若の声がよく響く。


「そろそろ、参りませぬと」


「――うむ。そうじゃな……達者でいるのじゃぞ」


「――はい、法皇さま」


 牛若は力強く答えると、確かな足取りでゆっくりと退出した。弁慶はその後ろをゆっくりと付いていく。


 心の中で弁慶は、都という場所にそっと別れを告げた。

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